第70話

文字数 3,206文字

「働けど、働けど……」
 じっと手を見た。爪の先が機械油でまっ黒に汚れている。
「わが暮らし楽にならざり、ってか」
 まったく泣けてくる。なんでこんなに不景気なんだ。
 ふと、中央駅前の広場がなにやら騒がしいことに気づいた。見れば仮設ステージが組まれ、壇上にはマイクが立てられている。
「……街頭演説か。そういや選挙も近かったっけ」
 政治になんて興味なかったが、すごい勢いで人が集まり始めているので、ちょっと覗いてみることにした。ステージの背後には政党のシンボルが描かれたのぼりが立てられ、おなじ腕章をつけた兵士が周囲を警戒している。過激なことで知られる、ある野党のシンボルだ。
「最近こいつら急激に勢力を拡大してるよな」
 集まった聴衆はすでに三百人を超えているだろうか。まだまだ増えている。みな自分とおなじく粗末な身なりをした労働者や農民ばかり。聴衆はさらに膨れあがり、いまや駅前のロータリーを埋め尽くす勢いだ。
「たかが街頭演説に、いったいどれだけ人が集まるんだ」
 思わず苦笑が漏れたが、やがて大勢が見守るなか、一人の男が壇上に姿を現した。割れんばかりの拍手が湧き起こる。
「うへえ、すごい人気だな」
 俺は背伸びして、人混みの合間から男の顔をよく見た。目つきが鋭く、あごの線のがっしりとした、見るからに意志の強そうな男だ。彼は腰に手を当て、湧きかえる聴衆を無言で見まわしていたが、やがて場が鎮まってゆくのを見計らい、第一声を発した。
「我が、親愛なる国民諸君――」
 腹へ響くようなドスの効いた声だった。
「今日この場において、我々と諸君らの国家社会主義運動が、ついに第二段階へ入ったことを、まず報告したい」
 握りしめた拳を左胸にかざし、男はもう一度聴衆をじろりと見まわした。
「私に、闘争をつづける勇気を与えてくれた二つの階級の国民に心から感謝する。その二つとは、言うまでもなく諸君ら、すなわち農民と労働者だ」
 聴衆から、わっと歓声があがる。
「思えば、今から12年前……私は一兵卒として戦地へ赴き、何百万という同胞と共にあった。そして、そこで思いもかけず敗戦の報せを聞いた。軍は敗北し、艦隊も降伏したのだという。だが知ってみれば、これは仕組まれた罠だった。革命をもくろむ不穏分子どもがでっちあげた、茶番だったのだ!」
 男は右手を振りあげ、マイクへ向かってつばを飛ばした。
「このとき私は誓った! 生涯をかけて二つの敵と戦うことを! やつらを必ずこの手でたたき潰すことを! それこそが私の悲願であり、そしてこの国を荒廃から救う唯一の手段だからだ!」
 その演説の迫力に、聴衆は固唾を飲んでいた。咳ひとつ立てる者はいない。俺も掌にじっとりとかいた汗を何度もズボンでぬぐった。
「敵の一つは言うまでもなくマルクス主義者どもだ。やつらは表向きは平和主義者だが、その内面はテロリストだ。国民を分断させ、国を弱体化へと導き、その結果悪夢のような貧困をもたらした。我が国の失業者は、もはや五百万人を超えている!」
 鬼のような形相でまくしたてる男の話に、みな真剣に聞き入っていた。
「マルクス主義者どもの暴挙によって、我々は戦勝国の提示する平和条約を受け入れるしかなかった。その結果、国土は縮小され、植民地のすべてを失った。さらには、絶対に返済不可能な額の賠償金を背負わされたのだ!」
 不況続きで冷め切った民衆の心には、あきらかに怒りの炎がくすぶっていた。男の演説は、その怒りに着々と油をそそいでいる。
「このマルクス主義者どもの政権は12年間も国家を支配してきた。その結果はどうだ? やつらは国民に対してなにをした? 富めるものと貧しきもの。地位のあるものとそうでないもの。ひたすら国民を分断し、その一方に肩入れするような悪政をつづけただけではないか!」
 ふたたび歓声があがった。だがそれは歓声というより、腹の底から絞り出される怨嗟の声に近かった。たしかに一部の富裕層だけが贅沢をし、その他大勢の労働者や農民などはみな貧乏にあえいでいる。とくに昨年世界を襲った大恐慌が、低所得者の家計に大ダメージを与えていた。
