【27-2】神と宗教(2)
文字数 2,429文字
「先程ご説明いただいたように、あなた方<神>にとって、人間が発する感情の多くは、有害な不純物だからです。
私は10年以上前にその事実を、今私の精神世界に存在する<神>から教えられました。
そして<神>とその世界に、人間の世界と類似したイメージを持ち込むことには、人間と共通する性質、傲慢さや残忍さの様な性質まで、<神>に付与する結果となったのではないでしょうか。
あなた方のお話しを聞く限り、それは<神>の本質とはかけ離れたものだと思われます。
しかし、その様な<神>の具象化の結果として、人間は尊崇や畏敬の念だけでなく、他の人間に対するのと同様の、憎悪や嫉妬などの有害な感情まで、<神>に対して抱くようになったのではないかと考えました。
つまり、人間が<神>に向かって、有害な感情を含むエナジーを発するようになったと推測したのです」
「汝の話は興味深いが、吾が所属していた共同体を信仰していた、キリスト教という宗教の考え方と、汝が今語った話とでは、<神>という存在の在り様が随分異なっているようだ。
汝はキリスト教徒が規定する異教徒について話しているのか」
「仰る通りです。蔵間先生は異教の神々についてご存じですか?」
「知っているが、直接接触する機会は稀であった。
しかし、異教の人間たちが信仰していた者たちも、吾等と同じ存在であった。
ただ異なる共同体に所属しているというだけだった」
「それは、あなた方キリスト教の<神>の共同体が、他の異なる宗教の<神>の共同体と、互いに交流を持つことがあったということでしょうか?」
「そうだ。吾等と同様の存在は嘗てこの世界のいたる所に存在し、一定規模の共同体を形成していたという情報を、吾は記憶している。
吾等は互いに積極的な接触を試みることはなかったが、偶発的に接触した場合には、互いの持つ情報を交換していた。
勿論吾等の間では、人間の様に、互いを排斥しようとする行為は行われなかった。
その様な行為は吾等にとって無益であり、そもそも吾等は、他を排斥する機能を備えていないからだ」
「ああ、やはりそうでしたか。
あなた方の間に存在としての差異はなく、互いに相争うこともなかったのですね?
神々の間の境界を決めていたのは、やはり人間だったのですね?」
「その通りだ」
「その通りです」
2人が同時に答える。
更に未和子は付け加えた。
「人間とは、必然性のない場所にまで境界を設けようとする不可解な生物です。
何故そのような、意味のない願望を持つのでしょうか?」
「一つは生物としての生存競争だと思います」
「その点は理解出来ます。
他の生物にも共通して存在する性質ですから。
しかし競争が必要でない対象に対しても、人間が様々な境界を設ける事実を私は知っています。
例えば、私には認識出来ませんが、皮膚の色彩がその1例です。
それは何故ですか?」
「そのご質問にも、先程と同様に答えを持っておりません。
申し訳ありませんが」
「貴方が謝罪する必要はありませんが、人間自身にも説明出来ない理由で、そのような行為を行っているのですね。
その様な人間の性質は非合理的で、やはり私には不可解です」
「今はその理由について議論すべきではあるまい。
それよりも先の話を進めようではないか」
2人の対話を聞いていた蔵間が、そう言って未和子を制した。
未和子も、「そうですね」と言って同意する。
「ありがとうございます。では話を進めましょう。
我々九天応元会では、所謂エイブラハムの宗教――ユダヤ教、キリスト教及びイスラム教について、長年に渡って研究してきました。
その教義は勿論のこと、その歴史、教団の組織構成など、あらゆる側面からアプローチを行い、一つの仮説に到達しました。
ここからはその仮説についてご説明したいと思いますが、よろしいでしょうか?」
蔵間父娘は無言で首肯した。
「紀元前13世紀頃カナンの地で、神ヤハウェに対する信仰が生まれました。
やがてバビロン捕囚の苦難を経て、その信仰は強化され、ユダヤ教として発展していきました。
ユダヤ教では神ヤハウェが唯一神であり、この世界の創造神であるとされています。
そして<神>を絶対者、つまり人間の些細な感情など遠く及ばない、遥か高みに置きました。
さらに偶像崇拝を厳しく禁じ、その姿を徹底的に抽象化しています。
また<神>との契約と歴史、<神>に選ばれた者を通じて語られた予言、教義や戒律は聖典の中に集約しています。
これは非常に合理的なシステムと言えるでしょう。
何故ならば、<神>を絶対的位置に置くことで、人間の憎悪や羨望などという、ちっぽけな感情の、対象外の存在として定義したからです。
即ち<神>に向けて人間が発するエナジーを、<神>への尊崇や敬慕という1点に純化することが可能になります。
そして<神>の姿を抽象化することで、多神教にみられる信仰対象の偏重、つまり特定の姿形として定義された、個としての<神>への信仰心の集中を、ある程度回避することが出来ます。
さらに聖典という明文化された教義と戒律で、集団としての信徒の繋がりを強化することが出来ます。
<神>ヤハウェが創造したそのシステムは、1つの宗教的革新だったのではないでしょうか。
しかし一方でユダヤ教は、おそらくそれは<神>の意思ではなかったのでしょうが、その教義に選民思想などの要素を取り込むことによって、民族宗教としての枠組みの中から出ることが困難でした。
それは現在も、教徒の75%がイスラエル国内に偏在していることからも明らかでしょう」
林はそこで一旦言葉を切った。
永瀬は、仮にも宗教団体である九天応元会が、<神>を単に信仰の対象として仰ぎ見るのではなく、システムという観点から分析していることに、新鮮な驚きを覚えていた。
宗教自身が、その様に客観性をもって宗教を見ているのだ。
