第90話 ケース3 春、去り際に燃ゆる想い㉘
文字数 2,272文字
ベッドに横になっていた小百合は、窓から差し込む昼下がりの光に目を細めながら、創太の話に耳を傾ける。彼女は少々息苦しそうだが、表情は春に相応しく明るい。
小百合は、大部屋から個室へと移された。体調が最近あまり芳しくないこともあり、大事をとってナースステーション近くの部屋に移動させよう、という担当医の指示によるものだ。
「でよ、そのガキがタイムを縮めてえっていうから、走り方とそいつに合ったシューズを教えてやったのよ。そしたら、スゲー喜んでさ、クッキーなんかもらっちまったよ」
興奮した様子の創太の声が、病室を騒がしくする。
創太は、無事にスポーツティーチャーに就職できた。
主な担当エリアは、スポーツシューズ売り場で、まだ日も浅いがそれなりに客受けは良い。
小百合は、誰よりも創太の就職を喜び、嬉しすぎて看護師に叱られるまで夜更かししていたほどだ。
笑みを深めた小百合は、創太の手に置かれたクッキーを眺めた。
「あらー、もしかしたらその子あなたに気があるのかも。大事にしなきゃね」
「馬鹿、お袋。そのガキはまだ中学生だっつーの。ガキには興味ねえって」
「分からないわよー。最近では十歳くらい離れた夫婦なんてあたりまえでしょう。もしかしたら、もしかするかも」
ないない、と手を振りながら創太は、まんざらでもなさそうに笑う。
「ほほ、まあ、ご子息はあまりモテないらしいから、チャンスはものにしたいものよ」
親子水入らずの会話に、構わず水を差す者。その名は、しだれだ。
初めのうちは、知人でもないしだれが小百合に懐いているのが不気味で、毛嫌いしていた創太も最近では慣れてきたようで、特に気にした様子はない。
「うっせー。一日中ニート野郎に言われたくねーな。け、もう出勤時間になっちまったよ。かー、就労者キツイねー」
椅子から立ち上がった創太は、「早めに眠れよ」と言い残し、病室を去っていく。
穏やかに後姿を見送っていたしだれは、小百合に駆け寄ると背中をさすった。
「ゲホ、ゲホ」
小百合は、何度も何度も派手に咳をした。しだれは泣きそうな顔で背中をさすり続けながら、水の入ったコップを手にする。
「小百合さん。咳が収まったら、ゆっくり水を飲むんじゃ」
「……ケホ。はあ、はあ」
小百合は、水をむせないように飲む。少し温い水は、染みるように全身へと行き渡っていく。
「なあ、やっぱり、創太に教えといた方が良いのでは?」
小百合は、首を振った。
「駄目、絶対に教えないで。せっかく頑張っているのに、ここで私の調子を伝えたら、仕事に身に入らなくなってしまうかもしれないじゃない。フフ、くだらないって思うかもしれないけど、私にだって母親としてのプライドがあるんですよ。あまり変に気を使われるの、逆に苦しいの」
「そ、そうなのか? でも、家族っちゅうもんは助け合うものだと聞いた。ならば、包み隠さず話すのが良かろう。う!」
小百合の手が、しだれの後頭部に触れ、ぐいっと引き寄せる。額と額がかち合い、近距離で黒と桜色の瞳が視線を結ぶ。
「家族だから、隠したいと思うこともある。家族は、人間は、不思議なことだけど、簡単なようで簡単じゃないの。良い所も悪い所もあるのが人間だからかしらね。人間は、いつだって矛盾だらけだわ」
「……分からん。ワシには何だか分からん」
小百合の手から力が緩められ、しだれは尻もちをつくようにパイプ椅子へと腰かけた。
窓の外には、二羽の小鳥が元気に鳴きながら飛び交う姿がある。しだれは、しょうもない会話をしているな、と羨ましそうに吐息を吐き、呟いた。
