第125話 ケース5 侵略する教え⑫

文字数 5,764文字

「ハア、ハア、ぬう」

 ふらつきながらもサードは、川に到着した。

 ここは道路の真下にあるせいで、車が通るたびに不快な音が響く。

 川には、七つのボートが浮かんでいる。サードは、ボートのエンジン部分に刺さる鍵を一つずつ抜き取っていく。

 すぐにでも出発できるように、鍵を差しっぱなしするように指示したのが裏目に出た。汗を拭いながら、どうにか六つの鍵を抜き取り、先頭のボートへ向かう。

 すやすやとした寝息。そのボートには、細やかな紋章と文字が刻まれた布に包まれた幸子が眠っていた。

「フフ、行きますよ。古き神よ」

「おっと、そこまでだ」

 振り返ると、拳銃を構える男がいた。

 ヨレヨレのブラウンスーツに、無造作に生やした無精ひげと胡麻塩頭のボサボサヘアーの男は、氷室である。いつものヘラヘラした笑みを浮かべているが、目は鋭い光を湛えている。

「警察か」

「ああ、そうだよ。こんな所に隠れやがって、面倒だったぜ。けど、終わりだな。俺はな、お前のような悪党は嫌いなんだ。だから、優しくはできねえな」

 一発の銃声が鳴り響く。四十五口径の銃口からは煙が立ち上り、サードの太ももから血が零れ落ちた。

「き、さま。警察か本当に?」

「安心してくれ。こいつは俺が武器商人から独自に押収したものでね。撃っても、足はつかない」

「ぐ、おおおおお!」

 無数の鍵が氷室の眼前に迫る。咄嗟に顔を覆って防ぐが、それが良くなかった。氷室が前方を見据えた時には、すでにサードの乗るボートは走り出していた。

 咄嗟に三発ほど発射するが、薄暗い場所であるがゆえに、まともに狙いをつけることができない。

「ああ、クッソ。スマートに決めろ俺―」

「氷室。銃声が聞こえたぞ、どうした!」

 来世たちが、物凄い形相で背後の通路から現れた。

 氷室は手早く現在の状況を説明しながら、鍵を拾ってボートのエンジンをかけた。

「乗れ! ヤクザも警察も何でも屋も霊媒師も女子高生も一緒になって、野郎を地獄に叩き落としてやろうぜ」

 氷室は人が変わったように、ボートを操作し、勢いよく下流に向かって突き進んだ。

 ※

 サードは、ボートを操作しながら器用に傷の治療を行っていく。

「ざまあないわね」

「目が覚めたのか。おっと、そいつに拘束されている限り、お前は何もできんぞ」

「知ってるわ。さっきから試しているもの。ねえ、どうしてこんなことするの? 別に自分たちの教えだけを守っていれば良いじゃない。こんな強引なやり方をしないでも」

「貴様は、何も分かっていない」

 サードは、目を細める。

 暗渠を抜け、下流の入り口にボートが飛び出す。

 空には厚い雲がかかり、月の姿は見えない。だが、彼は構わず、遺体遺棄現場に向かった。

「この世は争いばかりが起きている。差別、貧困、土地の奪い合い。なぜそれらが起きるのか考えたことはないかね?」

「それは、いろんな理由が考えられるけど、大きな理由としては価値観の違いとかかしら?」

 サードは満足そうに笑う。

「そうだ。さすが、邪破教などと、おぞましい教えによって強制的に神にされただけはある。己の考え方と違うものを押し付けられるのは辛かろう」

「ちょっと、待って。あなた矛盾している。あなたの今やろうとしていることって、まさにそうでしょ。自分たちの考え方を押し付けている」

「違うな。私たちが行う儀式は、世界の再構築なのだよ。教えが複数あるからいけないのだ。世界をまっさらにして、教えを一つにしてしまえば良い。そうすれば、価値観の違いなど生まれようがない。一つだけを大事にしていけば、幸福に暮らせるのだ」

