第50話

文字数 4,189文字

 池袋駅東口にほど近い雑居ビルのなかに、おれたちがいつもオフ会の会場にしている居酒屋はあった。紅い暖簾のさがる自動ドアをくぐると、肉や魚を焼く香ばしいけむりが押し寄せてくる。急に暖房の効いた室内へ入ったせいで、おれの眼鏡は真っ白に曇った。師走の金曜日ということもあり、店内は大勢の酔客たちが笑いかわす喧騒にあふれていた。
「いらっしゃいませ、本日はご予約でしょうか?」
 栗色のショートヘアに三角巾をかぶった店の女の子が尋ねてくる。おれはちょっと気遅れしたが、仕方なく言った。
「……大魔王ベヒモス討伐隊勇者様ご一行、で予約しているはずなんですけど」
 店員がキョトンとした顔で「すみません、もう一度お願いします」と訊き返してくる。おれは咳払いしてから少し声のトーンをあげた。
「あのですね、大魔王ベヒモス討伐隊勇者様ご一行で予約してるんですが」
 一瞬の沈黙があり、店員は「あ」の形で口をうすく開けた。それから笑いの衝動を紛らわすように、カウンターを振り返って声を張りあげた。
「予約のお客様、奥へご案内しまあすっ!」
 衝立で仕切られた小上がりの席には、すでに他のメンバーたちが顔を揃えていた。正面にあぐらをかいた戦士ライアンが、酔った顔に満面の笑みをたたえて言った。
「よおアレックスくん。遅かったじゃないか」
 おれは皮のコートをハンガーへかけながら答えた。
「倉庫の棚卸しに駆り出されましてね。おかげで腰が痛くて」
「わはは、年の瀬が近づくとどこも大変だ。うちなんかクリスマス会でやる劇の準備で、しっちゃかめっちゃかさ」
 戦士ライアンは保育士だ。ゲームのなかでは鉄壁の防御力をほこる彼も、現実世界では小さな子どもたち相手にさんざ手を焼かされている。
「相手が保育園児ならまだいいわよ」
 塾の講師をしているという魔導師セレネーが、気怠そうにロングヘアをかきあげた。
「こっちは受験生と向き合ってるのよ。来年の春には、結果がちゃんと数字になって出てくるんだから。生徒たちは気が立ってピリピリしてるし、有名大学に何名合格させられるか目標数字は張り出されるしで、もう大変なんだから」
 言ってから魔導師セレネーは、ウケケと笑った。暗黒魔法の使い手でパーティー随一の破壊力を誇る彼女だが、実家は長野県で牧場をやっている。
「ちょっと失礼」
 賢者ムソルグスキーが、よっこらしょと立ちあがった。
「はばかりへ行ってくる」
「またなの? さっき行ったばかりじゃない」
「この歳になると小便が近くてなあ」
「いやだわ。一度泌尿器科で診てもらったほうが良いんじゃない?」
 賢者ムソルグスキーは去年の春に、四十年間勤めあげた鉄工所を定年退職した。今は資格を取って、老人介護施設で働いている。
「今にわしも、うちの入居者みたいに尿瓶が必要な体になるのかなあ。ああ、いやだいやだ」
 おぼつかない足取りでサンダルをつっかけているところへ、店の女の子が注文を取りにきた。
「お飲み物は、お決まりでしょうか?」
 おれは生ビールを頼むことにした。寒いなか歩いてきたので燗酒を飲みたい気もしたが、やはり最初の一杯は生だ。
「じゃあ、わしも生で」
 言って賢者ムソルグスキーは、パンツをおろし自分の陰部をさらけ出した。店員が悲鳴をあげ、厨房のほうへと逃げていく。
「ちょっとやめなさいよ。ひとが食事しているときに」
「そう言われても、自分の意思ではどうにもならんのだよ」
 賢者ムソルグスキーは、ばつが悪そうに自分のイチモツをパンツのなかへ押し込むと、サンダルをペタペタ鳴らしてトイレへ向かった。魔導師セレネーが声をひそめて言う。
「彼、施設をクビになるみたいよ」
「え、本当かい?」
 おれは驚いて言った。
「まだ就職したばかりじゃないか」
「女性を見るたびにパンツおろしてたんじゃ、クビにならないほうがおかしいわよ。ウケケ」
「可哀想になあ……新しい人生の出発だって張り切っていたのに」
 なんだか辛い気分になり、手持ち無沙汰でお通しの小鉢を箸でつついていると、戦士ライアンがニコニコしながら言った。
「それより聞いてくれよアレックスくん。先週うちの妻が入院したんだ」
「ええ、そうなんですか? いったいどこが悪いんですか?」
「精密検査をしてみなければ分からないけど、どうも白血病の疑いがあるらしいんだよ」
 そう言って、くくっと笑いを噛み殺した。おれは言葉に詰まった。戦士ライアンは鋼の心を持つ勇者だが、とても愛妻家なのだ。
「……それはお気の毒に」
「うちはまだガキも小さいし、もし妻にもしものことがあったら、おれはどうしていいか……。正直、他人の子どもの面倒なんて見ている心の余裕はないよ」
 そう言って、愉快そうにガハハと笑った。
「まだ白血病と決まったわけじゃないんでしょ? そう気を落とさないでくださいよ」
「そうだな……。うん、悲観的になるのはおれの悪いクセだ。こんなときこそ、しっかりしなくちゃ」
 そのとき店の入り口付近から、女性の悲鳴が聞こえてきた。もしやと思って覗いてみると、あんのじょう賢者ムソルグスキーが今来店してきたばかりの女性客へイチモツを見せつけているところであった。
 ハイボールをすすっていた魔導師セレネーが、しんみりした口調で言った。
「やはり私たち、最下層まで潜るべきではなかったのね。まさかこんなウケケになるなんて」
「ベータ版で潜ったのは、たしかにマズかったですね。まあ、今でも完璧とは言えないみたいですけど」
「新しい除去ファイルがアップロードされていたけど、やっぱりダメだったわ。私のウケケは、もう……」
 そこまで言って、魔導師セレネーはやけくそのようにハイボールを一気にあおった。