「ワシは、その、そろそろこの街を出ることになっておるのじゃ」
「あら、そうなの。寂しくなるわね。……いつ頃?」
「あ、その。な、何月と言っておったっけ? あー、枝垂れ桜が咲く頃と来世に教えてもらったわ」
「フフ、ご自分の去る時期が分からないの? でも、そうか。枝垂れ桜が咲く頃。それじゃ、ちょうどお化け桜が移植されるのと同じくらいね」
しだれは、ギクリ、と肩を動かした。
お化け桜こと、しだれの本体は隣町へ移植されることが決まっている。前々から他の桜よりも随分大きく、通行の邪魔になっていることが問題視されていた。役所はその声を受け、移植を決めた、と発表したのである。
「そ、そうじゃ。偶然じゃの。ウハハ」
「そっか。お化け桜かー。もう一度、一目で良いから見たい。あの桜の木にサヨナラを言いたいわ」
しだれの表情が曇る。
「縁起が悪いことは言うな。もう一度だって何度だって見せてやるわい。移るったって、遠くに移動しないって話じゃ。元気になって、くるま、とかいう乗り物使えば、いつでも見れる。じゃから、下らんこと言ってないで、体を治すことだけ考えとけばええんじゃ」
あまりにも、しだれの表情は真摯だ。小百合は、微笑みを浮かべることができず、顔をそむけた。
「そう、ね。弱気になっているわね。これじゃ、良くない。治るものも治るもんですか。が……頑張らないと」
「ああ、もちろんじゃとも。創太は立派になる。ワシには分かる。色んな奴を見てきたから分かるんじゃ。きっとあいつは、お主が安心して見れるほど大きな男になる。じゃから、生きとかんといかんじゃろ」
しだれは、小百合の肩に手を置いた。震えている肩は、いかな感情からくるものか? 人ではないしだれには少し難しい。だが、こうしていると、しだれは緩やかな風に吹かれた時のように落ち着くのを感じる。
(ワシがいることで、ちょっとでも助けになれば良いんじゃが)
そう祈るように、しだれは目を閉じた。
小百合は、大部屋から個室へと移された。体調が最近あまり芳しくないこともあり、大事をとってナースステーション近くの部屋に移動させよう、という担当医の指示によるものだ。
「でよ、そのガキがタイムを縮めてえっていうから、走り方とそいつに合ったシューズを教えてやったのよ。そしたら、スゲー喜んでさ、クッキーなんかもらっちまったよ」
興奮した様子の創太の声が、病室を騒がしくする。
創太は、無事にスポーツティーチャーに就職できた。
主な担当エリアは、スポーツシューズ売り場で、まだ日も浅いがそれなりに客受けは良い。
小百合は、誰よりも創太の就職を喜び、嬉しすぎて看護師に叱られるまで夜更かししていたほどだ。
笑みを深めた小百合は、創太の手に置かれたクッキーを眺めた。
「あらー、もしかしたらその子あなたに気があるのかも。大事にしなきゃね」
「馬鹿、お袋。そのガキはまだ中学生だっつーの。ガキには興味ねえって」
「分からないわよー。最近では十歳くらい離れた夫婦なんてあたりまえでしょう。もしかしたら、もしかするかも」
ないない、と手を振りながら創太は、まんざらでもなさそうに笑う。
「ほほ、まあ、ご子息はあまりモテないらしいから、チャンスはものにしたいものよ」
親子水入らずの会話に、構わず水を差す者。その名は、しだれだ。
初めのうちは、知人でもないしだれが小百合に懐いているのが不気味で、毛嫌いしていた創太も最近では慣れてきたようで、特に気にした様子はない。
「うっせー。一日中ニート野郎に言われたくねーな。け、もう出勤時間になっちまったよ。かー、就労者キツイねー」
椅子から立ち上がった創太は、「早めに眠れよ」と言い残し、病室を去っていく。
