第66話

文字数 1,613文字

「この村のどこが気に食わないっていうの? 住んでいるのはみな良い人ばかりだし、作物だってよく実る。五助どん、いったいなにが嫌なのよ?」
 そう詰め寄るたえ子に、おらは静かに首を振ってみせた。
「ほだなごど、あめえだって分かってるくせに……」
「いや、分からないわ。わたしはこの村が大好きだもの」
 ひとつため息をついてから、おらは言った。
「決まってっぺ。名前だぁよ。おら、珍戸村ちゅう、この村の名前が大っ嫌いだ!」
 たえ子は意外そうな顔をした。
「……名前? 五助どんは、そんなつまらないことを気に病んでいたの?」
 おらは少しムッとなって、思わず声を荒げた。
「だってそうだんべよ。タクシー乗るときには【ちんこ村までお願いします】って言わなきゃならねえだぞ。出前を頼むときにも【カツ丼と正油ラーメンちんこ村まで】って言うんだ。わらしのころデパートの館内放送で【ちんこ村からお越しの五助さま、お連れのかたが迷子センターでお待ちです】って呼び出されて、こっ恥ずかしい思いをしただよ。グーグルで【ちんこ】って検索かけてみれ、何番目かの候補に必ずうちの村名が出てくるだ。冗談じゃねえ、おら昔から恥ずかしくてたまんねかったんだず!」
 おらの剣幕を見てたえ子は少し思案に暮れていたが、やがて思いついたように言った。
「あ、そうだ五助どん、このまえ村長さんから聞いたんだけど、隣り村との合併の話いよいよ本決まりになりそうよ。うちの村より隣り村のほうが規模も大きいから、きっと村名もそっちへ変わるだろうって。うふふ、どうやらこれで問題は解決したみたいね」
 そう言ってブイサインをつくるたえ子に、おらは呆れた顔で応えた。
「バカこくでねえ。隣り村の名前さ言ってみれ。雲古村でねえか。ちんこからうんこへ変わっただけで、恥ずかしいことに全然変わりはねえだんず。いやむしろ知り合いに住所変更の報せ出すとき【このたび住所がちんこからうんこへ変わりました】って書かなきゃなんねえべ。ぜったい笑われるに決まってる!」
「じゃあ……どうしても、この村を出ていくのね?」
 悲しそうなたえ子の視線を振り切って、おらは背中を向けた。
「止めたってムダだ。おら東京さ行ぐだ。東京さ行って吉祥寺とか三軒茶屋とかカッコいい地名のところへ住民票移すだよ。もう決めたことだ。おめえはこの村が好きなんだろ? そんならずっとここにいればいいだよ」
「五助どん……」
「んだら、おらもう行くべ。達者でな」
 駅のほうへ向かってスタスタと歩き出すおらの背中に、たえ子の罵声が飛んできた。
「五助どんのバカぁ! おたんこなすぅ! 村の名前がなんだっていうの! あんたの苗字言ってみなさいよぉ!」
 痛いところを突かれてギクッと立ち止まった。
 そうだった、おらの苗字は於万子なのだ。


『赤ちょうちん』【りきてっくす→るうね】

 JR津田沼駅の北口でタクシー待ちの列へならぶうちに、白いものがちらつきはじめた。どうりで寒いわけだ。コートのえりを立て、前にならんだ人数をかぞえてみる。一、二、三、四……今ようやくタクシーに乗り込んだ老夫婦をのぞいても、あと十三人いる。後ろをふり返ってみると、その倍ほどの人数が肩をすぼめ、凍てつく夜のアスファルトに長い列をつくっていた。師走の、しかも第二土曜日である。寒さですっかり酔いも醒めてしまい、このまま列にならんでいるのがだんだん億劫になってきた。
「しかたない、飲みなおすとするか」
 俺は覚悟を決めて列を離れ、酒の飲める店がありそうな方角へぶらぶらと歩きだした。
 イオン・モールを抜けて、雑居ビルの林立する裏路地をさまよい歩く。ふと二階建てのバラックが目に止まった。看板は出ていないが、赤ちょうちんに「やきとり」と墨書されている。ビル風に乗って、鳥を焼く香ばしいにおいが鼻さきへだたよってくる。
 ――ここにしようか。
 俺は赤い暖簾をかき分け、カラカラと引き戸を開いた。
「らっしゃい」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み