『ヴァルハラ・オンライン』は、世界初の完全なるVRMMOだ。このゲームの画期的なところは、プレイヤーの脳そのものをシステムの子機として機能させていることだ。脊髄に取り付けたソケットにネット回線の端子を繋ぐことによって、大容量のデータを直接脳シナプスへ送り込むことができる。これによりプレイヤーは、視覚や触覚はもちろん、味覚や嗅覚までをも完璧に体感することができた。ただ問題なのは、フィルタリング機能の脆弱さである。脳を回線に繋いだことによって、ネット上を徘徊するさまざまなウイルスが脳内に侵入してしまうのだ。脳にはいまだ未知の部分が多く、その機能の全容は解明されていない。そのため脳内に感染させてしてしまったウイルスを除去する技術を、ゲームメーカーはもちろん、脳科学の専門家たちもまだ持ち合わせてはいなかったのである。

「私のウケケが聴きにくいという父兄からの苦情が増えているの。このままだと私、ウケケをウケケになってしまうかもしれないわ」
 ジョッキグラスを置いて、魔導師セレネーがつぶやいた。彼女は『UKEKE21』というウイルスに感染している。大脳のブローカ野に侵入したプログラムが、彼女の発する言葉の一部を勝手に「ウケケ」へ変換してしまうのだ。
「職業がら、やっかいなウイルスに感染しちまったもんだなあ。まったく同情するよ」
 そう言って戦士ライアンは、愉快そうにに笑った。彼は『LAUGHIN・NOZE』というウイルスに感染している。大脳扁桃体から伝達される全ての感情が、笑いの衝動へと置き換わってしまうのだ。
「どうしてアレックスくんだけウケケに感染しないの? 不公平だわ」
 いいかげん酔ったらしい魔導師セレネーが、口をとがらせる。ニコニコ笑いながら戦士ライアンもうなずいた。
「ずっと四人で旅してきたのに、きみだけ無事なんてちょっとズルイ気がするなあ」
「いや、お三かたには申し訳ないけれど、こればっかりは、おれのせいじゃないですよ。たまたま運が良かっただけです」
 そのときレジカウンター付近で、怒声と悲鳴がわき起こった。見れば数人の警察官が賢者ムソルグスキーを取り押さえている。どうやら店のひとに通報されたらしい。
「とうとう捕まっちまったか。彼の感染したウイルスもじつにやっかいだ。なにせ女性に陰部を見せたくてたまらなくなるんだからな」
「落ち着いてる場合じゃなくってよ。可哀想だけどウケケはごめんだわ。他人のふりをしてすぐに店を出ましょう」
「それがいいですね」
 おれたちは勘定書きをつかんで居酒屋を退散した。

 外へ出ると、いつの間にか雪がちらついていた。どうりで寒いわけだと思った。二人と別れ、ブラブラと駅前の通りを歩く。街の装いはもうすっかりクリスマスで、あちこちからジングル・ベルの音色が聞こえてくる。
 商業ビルの電光掲示板に、ヴァルハラ・オンラインの宣伝が映し出された。つい苦笑混じりのため息が漏れた。ベータ版が配信になって胸を躍らせていた当時の自分が、なんだか滑稽に思えてくる。
「一年以上彼らとゲーム世界を旅してきたけど、そろそろ潮時かなあ。まだ大魔王ベヒモスは討伐してないけれど、いつウイルスに感染するか分からないんじゃ安心してウケケできないもんな。やっぱりウケケのほうが……ウケケ……あれ?」




『三増峠』【りきてっくす→るうね】

 はりつめた山の冷気が草木のみどりを粛殺するなか、落ち葉を踏みしめ甲州兵の隊列が進んでゆく。初秋の三増峠を越えてゆくのは、二万にもおよぶ武田の軍勢だ。風林火山の旗のもと堂々たる馬ぞろえに先導されているが、しかし兵士たちの足どりは重かった。
「こたびの戦じゃ、まるで得るものがなかったのう。城を取り囲んだまでは良かったが、押しても引いてもびくともせなんだ」
「ありゃどえらい城ずら。まっと兵を集めて掛からにゃあ、戦になどなりゃせんて」
「おっつけ冬が来る。そうなりゃもうこの峠は越せん。すべては来年の話ずら」
「そうじゃのう。とまれ、命拾いしたことをありがたく思わにゃ」
 そのときである。
 数条のかぶら矢が空を切って流れた。
 次いで、天をも震わすおうおうたる鯨波が彼らを襲った。
 峠のうえで待ち伏せしていた北条軍が、急襲してきたのである。
 斜面を駈けくだる具足の音が、地鳴りの如く大地を踏み鳴らした。
「たた、大変だあ、北条がたの伏せ兵ずらっ」
 山岳戦の妙味は、高低差を利用した戦術にある。高所から勢いに乗って下方の敵を襲えば、通常の何倍もの攻撃力を発揮できるのである。
 寄せ手の先鋒である猛将、北条綱成が叫んだ。
「この戦、もらったあ!」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み