第84話

文字数 2,407文字

「媚薬? ちょっと前に流行ったエクスタシーみたいなやつか?」
「違うヨ。あれプラセボ効果ねらったインチキ商品ネ。わたしのこれ中国四千年の知恵、中医学の結晶ヨ」
 おれは中国人の手から小瓶を受け取りラベルを確認した。すべて漢字で、しかも中国特有の簡体字なので何が書いてあるのかさっぱり分からない。
「……ようするに漢方の媚薬ってことだろ?」
「おにさんの言う漢方とは和漢薬のことか? ならハズレ。これは中国の伝統医学により作られた薬、すなわち中成薬ヨ」
「中成薬?」
「そう、この小瓶のなかにはニポンじゃ手に入らないような、貴重な貴重な漢方エキス濃縮されてるアル」
 中国人は、得意満面になって説明をはじめた。
「まずは、四川省ローシャンで採れる、土炒当帰。これ女性の感度、飛躍的に高める。もう体じゅう性感帯になって、触れただけでアヘアヘ言ってオーガズムに達するネ」
 おれは恋人である沙百合の顔を思い浮かべた。ほんの数週間前に付き合い始めたばかりで、まだキスもさせてもらってない。あの清楚で純情な女の子がアヘアヘ……。
「お次は、福建省のロンイエンで採れる、紅参ネ。これ性感高めるとともに、体液の分泌うながすな。不感症で悩むあの娘も、あそこヌレヌレでローション要らずヨ」
 沙百合は、高円寺にある高級マンションで医者の両親と暮らすお嬢様だ。どうやら一人っ子らしく、まさに箱入り娘。その彼女がヌレヌレ……。
「最後は、黒竜江省イチュンで採れる、蜚虻。これすごいヨ。超強力的催淫効果で、貞操な乙女もたちまち痴女へと変身。夜になるのが待ちきれず真っ昼間からベッドで足を開いてカモーン」
 おれは沙百合がベッドでM字開脚しながら、カモーンと手招きする様子を思い浮かべてぶっ倒れそうなった。
「よし買った!」
「謝謝。端数はおまけしておくね。一万円でいいアル」
「え、ずいぶんと高いなあ」
「この媚薬には高価な生薬たくさん使われてるネ。値段高いコレ当然のことヨ」
「ううん……まあいっか」
 もはや沙百合のアヘ顔しか頭にないおれは、一万円を支払ってその小瓶を受け取った。
「で、これをジュースにでも混ぜて、彼女に飲ませれば良いわけだな?」
「アイヤー、あなたソレ違うヨ」
 中国人は、首をブンブン振った。
「コレ飲んでも効き目ないネ。アソコに塗るアル」
「なんだって! アソコってまさか……マ……マ」
「そう、まぶたの裏側」
「――え?」
「まぶたの裏側に塗らないと効果ないアル」
「そんな場所にどうやって塗るんだ?」
 中国人は、意地の悪い顔でウヒヒと笑った。
「そんなこと知らないヨ。あなた自分で考えるネ」
「いやどう考えたって無理だろ。まぶたの裏側なんて……」
 おれは急に冷静さを取り戻して言った。
「あのさ……やっぱこれ要らないから、一万円返してくれる」
「アイヤー、それ返品効かないヨ。おにさん頑張ってカノジョに使うアル」
「いや、だからさ」
「わたし急用思い出したヨ。すぐに行かなければならないネ。ではおにさん、再見っ!」
「あ、ちょっと……」
 中国人は風のように去っていった。おれは小瓶を手にしたまま途方に暮れた。
「どうしよう、これ……」
 結局、すごく効く目薬があると嘘をついて、沙百合のまぶたに無理やり塗ろうとしたおれは、強烈なビンタを食らったあげくにフラれた。

 それから数日後の新大久保――。
「おねさんおねさん、これ買わないアルか」
 例の中国人がまたいた。
「なによ、これ」
「超強力な媚薬ヨ。これを使えば、最近お疲れ気味のカレシもギンギンネ」
「えっ、なにそれ、マジ欲しい」
「謝謝。まいどありィ」
「これをビールにでも混ぜて、彼氏に飲ませれば良いわけね?」
「アイヤー、それ飲んでも効き目ないヨ。アソコに塗るアル」
「えっ、アソコってまさか……ちん……ちん」
「そう、のどちんこ」





『山ガール』【りきてっくす→るうね】

 アウト・ドア用品メーカーの陰謀とも知らず、ちまたでは軽装登山する若い女性たちを指して「山ガール」などともてはやす時代である。シマシマ模様のレギンスに、パイル織りのカボチャパンツ、もしくは山スカートと呼ばれるニットのスカートを穿いて、ベロア地の派手なチュニックの上から、てるてる坊主のお化けみたいなフード付きポンチョをかぶる。頭には、なにかのコスプレじみたボア付きのキャップ。足もとは目も眩むような蛍光色のハイキングシューズ。厚塗りした日焼け止めファウンデーションも勇ましく、パステル色鮮やかなリュックには可愛らしいアクセサリーをこれでもかというほどぶら下げている……もう完全に山をナメ切っているとしか思えない。
 山というのは、中小企業のワンマン社長と同じくらいに気分屋でへそ曲がりなのである。
 さっきまで甘い木の香を振りまき、澄んだ風に青葉をしゃらしゃらいわせ、セミが鳴き、小鳥がさえずり、清流のせせらぎに初夏の日差しを反射させていたのが、ふと気づけばその様相は一変し、空にはいつの間にか黒雲がたれ込め、強風が木々の枝をしならせ、氷のように冷たい雨粒が登山者の体を容赦なく打ちつける。
 そのときになって、ああ自分はなんて場違いな格好で山へ来てしまったんだと気づいても後の祭である。
「さあ、今度の休日は仲間と一緒に森林浴を楽しもう!」
 などという無責任なフレーズに踊らされた自分が悪いのである。森林浴どころか頬を張るような大粒の雨だ。
「さあ、都会の喧噪を離れてマイナス・イオンを胸いっぱいに吸い込もう!」
 なんていい加減なキャッチコピーに騙された自分がバカなのである。強風のため満足に息もできず、髪はびしょびしょ、服はずぶ濡れ、ハイキングシューズのなかにまで水が入り込み、歩くとかっぽんかっぽん間抜けな音がする。

 ここは蔵王連峰の屏風岳にかかるハイキングコース、結花とエミリの二人は、重たい足を引きずるようにして雨にぬかるんだ登山道をひた歩みに歩んでいた。
「もう最悪ーっ!」
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