第100話

文字数 1,498文字

 勝は深く息をつきながら、奉書紙を元の通り丸めた。それは、明治政府が次に発布する法令の草案であった。
「薩摩には、ぎょうさん貸しがあるんですけどねえ」
 そう言って、うわ目づかいで西郷の表情を窺う。
「なあ、西郷さん。あたしら上方のあきんどが倒幕に手え貸したんは、いったい何のためやと思いますか? 天子様のご綸言に従った? 違います。あたしらが薩長軍にゼニ都合してあげたんは、新しく作られる世の中が、ゆくゆくは自分たちの利になると踏んだからです。今よりもっと商売がし易うなって、お金が儲かると思ったからです。それやのにどうです、この仕打ちは。これじゃあたしら、いい面の皮やないですか。どだい薩摩の武士には仁義ちゅうもんが――」
「じゃどん」
 西郷が遮って口を開いた。
「貨幣制度の刷新は、新政府の急務がよ。列強諸国と肩をならべて貿易するにゃあ、わが国も早急に金本位制を確立せんといかん。おはんも商人なら、そんくらいのことは分かっどだい」
「はぐらかしてもらっちゃ困りますねえ。銀札の廃止にはあたしらも同意しますよ。でもね、問題はそこじゃあないのさ」
 勝の目が底光を放つ。
「西郷さん、この法案、金銀の交換比率がおかしくはないかい?」
 西郷の目が泳ぐのを見て、勝がたたみかけた。
「先の戦ですっからかんになったあんたらに軍資金を貸し付けたとき、銀の相場は一両が百二匁やった。ところがどうです、今度出される法令では、一両を二百十九匁にするという。これじゃ銀の値が暴落して、それまで銀で決済してきたあたしら上方のあきんどは大損をこうむる結果になる。ようするに新政府は、この法案で借金をそっくり踏み倒そうという魂胆ですやろ」
 座敷の中がしんと静まった。
 どこか遠くの方で、ドンと大砲を撃つ音がする。
 西郷は、腕を組んで瞑目したまま動かない。
 勝が着物のえりをしごいて、すっと背筋を伸ばした。
「よろしおす。では寄合の総代として、ひとつ妥協案を出させてもらいましょうか」
「――妥協案?」
「ええですか、借金証文の日付が慶應元年以降のものは、法令通り一両が二百十九匁のままで構いません。ただしそれ以前に作られた証文に関しては、当時の銀相場である一両百二匁で精算させてもらいます。こっちは倒幕軍だけでなく、全国の諸侯にもぎょうさんゼニを貸してますのや。利子を取りっぱぐれたら大損して、今後の商売も立ち行かなくなります」
「その妥協案で、他の商人連中は納得しよっどな?」
「彼らから全権を任されてますからね。大丈夫、ちゃんと話はまとめてみせますさ」
「よか。なら、おいも八太郎に掛け合って、おはんらの妥協案でなんとか話ばつけちゃるばい」
「では、交渉成立ですね」
「じゃっど」
 西郷が右手を差し出した。
「なんです、その手は?」
「えげれすの商習慣で、はんどせえくちゅう、商談がまとまったとき互いの手ば握り合う挨拶たい」
「フフ、西郷さんは、はいからやね」
 勝は、西郷の大きな手を握り返した。
「これで万事丸くおさまり、明日からは枕を高こうして眠れますよ」
「お勝どん」
 西郷が初めて笑顔を見せた。
「おはんは、まこち男勝りのおなごじゃのう。両替商の女主人にしておくにゃ惜しい人物たい」
 勝も婉然と微笑んで言い返した。
「西郷さんこそ、血も涙もない官軍の大将かと思っていたけど、案外話の通じるお方で助かりました。でもね、これからの世は、あたしみたいでしゃばりな女がぎょうさん現れて政治に口はさむようになりますさかい、せいぜい覚悟なされたほうがええですよ」
「ワハハ、でいなこっじゃが、まあ肝に銘じておくばい」
 障子の向こうで、季節外れのうぐいすが一声鳴いた。
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