第78話 ケース3 春、去り際に燃ゆる想い⑯
文字数 1,785文字
――しだれが徳大寺 小百合と出会ってから二週間が過ぎた。
桜の満開が間近に迫り、テレビのニュースでは、人々にお花見についてインタビューをする様子が映し出されていた。
小百合は、ぼんやりとベッドに座り、テレビの画面を眺めている。
「もし、元気かの?」
振り向かなくても小百合には誰だか見当がついている。毎日毎日、時間が許す限り彼は訪れた。
こんなおばさんと会話をして楽しいかしら? と思ったが、不思議と彼は退屈をしていないようだった。
美味しい食べ物を食べたこと、面白かったこと、嬉しくなったこと。話している内容は他愛のないものばかり。けれど、彼は楽しそうに笑う。その笑顔を、小百合は不思議と懐かしいと感じる。最近出会ったはずなのに、遠い昔から知っているような安堵感。一体これはどうしたことだろう?
「小百合さんや。どうしたのか?」
呼ばれて、自分が考えごとをしていたことに気付く。小百合は、ゆっくりと顔を後ろに向けた。
「ああ、ごめんなさい。ボケッとしていたみたい。いやね、年を取るとぼんやりすることが多くて」
「年っていうほどの年齢じゃあるまい。まだまだ若いじゃろうて」
「あら、お世辞? 飴玉くらいしかあげられないわ」
しだれは、釈然としない様子で顔を歪めた。あまりにもおかしな顔だ。小百合は、手を口元に当て、わずかに音を立てて笑う。
――本当に穏やかな日々だ。
こんなに穏やかだと、自分の病気のことや息子の将来に対する不安も少し薄れる気がした。小百合は、しだれの淡い桜色の瞳を眺める。雲一つない澄んだ青空、太陽に照り返ったビー玉、降り積もった穢れない雪原、桜が舞い散る風の中。澄み切った無邪気な目は、どんな言葉が似合うだろう。
(きっとどれも素敵に似合うけど、桜が似合うわね。瞳の色と名前からしてもそうに違いない。……それにしても一体どんな生き方をすると、こんなに美しい輝きを放つのかしら? きっと恵まれた良い環境で育ったのでしょうね。――ああ、でも)
その瞳は、寂しいと叫ぶ子供のようにも見える。しだれが小百合に話をする時、彼はまるで縋るような必死さで言葉を発するのだ。
「そうじゃ、飴玉といえば、今日はらーめんとやらを初めて食ったのじゃ。細い枝みたいで、食いにくいのじゃが、なかなかに美味であった」
「初めて? あなた、三十歳くらいでしょう。若い方だったら、しょっちゅう食べる人も多いのに、どんなものを普段食べていたのかしら」
「え、あー、その。ちょっと偏食気味での。や、たまには違った食べ物も良いもんじゃ」
穏やかにしだれは笑う。本当に何が楽しいのか分からないが、釣られて小百合も笑ってしまう。だが、笑いすぎたせいか、小百合は派手にせきこんでしまう。
「だ、大丈夫かの? な、ナースコールはいるか?」
「ゲホ、ゲホ、う、ううん。ゲホ、いらない。大丈夫。少し、したら治まるから」
苦しい。呼吸をしても、まるで酸素が足りない。――ああ、全く情けない。昔は、周りが驚くほど健脚で、遠い距離も歩けたというのに、今はもう、元気に笑うことすら難しくなってしまった。
(あら)
ふと、背中に温かな感触がした。手の形にじんわりと暖かい。その手は優しく、けれども大地に根が張ったようにしっかりと小百合の背中をさすり、支えてくれた。
「無理はいかん。横になるのじゃ。さあ」
ベッドが軋み、小百合の体がシーツに沈む。泥のように体が重い。今日は少しだけ調子が悪いようだ。
「しばらく横になっておるのだ。安静にな。……しばらくワシは席を外すゆえ、どうかゆっくり休んでおくれ」
「あ……」
小百合が止める間もなく、しだれは去っていった。手が宙で静止し、ほどなくしてベッドに落ちる。――ああ、恥ずかしい。いい歳して、心細いからちょっといてほしい、と呼び止めようとしたなんて。
「ゲホ、ゲホ、ふう、う……、まあ」
窓から覗く青空は、遠くの方から迫ってくる厚い雲に覆われてしまいそうだ。そろそろ、雨が降るかもしれない。……雨は嫌いだ。好きでずっと見に行っていたお化け桜。ほぼ毎日通っていたが、大雨が降ると断念せざるを得なかった。それに、雨が降り、辺りが暗くなると、幼かった創太が泣く姿を思い出してしまう。暗いところが嫌だ、と何度あの子は泣いただろう。
「傘、持っているのかしら?」
呟く声は、水気を含んだ風がさらっていった。
桜の満開が間近に迫り、テレビのニュースでは、人々にお花見についてインタビューをする様子が映し出されていた。
小百合は、ぼんやりとベッドに座り、テレビの画面を眺めている。
「もし、元気かの?」
振り向かなくても小百合には誰だか見当がついている。毎日毎日、時間が許す限り彼は訪れた。
こんなおばさんと会話をして楽しいかしら? と思ったが、不思議と彼は退屈をしていないようだった。
美味しい食べ物を食べたこと、面白かったこと、嬉しくなったこと。話している内容は他愛のないものばかり。けれど、彼は楽しそうに笑う。その笑顔を、小百合は不思議と懐かしいと感じる。最近出会ったはずなのに、遠い昔から知っているような安堵感。一体これはどうしたことだろう?
