第8話

文字数 2,326文字

 驚いた源左衛門は、竹刀を引いて跳びすさった。
「いかがした?」
 浪人は顔をゆがめ、うめくように言った。
「い、息が……息ができぬ」
「なに?」
 理由は不明だが、浪人は息ができず苦しがっているようである。この機を逃すまいと源左衛門は、踏み込みざま渾身の一撃を見舞った。
「えいっ!」
 パシッと小気味よい音がして浪人が尻もちをつく。源左衛門が叫んだ。
「みたか、わしの勝ちじゃ」
 内心安堵の息をつきながらも、弟子たちの手前、胸を張ってみせる。浪人は歯噛みして拳で床を叩いた。
「くそっ、不覚――」
「おぬし息ができぬと申したが、あれはどういう意味じゃ?」
「どういう意味だと? なにを白々しい」
 浪人は鼻をつまんで手をパタパタさせた。
「この悪臭はいったいなんだ?」
「悪臭?」
「おぬし、いったい何日風呂へ入っておらぬ」
 源左衛門は、あたまをポリポリかいた。
「そうさのう、三笠山へこもって一流をあみだし、当地へ道場をひらいてより、はや三十年余年。そのあいだ一度も入った覚えはござらぬが」
「なに、三十年も風呂へ入っておらぬのか。どうりでここへ足を踏み入れたとたん、妙な悪臭が鼻をついたわけだ」
 浪人は、居ならぶ弟子たちを見まわして言った。
「どうせこの者たちも、おなじように不潔にしているのであろう」
「いかにも」
 源左衛門は、自慢げにえへんと咳払いした。
「わが流祖、新免武蔵は生涯一度たりとも湯浴みをしなかったという。その故事にならい、われら一門、けっして風呂へ入らぬと八幡大菩薩へ誓いを立てておるのじゃ。この戒めは絶対で、つい先年も嫁に文句を言われ、こっそり湯へ入った弟子を破門いたしておる」
「ふん、阿呆な流儀じゃわい」
「そのあほうに一本取られたのはだれじゃ?」
「ぐぬぬ――」
 目をむく浪人に向かって、源左衛門は諭すように言った。
「武蔵、五輪書に解いていわく、戦武具の利をわきまえるにいづれの道具にても、折にふれ時にしたがい出合うものなりとある。おのれの発する臭気により敵の戦意をくじき勝ちを得んとするのも、また兵法工夫のうちであると説いておるのじゃ」
 これを聞いて、浪人はがっくりとうなだれた。
「……わしの負けじゃ」
「修行して出なおしてくるがよかろう」
 道場主としての威厳を取り戻した源左衛門は大いに満足した。弟子たちもそんな彼に尊敬の眼差しを向けている。
「うっ!」
 急に源左衛門が、鼻を押さえうずくまった。
「おぬし……屁をすかしたな?」
 浪人は赤面しながら言った。
「面目ござらん。気落ちしたら、つい尻の力がゆるんでしもうてな。武士の情けじゃ、見逃してくれ」
「うう、どうしたらこんなに臭い屁がひれるのじゃ……」
 浪人は少しむっとなった。
「無礼なことを申すな。浪々の身ゆえ、食うや食わずの生活を送っておるのじゃ。そりゃ臭い屁も出るわ」
「それにしても、この臭いは人間業とは思えん……」
 源左衛門は、しばらく鼻をつまんで身をよじっていたが、やがてその場へがばっとひれ伏した。
「どうやら敗れたのは拙者のほうでござった。なにとぞ、なにとぞこの臭い屁のこきかたをご教授くだされっ」
「なに?」
「新免武蔵のまねをして三十余年、不潔だ、鼻がひん曲がるとののしられ、嘲られながら身につけたこの悪臭を、たった一発の屁でしりぞけるとは、目からウロコが落ちた思いでござる。かくなるうえは、この臭い屁のこきかたを会得しないかぎり、拙者も武士の一分が立ちもうさぬ」
「また、わけのわからぬことを……」
 浪人はなにごとか思案をめぐらせていたが、やがて源左衛門に言った。
「そんなに臭い屁がこきたいか?」
「こきたいっ」
「ならば当道場をわしに譲り、おぬしは木剣一振さげて諸国流浪の旅に出られるがよかろう」
 源左衛門が目を輝かせた。
「それで本当に臭い屁がこけるようになるか?」
「ああ、なるとも。泥水をすすり、木の根を噛み、犬猫の餌を奪って生きておれば、どうしたって腹の調子がおかしくなる。このわしがよい見本じゃ」
「よし、わしは今から旅に出るぞ。そして必ず日本一臭い屁をこける男になって帰ってくる。それまで道場は、おぬしに預けておくからな」
 源左衛門は言われた通り木剣一振りをたずさえ、道場を出ていった。
「というわけで、今日からわしがここの道場主じゃ」
 浪人は高らかに笑ったあと、居ならぶ門弟たち見て言った。
「おぬしたち、まずは風呂へ入ってこい。臭くてかなわぬ」



『死体百景』【りきてっくす→るうね】

 薄暗い四畳半の和室で、その女は少なくとも死後三日放置されていた。
 顔は青黒く膨れあがり、内臓の腐敗によって腹が妊婦のようにせり出している。無数のハエがたかる耳障りな羽音が、部屋のなかに充ちていた。
 なみの人間なら、五分とその場にいられないだろう。
 だが男は、平然とその部屋で暮らしていた。今もテレビドラマの再放送を見ながら、お茶漬けをかき込んでいる。
 ドンドンドン、と戸が乱暴に叩かれた。
「ちょっと黒沢さん。なんなのさ、このひどい臭い。まわりの部屋から苦情が来てるよっ」
 アパートの管理人だった。男は箸の手を止め、大声で言った。
「すいません。生ゴミを出しそびれちゃって。すぐに片付けますから」
「早く始末してくださいよ。あまり問題を起こすようなら出ていってもらいますからねっ」
 初老の管理人は、癇癪を起こしたまま去っていった。
 男は面倒くさそうに箸を置くと、のろのろ立ちあがった。
「ちぇっ、しょうがない」
 台所へ行き、出刃包丁を取ってくる。
「ボチボチ始めるか……」
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