第56話

文字数 2,740文字

 すかさずミーシャがソファーから身をおどらせる。
「あ、こら、待てっ」
 あわてて手を伸ばしたけど一瞬早く腕のあいだをすり抜けて、そのままタンスのうえにヒョイと飛び乗ってしまった。体重七キロのデブ猫のくせに、なんて跳躍力 。
「爪切り怖くないよ~、降りておいで~」
 できるだけ優しい声で呼び掛けてみたけど、ミーシャはプイと横を向いたきり動こうとしない。
「だいじょうぶだよ~、今度は痛くしないからさ~」
 じつは一昨日、爪を切るときに誤って深爪してしまったのだ。猫の爪には神経が通っていて、根もとのほうまで切ってしまうとすごく痛がる。だから先端の尖っている部分だけを慎重に切り落とさねばならないのだが、終始ミーシャが落ち着きなく動くせいで、つい手もとが狂ってしまったのだ。
 そうか、それで小指の爪だけ伸びてたんだ。途中で切るの止めちゃったから。
「もうっ、降りてきなさいってばあ」
 どうなだめすかしてもタンスから降りてきそうにないので、仕方なくキッチンテーブルの椅子を引きずってきた。おっかなびっくりそのうえに乗り、背伸びしながらそっと手を差し出す。
「ほら、おいで……。怖くないから」
 なるべくミーシャを刺激しないよう、スローモーションで腕を伸ばしてゆく。あとほんの少しでふわふわした体毛に指がとどくと思った瞬間、またしてもその大きなからだはわたしの手を逃れ、しなやかにジャンプした。いったん本棚へ飛び移り、そこを蹴って、さらに洗濯機のうえに置いてあった籐籠のなかへドサリ。
「あっ」
 思わず声をあげた。ミーシャが逃走の足がかりにした本棚がグラリと揺れ、そこへ飾ってあったハート型の写真立てが床に落ちてしまったのだ。プラスチック製の写真立てはフローリングの床に叩きつけられ、ちょうど真ん中あたりにきれいなヒビをつくった。
「あちゃァ……」
 残骸を拾いあげる。江ノ島のビーチを背景に、仲良く寄り添うわたしとカレシ。ちょうど去年の今ごろ撮ったものだ。その後つまらないことが理由でケンカ別れしてしまったけど、なんとなくまたよりが戻るような気がしてずっと捨てられずにいた。
「なによこれ、みごとにハートブレイクじゃん」
 つい、ため息が漏れる。
 カレシとは大学のサークルで知り合った。交際は二年半。そのあいだケンカしたことは何度もあったけど、いつもカレシから折れてきて最後は仲直りすることができた。だから去年の夏にケンカ別れしたときも、わたしは楽観していた。今回だって、きっとカレシのほうから謝ってくるに違いない……。
「あれからもう一年になるのね」
 ふちの欠けた写真立てから、なかの写真を引っぱり出す。セピア色にかすんだ風景のなかで、この先に待ち受ける運命など知りもしない二人の無邪気な笑顔がまぶしく見えた。思わず、写真から目を逸らす。じつは去年の暮れごろ、冬のアーケード街で偶然カレシを見かけた。はっきりカレシだと確認できたわけじゃないけど、あの後ろ姿はたぶん間違いないと思う。赤いコートを着た女の子と手をつないで歩いていた。時折カレシに話しかけるその女の子の横顔が、すごく幸せそうに見えた。
「……ばっかじゃないの」
 未練がましくこんな写真をいつまでも飾っている自分が、急に情けなく思えてきた。プラスチックの破片を拾い集め、細かく裂いた写真と一緒に屑かごのなかへ放り込む。急にひざからちからが抜け、わたしは倒れ込むようにしてソファーへ身をあずけた。
「やばい……なんか泣きそう」
 泣いたら負けのような気がして、涙のわきあがってくる目を無理やり天井へ向ける。トトトトとミーシャが駆けてくる音がした。ひざのうえにモフモフした温かいものが滑り込んでくる。
「なんだよ、あんなに逃げ回ってたくせに、けっきょく最後は帰ってくるのか」
 やわらかな毛並みを撫でてやると、ミーシャは気持ちよさそうに目を細めた。切りそこねた小指の爪がわたしの胸にチクチクと刺さった。
「そういえば、あんたを拾ってきたのって、カレシと別れて公園で泣いてたときだったよね」
 そうだっけ? というようにミーシャがしっぽをブンと振る。
 壁掛け時計が、正午の時報を打った。
 出窓に飾ってある鉢植えに、初夏の日ざしがギラギラと照りつけている。
「よし、まずはメシかな。そのあとでケージに入れて、久しぶりにあんたを散歩に連れてってあげる」
 ミーシャの片耳がピンと立った。
「で、帰ってきたら今度こそ爪切りだからね」
 コントのオチでずっこけるみたいにミーシャはひざのうえでゴロンと腹をうえに向け、もう降参ですと言わんばかりにニャアと鳴いた。




『サーカス小屋の少女』【りきてっくす→るうね】

 秋の終わりの冷たい月がサーカス小屋の天幕をつやつやと光らせていた。一日の興行を終えたその小屋は昼間の華やかさが嘘のようにみずぼらしくハタハタと夜風に煽られていた。看板に描かれたライオンや象が恨めしげに闇を睥睨している。
 ぼくは街路樹のわきにうずくまりじっとその小屋の様子を窺っていた。あたりに人影はなくときおり風に乗ってなにか獣の唸るような声が耳にとどいた。愛用のGショックで時刻を確認する。約束した八時はとうに過ぎていた。
「……来ないのかな」
 急に風が冷たく感じられトレーナーのフードを頭からかぶる。
「ちぇ、来て損したかも。てゆうか、こんな荷物まで抱えてバカみたいじゃん」
 着がえや洗面道具の入ったリュックを背負いなおしもう帰ろうかと立ち上がりかけたとき小屋の裏手のほうから小さな影があらわれた。月に照らされてヘアバンドの飾りがキラキラと光っている。とたんにぼくの心臓は高鳴り気がつくと街路樹から身を乗り出していた。
「おうい、こっちこっち」
 小走りで近づいてきた影は息を弾ませながらぼくのまえにしゃがみ込んだ。
「すごい、ちゃんと来てくれたんだ」
「そりゃそうさ、約束だからね」
 ぼくと同い年くらいの女の子だ。昼間ステージの上で玉乗りを披露していたときの中国服ではなく丸襟の白いブラウスに黒っぽいスカートを履いている。
「だれにも見つからなかった?」
 そう尋ねると彼女はコクンとうなずいた。それからぼくの目をそっと覗き込むようにして言った。
「本当にいいの? 団長に見つかったらわたしだけじゃなく、あなたまでひどい目にあうかもしれないのよ」
「へーきへーき、きっとうまくいくさ。とりあえず朝までどこかへ隠れていて、それから始発の電車に乗ろう」
 ジャンパーのポケットから新幹線のチケットを取り出して見せる。彼女が心配そうに言った。
「それに乗って、行くあてはあるの?」
「岡山の爺ちゃん家。爺ちゃんも婆ちゃんも、ぼくの言うことならなんでも聞いてくれるから、きっとぼくたちをかくまってくれるよ」
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