第122話 ケース5 侵略する教え⑨

文字数 4,820文字

 川面に夕日の赤い光が、キラキラと反射していた。

 街は、夏の暑さを体現したかのように、真っ赤に燃え盛る。

 里香たちは、来世と連絡を交わした後、夕京川の下流付近に足を運んだ。

 名物であったお化け桜が撤去されたとはいえ、川を挟むように並ぶ桜並木は、人々の憩いの地としていまだ健在である。

 瑞々しい青葉に彩られた桜の木々の下、多くの人々がゆるりと歩く速度を緩め、風に目を細めていた。

 事件から二週間経過しているからだろうか、遺棄現場に警察の姿は見当たらず、街は以前と変わらぬ様子で一日を終えようとしている。

(やだな。人が死んだのに、何か申し訳ないっていうか)

 そんな感傷じみた心に、里香は吐息を漏らす。

「あら、疲れちゃったかしらお嬢さん?」

 隣を歩く崎森が、いたずらめいた笑みを湛え、里香を見下ろしている。

 里香は、ムッと眉根を寄せ、崎森にペットボトルを差し出す。

「私、結構体力には自信があるんです。若いので。崎森さんこそ、年が年ですし疲れちゃったのでは?」

「余計な気遣いは無用よ。仕事柄、運動はハードにやってるの私。ほら、スタイル良いでしょ? 里香ちゃんも悪くないけど、まあ、ね?」

 フン、と二人はそっぽを向く。

 二人の少し後ろを歩く幸子は、ウンザリしたように肩を落とした。

 さっきから、具体的には来世の事務所を出た直後からナイフで刺しあうような、なかなかにスリリングな戦いが繰り広げられている。

「はいはい、あんまりうるさいとオバサン怒っちゃうよ」

「……なんか、幸子ちゃんに言われると妙な感じね。私より、年上なんだろう?」

「そうよ、お姉さん。う」

 ふらりと幸子の小さな体が揺れた。咄嗟に支える崎森。艶やかな妖女の口から、アッと言葉が漏れる。

「幸子ちゃん、あなた。存在が揺らいでいるね」

「……存在が揺らぐ、そうね。そうかもしれない。最近、ちょっと具合が悪いとは思ってたけど、存在が揺らいでいたのね」

 え、え? と呟きながら、里香は幸子に駆けよった。

 幸子は額から汗を流し、苦しそうに胸を上下させている。里香は、苦しさがうつったかのように、表情を曇らせた。

「どうして? 病気なんですか? だったら休ませなきゃ」

「休んでも、気休めだわ。そもそも彼女は神なのだから、本来体調が悪くなったりはしない。……断言はできないけど、波及の始まりの儀式が関係しているのかもしれない」

「儀式って、あの、波及の始まり以外の教えを否定するってやつですか?」

「ええ。儀式の第一段階は成功した。だから、もう影響が出ているのかも。ちょっと待ってて」

 里香に幸子を預け、崎森は谷間から札を取り出した。七夕の短冊に似たその札に、何やら呪文を呟きながら筆ペンで星と奇妙な文様を彼女は書き込んでいく。

「ほら、これを懐に入れといてもらえるかい」

「あ、凄い。楽になった。どうしてかしら」

「その札に貼られた対象の存在を補強する内容を、札に書き込んだ。一時的にだけど、儀式の影響を和らげてくれる。ゲームでいうところのバフかな。

陰陽道の考え方を応用した私オリジナルの札よ。邪破教は、陰陽道の教えも取り入れているようだから、邪破教の神である君と相性がいいと思ったんだ」

「フーン。ありがとう、ヒナちゃん」

 ケロリ、とさっきまでの苦しそうな姿が幻想だったかのように、幸子は軽やかに立ち上がった。ほう、と里香は大きく息を吐く。

「あの、崎森さん、ありがとうございます。そ、それと、さっきから態度悪かったですよね。すいません」

 ギョッとした様子で崎森は、僅かに体を仰け反らせた。目を見開き、里香を眺めていたが、舌打ちをして気まずそうに俯く。

「何よ。私が悪いみたいじゃない」