それが<神>の実在を前提としているとは言え、ある種の科学的仮説を聞いているようで、永瀬の学究としての好奇心を刺激するのかも知れない。
私は10年以上前にその事実を、今私の精神世界に存在する<神>から教えられました。
そして<神>とその世界に、人間の世界と類似したイメージを持ち込むことには、人間と共通する性質、傲慢さや残忍さの様な性質まで、<神>に付与する結果となったのではないでしょうか。
あなた方のお話しを聞く限り、それは<神>の本質とはかけ離れたものだと思われます。
しかし、その様な<神>の具象化の結果として、人間は尊崇や畏敬の念だけでなく、他の人間に対するのと同様の、憎悪や嫉妬などの有害な感情まで、<神>に対して抱くようになったのではないかと考えました。
つまり、人間が<神>に向かって、有害な感情を含むエナジーを発するようになったと推測したのです」
「汝の話は興味深いが、吾が所属していた共同体を信仰していた、キリスト教という宗教の考え方と、汝が今語った話とでは、<神>という存在の在り様が随分異なっているようだ。
汝はキリスト教徒が規定する異教徒について話しているのか」
「仰る通りです。蔵間先生は異教の神々についてご存じですか?」
「知っているが、直接接触する機会は稀であった。
しかし、異教の人間たちが信仰していた者たちも、吾等と同じ存在であった。
ただ異なる共同体に所属しているというだけだった」
「それは、あなた方キリスト教の<神>の共同体が、他の異なる宗教の<神>の共同体と、互いに交流を持つことがあったということでしょうか?」
「そうだ。吾等と同様の存在は嘗てこの世界のいたる所に存在し、一定規模の共同体を形成していたという情報を、吾は記憶している。
吾等は互いに積極的な接触を試みることはなかったが、偶発的に接触した場合には、互いの持つ情報を交換していた。
勿論吾等の間では、人間の様に、互いを排斥しようとする行為は行われなかった。
その様な行為は吾等にとって無益であり、そもそも吾等は、他を排斥する機能を備えていないからだ」
「ああ、やはりそうでしたか。
あなた方の間に存在としての差異はなく、互いに相争うこともなかったのですね?
神々の間の境界を決めていたのは、やはり人間だったのですね?」
「その通りだ」
「その通りです」
2人が同時に答える。
更に未和子は付け加えた。
「人間とは、必然性のない場所にまで境界を設けようとする不可解な生物です。
何故そのような、意味のない願望を持つのでしょうか?」
「一つは生物としての生存競争だと思います」
「その点は理解出来ます。
他の生物にも共通して存在する性質ですから。
しかし競争が必要でない対象に対しても、人間が様々な境界を設ける事実を私は知っています。
例えば、私には認識出来ませんが、皮膚の色彩がその1例です。
それは何故ですか?」
「そのご質問にも、先程と同様に答えを持っておりません。
申し訳ありませんが」
「貴方が謝罪する必要はありませんが、人間自身にも説明出来ない理由で、そのような行為を行っているのですね。
その様な人間の性質は非合理的で、やはり私には不可解です」
「今はその理由について議論すべきではあるまい。
それよりも先の話を進めようではないか」
2人の対話を聞いていた蔵間が、そう言って未和子を制した。
未和子も、「そうですね」と言って同意する。
「ありがとうございます。では話を進めましょう。
我々九天応元会では、所謂エイブラハムの宗教――ユダヤ教、キリスト教及びイスラム教について、長年に渡って研究してきました。
その教義は勿論のこと、その歴史、教団の組織構成など、あらゆる側面からアプローチを行い、一つの仮説に到達しました。
ここからはその仮説についてご説明したいと思いますが、よろしいでしょうか?」
蔵間父娘は無言で首肯した。
「紀元前13世紀頃カナンの地で、神ヤハウェに対する信仰が生まれました。
やがてバビロン捕囚の苦難を経て、その信仰は強化され、ユダヤ教として発展していきました。
ユダヤ教では神ヤハウェが唯一神であり、この世界の創造神であるとされています。
そして<神>を絶対者、つまり人間の些細な感情など遠く及ばない、遥か高みに置きました。
さらに偶像崇拝を厳しく禁じ、その姿を徹底的に抽象化しています。
また<神>との契約と歴史、<神>に選ばれた者を通じて語られた予言、教義や戒律は聖典の中に集約しています。
これは非常に合理的なシステムと言えるでしょう。
何故ならば、<神>を絶対的位置に置くことで、人間の憎悪や羨望などという、ちっぽけな感情の、対象外の存在として定義したからです。
即ち<神>に向けて人間が発するエナジーを、<神>への尊崇や敬慕という1点に純化することが可能になります。
そして<神>の姿を抽象化することで、多神教にみられる信仰対象の偏重、つまり特定の姿形として定義された、個としての<神>への信仰心の集中を、ある程度回避することが出来ます。
さらに聖典という明文化された教義と戒律で、集団としての信徒の繋がりを強化することが出来ます。
<神>ヤハウェが創造したそのシステムは、1つの宗教的革新だったのではないでしょうか。
しかし一方でユダヤ教は、おそらくそれは<神>の意思ではなかったのでしょうが、その教義に選民思想などの要素を取り込むことによって、民族宗教としての枠組みの中から出ることが困難でした。
それは現在も、教徒の75%がイスラエル国内に偏在していることからも明らかでしょう」
林はそこで一旦言葉を切った。
永瀬は、仮にも宗教団体である九天応元会が、<神>を単に信仰の対象として仰ぎ見るのではなく、システムという観点から分析していることに、新鮮な驚きを覚えていた。
宗教自身が、その様に客観性をもって宗教を見ているのだ。
それが<神>の実在を前提としているとは言え、ある種の科学的仮説を聞いているようで、永瀬の学究としての好奇心を刺激するのかも知れない。