第114話 ケース5 侵略する教え①
文字数 1,128文字
――ゼエ、ゼエ。
夜の熱気を凝縮したような熱い息を吐きながら、スーツ姿の女が慌ただしく駆けていく。
閑静な住宅街は、そんな彼女とは対照的に寝静まり、吐く息がやけに大きく辺りへ響いた。
(どうして、私が! どうして、もうどうしてよ。今日に限ってこんなに遅い時間まで残業してしまったの)
後悔が、涙と一緒に溢れてくる。
いつも通りの日常。ただ、今日は仕事に対する熱意が高まっていただけだ。うっかり、終電を逃してしまった。
だが、問題はない。逃してしまったのなら、マンガ喫茶で流行りの漫画をチェックして眠る。それだけだったはずなのに。
女は後ろを振り返る。
軽自動車が辛うじて通れるくらいの狭い道は、月明かりさえない夜に塗りつぶされて暗い。だが、等間隔に並ぶ街灯が、追跡者の姿をおぼろげながら女に知らせている。
黒いジーパンに黒い半袖Tシャツ。全身を黒一色で染め上げた男は、夜に溶けているようだ。だが、顔につけた真っ白い仮面が目立つ。表情はなく、ただ目と口の部分に丸い穴だけが開いたその仮面は、街灯の光を浴びて浮かび上がり、スプラッター映画の殺人者のように自己主張が激しい。
カッ、カッと硬い音を鳴らす彼女のローファーに対して、男は無音で近寄ってくる。
女は悲鳴を上げながら、周囲を見渡す。
人の姿は見当たらない。助けに期待できない。どうしよう、どうしたら……。
焦りは、普段聡明な彼女から思考力を奪っていく。
「こ、この道は駄目。どこか、見つからない、とこ」
一戸建て住宅の堀に挟まれた小道に入り、大きなごみ箱に足が引っかかり盛大にこけてしまう。
「い、った。あ、ああ。ヒッ」
小道の入り口に男の姿が見える。
転がるように立ち上がりながら、逃走を続けた。
転んだ時に擦りむいた膝から焼けるような痛みが走る。
こんな時だというのに、子供の頃に膝をすりむいて父親に縋りついたことを思い出した。
「ハア、ハア、ハア、う、嘘よ」
目の前に、背の高いフェンスが現れた。
彼女の運動能力は悪くはない。登れないわけではないが、水の流れるような音がフェンスの向こう側から聞こえてくる。
「川? ど、どうしよう。で、でも飛び込まないと」
靴を脱ぎ捨て、フェンスに指をかける。後ろを振り返っている余裕はない。
フェンスの高さは二メートルほど。上部の枠にあと少しで手が届く。
大丈夫、大丈夫、絶対、大丈夫。
祈るような気持ちで枠に手を伸ばす。
「もう、少し。え?」
引っ張られる感覚。恐る恐る後ろを振り返ると、真っ白いお面と目が合った。
「あ、いや、やめて。私がなにをしたのよぉぉぉ。いや、お父さん、お母さん」
月明かりさえない墨汁に似た漆黒の夜に、女のひときわ大きな悲鳴が響き、そして静まり返った。
夜の熱気を凝縮したような熱い息を吐きながら、スーツ姿の女が慌ただしく駆けていく。
閑静な住宅街は、そんな彼女とは対照的に寝静まり、吐く息がやけに大きく辺りへ響いた。
(どうして、私が! どうして、もうどうしてよ。今日に限ってこんなに遅い時間まで残業してしまったの)
後悔が、涙と一緒に溢れてくる。
いつも通りの日常。ただ、今日は仕事に対する熱意が高まっていただけだ。うっかり、終電を逃してしまった。
だが、問題はない。逃してしまったのなら、マンガ喫茶で流行りの漫画をチェックして眠る。それだけだったはずなのに。
女は後ろを振り返る。
軽自動車が辛うじて通れるくらいの狭い道は、月明かりさえない夜に塗りつぶされて暗い。だが、等間隔に並ぶ街灯が、追跡者の姿をおぼろげながら女に知らせている。
黒いジーパンに黒い半袖Tシャツ。全身を黒一色で染め上げた男は、夜に溶けているようだ。だが、顔につけた真っ白い仮面が目立つ。表情はなく、ただ目と口の部分に丸い穴だけが開いたその仮面は、街灯の光を浴びて浮かび上がり、スプラッター映画の殺人者のように自己主張が激しい。
カッ、カッと硬い音を鳴らす彼女のローファーに対して、男は無音で近寄ってくる。
女は悲鳴を上げながら、周囲を見渡す。
人の姿は見当たらない。助けに期待できない。どうしよう、どうしたら……。
焦りは、普段聡明な彼女から思考力を奪っていく。
「こ、この道は駄目。どこか、見つからない、とこ」
一戸建て住宅の堀に挟まれた小道に入り、大きなごみ箱に足が引っかかり盛大にこけてしまう。
「い、った。あ、ああ。ヒッ」
小道の入り口に男の姿が見える。
転がるように立ち上がりながら、逃走を続けた。
転んだ時に擦りむいた膝から焼けるような痛みが走る。
こんな時だというのに、子供の頃に膝をすりむいて父親に縋りついたことを思い出した。
「ハア、ハア、ハア、う、嘘よ」
目の前に、背の高いフェンスが現れた。
彼女の運動能力は悪くはない。登れないわけではないが、水の流れるような音がフェンスの向こう側から聞こえてくる。
「川? ど、どうしよう。で、でも飛び込まないと」
靴を脱ぎ捨て、フェンスに指をかける。後ろを振り返っている余裕はない。
フェンスの高さは二メートルほど。上部の枠にあと少しで手が届く。
大丈夫、大丈夫、絶対、大丈夫。
祈るような気持ちで枠に手を伸ばす。
「もう、少し。え?」
引っ張られる感覚。恐る恐る後ろを振り返ると、真っ白いお面と目が合った。
「あ、いや、やめて。私がなにをしたのよぉぉぉ。いや、お父さん、お母さん」
月明かりさえない墨汁に似た漆黒の夜に、女のひときわ大きな悲鳴が響き、そして静まり返った。