「え? いや、良いことしましたよ」

「そうじゃないわよ。ボケ娘」

「ボ、ボケって、ええ?」

 口を開け、顔面の筋肉すべてで困惑を表現する里香を見て、近くを通りかかった数名が笑った。それは、崎森も幸子も例外ではない。特に崎森は、腹を抱えて派手に笑った。

「ちょ、ちょっとその辺で」

「え、いや、だって、だいぶ面白いよ。君、将来はお笑い芸人になるといい」

「嫌ですけどぉ!」

 リスのように膨らむ里香の頬。崎森は里香に歩み寄り、彼女の頬をつついた。

「はいはい。ごめんごめん。ひとまず、個人的感情に振り回されるのは、これでなしにしとくよ」

「むう、一理ある。りょ、了解」

 幸子を気遣いながら、里香は歩き出す。

 崎森は恥ずかしそうな笑みを浮かべながら、ペンデュラムを手に持ち、ユラリユラリと宙に軌跡を描くように揺らしていた。

「確か、遺棄の現場は川の中だったね。死体は、川の流れで流されていかないように、重りがつけられた状態だったらしい」

「そんな。死んだ後も水の中で拘束されていたってことですか? 許せないです」

「連中にそんな道徳心なんかないよ。ん、反応。幸子ちゃん、川のあの辺りに違和感ない?」

 崎森の長い人差し指が、川の中央を指し示す。僅かに波打つ水面は、いつもと変わらず穏やかに流れているように見えた。

 しかし、幸子は、その赤灼けに揺れる焔の宝石にも似た水面を見て、気持ち悪い、と呟く。

「あそこの部分だけ、膿が出来ているみたいだわ。……強い、否定の意思を感じる。お前らは不要だ、消えてくれって。なんて、不快なの」

 後半の言葉は、吐き気を催す臭い泥を塗りたくられたような声色であった。里香は、幸子の言葉を胸に刻みながら、水面を見るが、特に不快さを催すようなものはない。

「と、なれば、やっぱりあの地点が儀式の場所で間違いない。理人が送ってくれた資料を見ても間違いないでしょうね」

「え、資料ですか? 私は何も知りませんけど」

 ああ、と頷いた崎森は、里香に自身のスマホ画面を見せた。画面には、夕京街の地図と、その上に重ねられた三枚の書類が表示されている。

「理人がさっき敵の拠点で見つけたものよ。この夕京川のところに、丸があるの見える? これ、死体が遺棄された場所。幸子ちゃんの反応を見るに、儀式において最も重要な場所であるのはほぼ間違いがないでしょう」

「そう、でしょうね。あの……」

「ん?」

 里香は、キツイ目つきで崎森を見た。

「あの、その情報、私知らないんですけど、どういうことですか? さっきから来世さんに連絡しても、皆と協力しろってしか指示されないんです。私、助手ですよ。どうして、あなたには情報が共有されてるんですか」

 徐々に声量は上がっていき、最後の方はほとんど叫ぶような響きであった。

 嫌だ、私、何でこんなに取り乱してんの? と、里香は自分自身に困惑する。涙が目から溢れて、ギュッと拳を握った。

「……君がまだガキだからよ」

「な、ガキって」

「ガキだよ。大人に守られて生きている存在でしょ。そうじゃないって否定するのはよしなさいな。誰だって子供のうちは、大人の助けが必要なものなの。いいえ、大人になっても誰かの助けはいる。人に頼ることは決して駄目なことじゃない。でも、それを認めないのは駄目だけどね。そこらは、きちんと理解している?」

 里香は深く頷く。

 あ、そ、と冷たく視線を里香から逸らした崎森は、言葉を続けた。

「君は、親や学校の先生、そして理人に守られているの。理人は、あなたの意思を尊重して、あなたを雇い続けているのでしょうね。

でも、理人の仕事は裏稼業。本来であれば、君のような真っ当な生き方をしている子が見てはいけない世界よ。暴力や人の心の汚さ、死、そんな負の光景に慣れてしまえば、もう日の光の下で生きていくのが難しくなる。