「それは」

 幸子は、首を振る。

「人間の可能性を否定しているわ。人間は確かに価値観の違いで争いをするけど、それは悪い面だけを見た考え方よ。価値観が違うからこそ、新たな価値が生まれ、文明が発達していくこともあるの」

「だから、争いあう世界を許容せよと」

 サードはボートを止め、重りのついた鎖を投下した。

 幸子はどうにか上半身を起こし、左右を確認すると現場に辿り着いたことを理解する。

「私は子供の頃、教科書を開き驚愕した。世界では争いが起きているのだ。それを、仕方ないという教師に辟易した。誰も気に留めず遊びに興じる同級生を唾棄した。

 気持ちが悪い奴らだ。こんな世界で満足だという。故に私はこの古き世界を断罪する。そして、新世界では間違ったことが起きないように神の導きを大事にするのだ。ここは、その第一歩となるだろう」

「あなたは、純粋なのね」

「そうだ。だから、できるのさ」

 ※

 ボートが水面を切り裂き、左右に波を散らしていく。

 暗渠を飛び出し、しばらく走り続けていると、見慣れた景色が来世たちを出迎えた。

 左右の歩道に、美しき緑の葉を生やした桜たちが立ち並び、涼やかな風が水面すれすれを駆け抜けていく。

「いた! 氷室、十一時の方角だ」

 ボートの接近に気付いたサードは、慇懃に頭を下げ、来世たちを出迎える。

「ようこそ。時刻を見たまえ。後、一分で世界は新たに生誕する」

「馬鹿言わないで。君は空を見たか? 今宵は月が出ない。君の負けだ」

 サードは天を仰ぐ。厚く濃厚なベールは、どんなに強い風でもすぐには吹き飛ばせないように思われる。だが、サードの顔は余裕で満たされている。彼は、緩慢な動きで手を上空に掲げた。

「愚かな。あの程度、私の力をもってすれば造作もない」

 手を払う。たったそれだけの動作だ。当然、空気が僅かに揺れた程度に過ぎないはずだ。しかし、雲は速やかに霧散し、美しき月が姿を現す。

「何! あいつも魔眼か何か持っているのか? だったら何でさっき使わなかった」

「魔眼? ああ、貴様の下品な能力のことか? 一緒にしないでくれたまえ。私のこの力は神から賜ったギフトだよ。んん、ほうらきた」

 美しき月が水面に映る。風は止み、静やかな夜に苦悶の声が響く。それは、幸子から発せられている。

 里香が飛び出そうとするのを来世が制止し、獅子王と氷室が発砲した。ゴム弾は胴体へ、銃弾は肩を射抜く。血が川に飛び散り、揺らめくボートの上でサードは倒れた。

「終わった? いや、まだだ」

 水面の月が光輝き、サードのボートを包む。それに呼応するようにサードは立ち上がり、瞬く間に全ての傷口が塞がった。

「何だ、その力は」

 来世の問いに、

「我は呼ばれし神だ」

 エコーがかかったような声でサードは答えた。

「冗談、キツイぜ。氷室、船を近づけろ。行くぜ、オメーさん方」

 来世たちのボートが前進する。その間も発砲を続けるが、弾は逸れていくばかりで何も効果がない。そればかりか、

「ち、近づけねぇ。どうなってんの? 来世君!」

「知るか! 崎森、どうにかしろ」

「はーい、ダーリン」

 崎森が札を散らばしながら、呪文を唱えるとあっけなくボートは前進し、サードの眼前に迫った。

「よくやった。おい」

「崎森さん!」

 崎森は口から血を吐き、倒れそうになったところを里香が支える。里香が崎森の顔に触れると、驚くほどの熱を持っていた。

「長く、は持たない。ここは今、奴らでいうところの古い世界と新しい世界が入り混じっている状態だ。早く、サードに降臨した神を退場させないといけない。もし、完全降臨を許してしまえば、ここら一帯は、あの神の命じられるがままの生活を強いられることになる」