「もはや、やつらの政党には何も期待できない。激しいインフレーションに対しても無策で、このままいけば我が国の通貨は紙くず同然となるだろう!」
 そうだ、好みの味のふりかけさえ満足に買えないではないか。来月からは小麦粉も値上げするというし、まったく冗談じゃない。
「今一つの敵は――」
 壇上の男は、右手の人差し指を立ててみせた。
「諸君らもご存知のはずだ。根なし草のように、あらゆる場所に住み着きながらどの国家にも属さず、そしてどこでも金儲けをはじめるあさましい民族……」
 だれかが叫んだ。
「ユダヤ人だ!」
 男が満足げにうなずく。
「やつらはつねに民衆を対立へと駆り立て、けっして平和など求めない。悪辣なマスコミどもと結託し、ひたすら扇動を繰り返す。国家を陰から支配しようとするのだ。そしてその裏で大金を稼ぎ、資産を食い尽くしたらまた他の国へと移動する。まさに蝗のようなやつら。ユダヤ人こそ、我らがもっとも憎むべき国際的な不穏分子なのだ!」
 聴衆のそこかしこから「ユダヤ人は敵だ」「ユダヤ人どもを追い出せ」という怒号があがった。
 俺はふと、自分が務める工場経営者の太った男を思い出していた。あいつもユダヤ人だったはずだ。半年ほど前、同僚のオットマーが仕事中に怪我をした。右手の指を3本も切断する大怪我だ。もう今までのように作業はできなくなった。するとあのユダヤ人の経営者は、あっさり彼を解雇してしまった。自分の工場で負傷した労働者をゴミのように捨てたのだ。オットマーは結婚して子供が生まれたばかりだった。今解雇されては家族が路頭に迷う、他に出来る仕事があればなんでもやるからと懇願したが、まったく聞く耳を持たれなかった。結果、彼はまだ若い妻と乳児を連れてイザール川へ身を投げた……。
 そうだ、ユダヤ人は敵だ。やつらは、この国の労働者を食いものにしている。俺たちが豊かに暮らすには、まずユダヤ人どもを一人残らず国から追い出さねばならない。
 壇上の男は、集まった聴衆を一人ずつ指差しながら叫んだ。
「私は、嘘やごまかしはしない! 今度の選挙において、もし諸君らが私を信任し、民衆の代弁者として権限を与えてくれるなら、私は誓おう! 必ずや我らの敵を倒し、偉大なる帝国を復活させることを! 失業問題を解決し、この国の経済を立て直すことを! 諸君らにふたたび民族としての誇りを取り戻させることを! 私は全身全霊をもって神に誓うのである! アーメン!」
 大地を揺さぶるような拍手と歓声が、駅前の広場を支配した。そこらじゅうで「万歳」の嵐が沸き起こる。俺も感動していた。そうだ、今度の選挙では、なにがなんでも彼らの政党に投票しよう。となりのやつも、後ろに立っているやつも、みな万歳を叫んでいた。気づけば、俺も彼らと一緒になって声を張りあげていた。
「ハイルっ、ハイルっ、ハイルっ――」



『寝たばこ』【りきてっくす→るうね】

 寝ている自分の姿を斜めうえから見おろす視点。
 どうやら我が意識は肉体を離れ、天井ぎりぎりのところを彷徨っているらしい。
 いわゆる幽体離脱というやつだ。
 それにしても自分の悪口は言いたくないが、なんという間抜けな寝顔だろう。
 しかも眠る直前まで読んでいた文庫本が、頭の横でくしゃくしゃにページを潰している。
 いや、そんなことはどうだっていい。
 問題なのは、こいつが右手の指に火の付いたままの煙草をはさんでいるということだ。
 火事になったらどうする。
 築三十年の木造ボロアパートは、いったん火が付いたら誰にも止められはしないだろう。
 されど幽体の身の悲しさよ。
 我が身はもはや天井に背を張り付けたままジタバタともがくばかり。
 ああ、いったいどうしたら……。
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