 どれだけ気を張って自分は大丈夫と言い聞かせても無駄。臭いのキツイ部屋にずっといたら、服に臭いがしみこんじゃうでしょう? それと一緒よ」

「そ、それはそうかもしれません。でも、助手だからこそ、もっと来世さんの助けになりたいんです」

「この、贅沢者」

 里香の胸倉を、崎森を掴み、グッと顔を近づけた。

「理人は君を大切に想ってるよ。だからこそ、情報を私と幸子ちゃんだけに共有している。あなたには極力負の部分は見せないようにするための配慮。大人が君を守るんだって、優しさよ。……そんなに大事にされてんだから、あんまり贅沢言わないで」

 一瞬、里香の頬に朱が差し込む。だが、すぐに不愉快そうな顔になってしまった。

「贅沢だろうと気に食わないなら文句だって言います。助手が、外部の協力者よりも知らないっておかしいでしょ。子供だろうが何だろうが、プライド持って仕事してるんだからぁ!」

「ガキのくせに生意気だね。……でも、君の意思は分かったよ。」

 崎森は、スマホを里香に押し付けた。唐突な動きに里香は戸惑う。だが、画面に表示された情報を見て不敵に笑った。

「分かってるじゃないですか」

「まあね。これ、理人には言わないようにね。君に全ての情報を晒したってバレたら嫌われちゃう」

「えー、どうしようかな?」

 ギリ、と何かが軋む音がした。里香は、恐る恐るスマホから顔を離すと、鬼のような形相で睨む美貌と目が合う。

「あ、あー、すいません。絶対言いません」

「よろしい。あと、死体の画像などは、あまり直視しないように。さっきも言ったけど、多少なりとも心に良くない影響があるからね」

「あ、はい」

 里香は、スマホの画面をスライドさせ、次々と事件関連の情報を流し見る。どれも心地良いものではない。

「う」

 特に里香が顔を歪めた画像は、女性の死体である。恐ろしい断末魔を上げた表情のまま、水面にその顔を晒していた。

 あんまり、見ないようにー、と呟きながら、里香は、薄目を開けて画面を観察していると、ふとあることに気がついた。

「……綺麗な月が水面に。んーと、【せいたん、いけにえ、みなもの】ってあの手帳に……。みなものってもしかして、水面の? ねえ。崎森さん、あのー、何だっけ。ほら、来世さんがくれた資料に、確か」

 里香は、スライドして目的の情報を見つけた。

「この、白い紙に文字が書かれている画像。これの……【真白き世界】ってところ。真白い世界って月のことなんじゃないかな?」

 崎森は、口を手で覆った。

「そうだわ、それよ。さっきから私もその文言が気になっていた。【真白き世界】は、古き教えを排して訪れる新世界のこと。そして、月は新世界を象徴する真白き世界を意味する。 

【天空から見下ろすあの純白は、我らが目指すべき新世界の手本である。道が見えず迷い戸惑った時、天を見上げろ。理想の答えはそこにある】……あいつらの教典の一ページ目に記されている言葉さ」

「じゃ、じゃあ。白い月が昇るタイミングに儀式をするんじゃないんですか」

「……ウーン、こっち方面は私の専門といえど、さすがに信者じゃないからね。絶対の自信はないけど、もし白い月が関係あるならば、八月三十一日の深夜一時に月が昇った時か……」

 崎森は、歯切れ悪く黙り込んだ。

 里香が口を開こうとした時、幸子が手を挙げた。

「ねえ、質問。月が昇った時っていうけど、それって曇ってたらどうなの? 月が見えなくても問題ない?」

「……いや、駄目だと思う。波及の始まりに限った話ではないけど、宗教には世界観が重要なのさ。彼らにとって月は、白き世界と同義の世界だ。雲がかかっていたら、月と白き世界がリンクしておらず、波及の始まりの世界観が崩れてしまう。

 でも、だとすると、あまりにも運頼みすぎる。今回の儀式は簡単にやり直しが効くようなものじゃない。恐らく幾通りも成功させるための予備プランがあるはずなんだけど、駄目だね。情報が少なすぎる。現状じゃ、これくらいしか分からない」

 崎森は、不愉快そうにため息を吐き、里香に近づくと「早速お手柄だね助手さん」と低い声で呟いた。

 ブルブルと背筋に冷たいものを感じたが、里香はニヤリと笑って見せる。

「この娘……」

 崎森は、鋭い目で里香と見つめ、もとい睨み合う。

 幸子が、心底疲れたように深く、長く息を吐いた。
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