「チィ、ろくでもないな。獅子王、氷室、行くぞ」

 ボートからボートへと飛び移り、氷室が銃を乱射。獅子王と来世が、サードへ殴りかかる。だが、いくら殴っても蹴っても、骨をへし折ってもあっという間に元通りに回復してしまう。

「なんだってんだい。ゲームでもこんなチート野郎中々出て来ねえぜ」

「ああ、やってられん。あ! おい、獅子王、しばらく間も持たせろ」

「は? おい」

 来世は、ボートの床に寝ていた幸子を抱きかかえる。いつも楽しそうに笑う整った顔が辛そうに歪んでいた。

「お、おい」

「あ、来世ちゃん。遅いわよ。どうや、ら。ぎ、儀式が始まったみたいね。私の存在が消えかかっているのが分かるわ」

「縁起でもないことを……」

 来世の声が途切れる。幸子の体が一瞬半透明になり、ボートの白い床が彼女越しに見えた。

「クッソ。どうすれば良い」

「来世君、避けろ!」

 前を向いた来世の眼前に、鋭い何かが見えた。瞬時に否定の魔眼で停止させようとするが、勢いは止まらず、来世の体を射抜く。

「グハア! う、何故! 魔眼の力が通じないだと」

「理人、相手は神だ。いくら君の力でも通じないよ。人間と神では存在の大きさが違う」

 来世は、立ってはいられず膝立ちになる。眼前を見れば、サード、いや新世界の神は周囲の水を宙に浮かせていた。

(まさか、川の水を弾丸みたいに操作したのかよ。へ、化け物が。このままじゃ終わる。どうすれば、コイツを倒せる? 人間じゃ無理なのか。ん? 人間なら……)

 来世は、幸子を拘束していた布をはぎ取り、不敵な笑みを浮かべる。

「来世ちゃん?」

「幸子、お前、俺に宿れるか?」

「駄目だ理人! 神を体に宿すなんて正気じゃない。ましてや、今この場所は波及の始まりが定義する世界に徐々に近づいて行っている。古き教えと同化してしまうと、君も幸子ちゃんと一緒に消えてしまうよ」

「やるしかない。崎森、成功率を上げる方法を考えろ」

 崎森は、痛む体を引きずり、サードのボートを眺めた。

 獅子王と氷室が地に倒れ伏し、神は来世に視線を向ける。

 スウ、と崎森の顔から血の気が引く。

「崎森さん、行きますよ」

「え、ちょ、何勝手にボートに接近してんの」

「崎森さんは結界? とかの維持に忙しいですよね。私がなんとかします。ほら考えて」

「君、理人に毒されているね! え、えーと。神を体に宿すわけだから、でも、巫女でもない理人ができるわけ。あ! いやできるかも。邪をもって悪を破砕するのが、邪破教の教え。