「小百合さんや。どうしたのか?」
呼ばれて、自分が考えごとをしていたことに気付く。小百合は、ゆっくりと顔を後ろに向けた。
「ああ、ごめんなさい。ボケッとしていたみたい。いやね、年を取るとぼんやりすることが多くて」
「年っていうほどの年齢じゃあるまい。まだまだ若いじゃろうて」
「あら、お世辞? 飴玉くらいしかあげられないわ」
しだれは、釈然としない様子で顔を歪めた。あまりにもおかしな顔だ。小百合は、手を口元に当て、わずかに音を立てて笑う。
――本当に穏やかな日々だ。
こんなに穏やかだと、自分の病気のことや息子の将来に対する不安も少し薄れる気がした。小百合は、しだれの淡い桜色の瞳を眺める。雲一つない澄んだ青空、太陽に照り返ったビー玉、降り積もった穢れない雪原、桜が舞い散る風の中。澄み切った無邪気な目は、どんな言葉が似合うだろう。
(きっとどれも素敵に似合うけど、桜が似合うわね。瞳の色と名前からしてもそうに違いない。……それにしても一体どんな生き方をすると、こんなに美しい輝きを放つのかしら? きっと恵まれた良い環境で育ったのでしょうね。――ああ、でも)
その瞳は、寂しいと叫ぶ子供のようにも見える。しだれが小百合に話をする時、彼はまるで縋るような必死さで言葉を発するのだ。
「そうじゃ、飴玉といえば、今日はらーめんとやらを初めて食ったのじゃ。細い枝みたいで、食いにくいのじゃが、なかなかに美味であった」
「初めて? あなた、三十歳くらいでしょう。若い方だったら、しょっちゅう食べる人も多いのに、どんなものを普段食べていたのかしら」
「え、あー、その。ちょっと偏食気味での。や、たまには違った食べ物も良いもんじゃ」
穏やかにしだれは笑う。本当に何が楽しいのか分からないが、釣られて小百合も笑ってしまう。だが、笑いすぎたせいか、小百合は派手にせきこんでしまう。
「だ、大丈夫かの? な、ナースコールはいるか?」
「ゲホ、ゲホ、う、ううん。ゲホ、いらない。大丈夫。少し、したら治まるから」
苦しい。呼吸をしても、まるで酸素が足りない。――ああ、全く情けない。昔は、周りが驚くほど健脚で、遠い距離も歩けたというのに、今はもう、元気に笑うことすら難しくなってしまった。
(あら)
ふと、背中に温かな感触がした。手の形にじんわりと暖かい。その手は優しく、けれども大地に根が張ったようにしっかりと小百合の背中をさすり、支えてくれた。
「無理はいかん。横になるのじゃ。さあ」
ベッドが軋み、小百合の体がシーツに沈む。泥のように体が重い。今日は少しだけ調子が悪いようだ。
「しばらく横になっておるのだ。安静にな。……しばらくワシは席を外すゆえ、どうかゆっくり休んでおくれ」
「あ……」
小百合が止める間もなく、しだれは去っていった。手が宙で静止し、ほどなくしてベッドに落ちる。――ああ、恥ずかしい。いい歳して、心細いからちょっといてほしい、と呼び止めようとしたなんて。
「ゲホ、ゲホ、ふう、う……、まあ」
窓から覗く青空は、遠くの方から迫ってくる厚い雲に覆われてしまいそうだ。そろそろ、雨が降るかもしれない。……雨は嫌いだ。好きでずっと見に行っていたお化け桜。ほぼ毎日通っていたが、大雨が降ると断念せざるを得なかった。それに、雨が降り、辺りが暗くなると、幼かった創太が泣く姿を思い出してしまう。暗いところが嫌だ、と何度あの子は泣いただろう。
「傘、持っているのかしら?」
呟く声は、水気を含んだ風がさらっていった。