第34話

文字数 1,050文字

「……横山さんの革ぐつ。違うかい?」
「それは、このあいだ食べさせたじゃない」
 彼女が頬をふくらませる。皆川は申しわけなさそうに頭をかいた。
「そうだった、思い出したよ。あれも美味だったけど、防水剤が染み込んでてちょっと薬くさかったなあ」
「あんな平凡な食材じゃないわ。もっと意外なものよ」
 皆川は、うーんと考え込んだ。
「有田さんの旅行かばん……も食べちゃったし、船長の持ってた皮財布……もとっくに料理したよなあ。山下くんの革ジャン……はよく見たらビニル製で食べられなかったし」
 ついに彼はシャッポを脱いだ。
「降参。まったく思いつかないや」
 彼女が、うふふといたずらっぽく笑う。
「じつはね、操舵室に飾ってあった海図を料理してみたの。てっきり紙製だと思っていたら、あれ皮をなめしたものだったのよ。だから水で戻してソテーにしちゃった」
「ええっ、あれを調理してしまったのかい? レーダーが使えない今、あれだけが船の位置を知る唯一の手掛かりだったのに」
「どうせエンジンは故障してるんだもん、今さら海図なんて役に立たないでしょう」
「それはそうだけど……」
 困惑する皆川に、彼女が微笑みかける。
「でも、美味しかったのよね?」
「ああ、うん、とても美味しかったよ」
「今度はもっと美味しいものを作りたいな。新鮮な食材さえあれば、料理の腕を存分にふるえるんだけど」
 そう言って彼女は、熱っぽい視線で皆川のことを見つめた。
 皆川も彼女を見つめ返し、舌なめずりをする。
「そうだね。良い食材さえ手に入れば、さらに美味しいものが食べられるね」
 レジャー船が難破して半月。
 仲間の死体はすべて食べ尽くし、彼らの所持品も食べられそうなものは残らず料理して食べた。
 あと残されているものといえば……。



『チャバナ仙』【りきてっくす→るうね】

 重畳と連なる山脈がまるで蒼い波濤のごとく地平をかすみ渡らせ、四方をたなびく雲海は蘇迷盧をぐるり囲むかたちで渦を巻く、そんな森然とした秘境の奥の奥、人跡未踏の地で、チャバナ仙は、数百年もの長きに渡って苦行を重ねていたのでございます。
 あるとき彼はその重たいまぶたを持ちあげ、弟子たちを見まわしてこう言いました。
「よいか、釈尊スッタニパータ経典に説いて曰く、およそ人間の憂いというは、執着する拠り所に起因するものなりとある。それゆえ五欲を離れ、不苦不楽の中道を生きるがボディサットゥヴァの歩むべき道なのじゃ。このこと、ゆめ忘れるでないぞ――」
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