 理人は悪魔と契約している。つまり、悪の塊であり、その力を持って正義を成す、と定義すればいいのよ。だったら、これを用意すれば……はい!」

「これは……お札?」

 手渡されたのは、余白がないほど妙な文字がぎっしりと書かれたお札だった。

「理人の体にこれを張り付けて。この札で理人とあの神の空間を隔てる。そうすれば、来世の体自体が聖域となり、好きに一体化できるはず」

「え? なんて?」

「理解しなくていい。君は、理人にこれを届ければいいんだ!」

「なるほど、シンプルですね。おりゃー」

 里香は、ボートの側面に船体をぶつけると、勢いよく飛び出した。

 神のツブテが里香に殺到するが、彼女はスライディングで躱し、来世の体に札を張り付けた。

「よし! お前は」

「逃げません。ここでお守りします。ほら、早く」

 来世は頷き、幸子の手を握る。その瞬間、二人の体は輝く。

 当然、それを眺めている神ではない。水の針を幾通りも放とうとするが、

「待ちな!」

「俺たち、死んでないんですけどねえ!」

 獅子王と氷室の拳が阻む。

 何度も何度も殴りつけ、神を床に叩きつけるが、表情一つ変えずそれをやり過ごし、水の針を二人に放った。

 彼らは吹き飛ばされ、川に二つ水柱が立つ。

 瞬時に傷を回復させた神が、緩やかに体を起こし、手を挙げた。水面から空に向かって雨が降るように、数多の水滴が宙に浮かび上がり、空間を占領していく。

「あ、ああ」

 里香は身体を震わせる。魔眼屋で沢山の経験をした。辛いこともあったが、必死に乗り越え強くなったと実感できたのだ。だが、この絶望を乗り越える勇気はまだ備わっていない。

 天蓋を覆うは、死の星。美しくも恐ろしき水の針だ。

 だが、逃げない。震えても涙を流しても逃げない。なぜならば、

「逃げない。私だって魔眼屋の一員なんだ。大事な人と一緒にこれからも仕事していくんだ。こ、こんなところで逃げてたまるか!」

 神は、その言葉をきっかけに、水の針を放った。先ほど来世の体を貫いた映像が、里香の頭の中で再生された。間違いなく、一秒後に自分は死ぬだろう。それでも、里香は両手を広げて来世を庇った。

「里香ちゃん!」

 悲鳴に似た崎森の声が、夜の空に溶ける。針が船体を貫き、水しぶきが大量に上がって崎森には、彼らの姿が見えなくなった。

「お願い。生きてるよね」

 水しぶきは消え、視界があらわになる。一滴、水分が流れた。それは、川の水ではなく、崎森の眼から零れた涙であった。

「あ、ああ!」

 水の針が止まっている。目を瞑って震えている里香の体を抱きしめ、前方に手を突き出す来世の瞳は、オレンジ色に輝いていた。

「あ、あれ生きてる? わわ!」

「よくやった。後は俺と幸子に任せろ」

「成功、したんですね。良かった」

 安堵から里香は眠るように気絶した。来世は、ゆっくりと彼女を床に寝かし、神に問いかける。

「これから何を成す?」

「世界を導く」

「人の手にゆだねることはできないのか?」

「まだその時期ではなかった。未熟ゆえ意味のない殺戮を繰り返す」

「正論だな。だが、ここは人の世界なんだ。あんまり過保護はよしてくれ。それにな」

 来世の瞳が黄金色に変化する。鮮明な赤い色の天秤模様が中央に浮かび上がり、神の姿をその瞳に捉えた。

「生贄を欲するような奴はいらん。幸ノ神と審判ノ瞳は、生贄を殺人と定義し、お前を罪人として断罪する。お前はこの世界に不要な存在だ。二度と来れないように、別の世界へ追放する」

「馬鹿な……神を罰するなど」

「人が神を罰するのではない。神が神を罰するだけだ。俺はその手伝いをするに過ぎん。どのみち貴様に逃げ道はない。大人しく受け入れろ」

 ――鐘の音が鳴る。どこからともなく鳴った鐘は、一つ、二つと鳴るごとに、世界から色を奪いさり、全てを白と黒の世界に変貌させていく。

「これは、天秤の世界。なぜ、人ごときがこんな力を持っている」

「……さあな? だが、罪を犯したのならば、神であろうと平等に罰を与えよう。罪を噛みしめ、悔いる日々の中で今日を想え」

 色のない世界で、一人だけ来世は色彩を抱きしめ佇む。

 鐘は幾度も鳴り響き、徐々に瞳の光が輝きを増していく。溢れんばかりの輝きが、神の視界を覆った。

 ――カーン、カーン、カーン、……結論は出た。

 声が響く。

 ――判決を言い渡す。

 神は最後に、重々しい音が響いたのを聞いた。
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