穏やかに後姿を見送っていたしだれは、小百合に駆け寄ると背中をさすった。
「ゲホ、ゲホ」
小百合は、何度も何度も派手に咳をした。しだれは泣きそうな顔で背中をさすり続けながら、水の入ったコップを手にする。
「小百合さん。咳が収まったら、ゆっくり水を飲むんじゃ」
「……ケホ。はあ、はあ」
小百合は、水をむせないように飲む。少し温い水は、染みるように全身へと行き渡っていく。
「なあ、やっぱり、創太に教えといた方が良いのでは?」
小百合は、首を振った。
「駄目、絶対に教えないで。せっかく頑張っているのに、ここで私の調子を伝えたら、仕事に身に入らなくなってしまうかもしれないじゃない。フフ、くだらないって思うかもしれないけど、私にだって母親としてのプライドがあるんですよ。あまり変に気を使われるの、逆に苦しいの」
「そ、そうなのか? でも、家族っちゅうもんは助け合うものだと聞いた。ならば、包み隠さず話すのが良かろう。う!」
小百合の手が、しだれの後頭部に触れ、ぐいっと引き寄せる。額と額がかち合い、近距離で黒と桜色の瞳が視線を結ぶ。
「家族だから、隠したいと思うこともある。家族は、人間は、不思議なことだけど、簡単なようで簡単じゃないの。良い所も悪い所もあるのが人間だからかしらね。人間は、いつだって矛盾だらけだわ」
「……分からん。ワシには何だか分からん」
小百合の手から力が緩められ、しだれは尻もちをつくようにパイプ椅子へと腰かけた。
窓の外には、二羽の小鳥が元気に鳴きながら飛び交う姿がある。しだれは、しょうもない会話をしているな、と羨ましそうに吐息を吐き、呟いた。
「ワシは、その、そろそろこの街を出ることになっておるのじゃ」
「あら、そうなの。寂しくなるわね。……いつ頃?」
「あ、その。な、何月と言っておったっけ? あー、枝垂れ桜が咲く頃と来世に教えてもらったわ」
「フフ、ご自分の去る時期が分からないの? でも、そうか。枝垂れ桜が咲く頃。それじゃ、ちょうどお化け桜が移植されるのと同じくらいね」
しだれは、ギクリ、と肩を動かした。
お化け桜こと、しだれの本体は隣町へ移植されることが決まっている。前々から他の桜よりも随分大きく、通行の邪魔になっていることが問題視されていた。役所はその声を受け、移植を決めた、と発表したのである。
「そ、そうじゃ。偶然じゃの。ウハハ」
「そっか。お化け桜かー。もう一度、一目で良いから見たい。あの桜の木にサヨナラを言いたいわ」
しだれの表情が曇る。
「縁起が悪いことは言うな。もう一度だって何度だって見せてやるわい。移るったって、遠くに移動しないって話じゃ。元気になって、くるま、とかいう乗り物使えば、いつでも見れる。じゃから、下らんこと言ってないで、体を治すことだけ考えとけばええんじゃ」
あまりにも、しだれの表情は真摯だ。小百合は、微笑みを浮かべることができず、顔をそむけた。
「そう、ね。弱気になっているわね。これじゃ、良くない。治るものも治るもんですか。が……頑張らないと」
「ああ、もちろんじゃとも。創太は立派になる。ワシには分かる。色んな奴を見てきたから分かるんじゃ。きっとあいつは、お主が安心して見れるほど大きな男になる。じゃから、生きとかんといかんじゃろ」
しだれは、小百合の肩に手を置いた。震えている肩は、いかな感情からくるものか? 人ではないしだれには少し難しい。だが、こうしていると、しだれは緩やかな風に吹かれた時のように落ち着くのを感じる。
(ワシがいることで、ちょっとでも助けになれば良いんじゃが)
そう祈るように、しだれは目を閉じた。