第54話

文字数 1,618文字

 まったく知らない女だった。人違いだろうか?
「あのさ……君だれ?」
 返事はない。
「ひょっとして、俺をだれか他の人と間違えてるんじゃない?」
 やはり反応はなかった。相変わらず目を閉じて、キス待ちのポーズをつづけている。
 俺は困惑して周囲を見まわした。
 そこは駅へ向かう途中近道しようと入った路地で、はじめて通る場所だった。左側は背の高いブロック塀がつづいており、反対側は鉄線で囲まれた雑木林だ。車一台がようやく通れるほどの道幅で、昼間なのに人通りはまったくなかった。
 もう一度女を見た。クリーム色のサマーニットにフリルのついたミニスカート、アクセサリーの人形をぶらさげた小さなリュックを背負っている。――マジ可愛い。
 でも可愛いからといって安易に誘いに乗るわけにはいかないと思った。もし人違いならキスの途中で騒ぎ出すかもしれないし、そうなれば俺は犯罪者だ。
 さらに言うと美人局という可能性もある。どこかに怖いお兄さんが隠れていて「わしのオンナになにさらすんじゃ」と因縁をふっかける。うん、じゅうぶんあり得ることだ。
 シャンプーの香りだろうか、ミント系の良い匂いが鼻をくすぐる。
 じつは俺は、まだ女の子とキスをしたことがなかった。
 高校生のとき一度だけ当時付き合っていた恋人とそういう雰囲気になったことがあるけど、いざこれからというところで彼女が吹き出してしまい、それ以来なんとなくキスという行為を避けるようになってしまった。
 いい歳をして女の子とキスをしたこともないだなんて、ちょっと情けないなとずっと思っていたのだ。そう考えると、これは神が与えてくれたチャンスなのかもしれない。そうだ、この機会を逃してはいけない。もし途中で女が騒ぎ出したり怖いお兄さんが現れたとしても、そのときは逃げれば良いだけの話だ。足の速さには自信があるし、来た道を少し引き返せばすぐに人通りの多い場所へ出られるはずだ。
 据え膳食わぬは男の恥――。
 俺は覚悟を決め、そっと女を抱き寄せた。応じて、彼女の細い腕が俺の背中へまわってくる。腰を抱いてくる。首に巻きつく。あれ?
 俺は仰天した。見れば、いつの間にか彼女の腕が六本に増えていた。それだけじゃない。背中にペルシャ絨毯のような文様の浮かぶ大きな翅を生やしていた。な、なんだこいつ――。
 女がはじめて目をひらいた。瞳のないガラス玉のような目だ。俺は怖くなって彼女から逃れようともがいた。
「……ひっ、バケモノ」
 しかし六本の腕が恐ろしい力で巻きついて離れない。大声で助けを呼ぼうとしたとき、女のすぼまった唇から黒いストローのようなものが伸びてきて、俺の首すじに突き立った。痛いと感じたときには、もう体を動かすことも声を出すこともできなくなっていた。やがて女はチュウチュウ音を立て、俺の体から一滴残らず血を吸い取りはじめた。





『メール』【りきてっくす→るうね】

 今日になってようやく真司からメールがとどいた。初七日の繰上げ法要が終わり、そろそろ自殺の原因がわたしにあるのではと疑われはじめた矢先だからとてもうれしい。【見えなくてもぼくはちゃんと存在するよ】脳をかけめぐる活動電位が失ったなにかを具現化するのか。事故でなくした右手でものをつかもうとする患者のように。地雷で吹き飛ばされた両足で立ちあがろうともがくロマの少女のように。【見えなくてもちゃんと存在するんだよ】赤いクオリアは燈芯草の生える原野、青いクオリアは嘆きの川の渡し守。死者だってメールを打つ道理だ。セド・アベビト・ルーメン・ヴィーテ・セ・ベー・ルー・ヴィー・セ・ベー・ルー・ヴィーやめてやめてその呪文。タナトスの死の衝動がわたしを襲う。メールをひらいてみた。【おまえもはやく来いよ。一人じゃさびしいだろ】照れくさそうに微笑む真司。【了解。すぐに行くから待っててね】顔文字をどれにしようか悩んで不意にその指が止まった。わたしは……知らないうちに泣いていた。
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