第92話 ケース3 春、去り際に燃ゆる想い㉚~完~

文字数 4,560文字

 夏になれば強い日差しも、今はまだ春の柔らかな日差しのままでいる。

 桜並木の道には、見事に開花した桜を一目見ようと多くの人が道を歩く。

 人々は桜に想いを馳せ、笑いさざめく。

「フン、能天気なもんだ」

 来世は、桜並木の道沿いにある路肩に車を停め、欠伸を噛み殺した。

「もう、そんなこと言って来世さんだって随分能天気なもんでしょ。朝からずっとそんな調子。気を抜きすぎて、帰りに事故を起こさないでくださいね」

 助手席に座る里香は、眉根を寄せて釘をさす。来世はハエでも払うように手を振ると、後部座席に視線を移した。

「おい、そろそろ時間だ。何か、言い残しておくこととかないのか?」

 来世の問いに、後部座席に座るしだれは首を振る。

 彼の表情は、決して明るいものではないが、小百合が亡くなった直後に比べれば、幾分ましになった。しだれは、視線を前に向ける。その先には、間もなくトラックの荷台への積み込みが完了し、移動が開始されそうなお化け桜の姿があった。

 通常ではありえないほど大きな木であったため、移植作業そのものは半年以上前から進められていた。美しく開花したタイミングでお化け桜をよそに移すのはいかがなものか、という反対意見もあったようだが、結局従来の予定通り今日移植することが決まり、来世と里香が見送りがてら車でここまで送ってきたのだ。

「しだれさん、創太さんに一言くらいないんですか?」

「いや、昨日の内に別れは済ませたよ。いっちょ前に泣きおってからに笑えたのう。……あー、ただ」

「……ただ、何です?」

 返事をしないしだれに里香は首を傾げ、来世を見るが彼にも分かるわけはない。

 来世と一緒に肩をすくませた里香は、辛抱強く返事を待った。

「……や、すまん。分からんわい。様々な言葉がウロチョロするんじゃが、それをどう表現したら良いのか分からんのじゃ。……あ、じゃが」

 しだれは、深々と頭を下げた。

「お主らに対しての言葉は決まっとる。ありがとうじゃ。本当に世話になった。まさか人間になって小百合さんと話せるとは思わなかった。感謝してもしきれんわい」

 来世は、わずかに頬を緩ませた。

「よせ、依頼だから世話を焼いただけさ。何も気にすることはない」

「いや、そんなことはない。お主らのおかげで、ワシは色んな世界を知った。毎日、本当に楽しくて素敵じゃったよ。人間になった桜の木なぞ、後にも先にもワシだけじゃろうて。向こうにも桜の木はおるようだし、たっぷり自慢してやるわい」

 しだれは、そこで一度言葉を切る。淡い桜色の瞳は、自身の足元に向けられ、何かを探すように右往左往している。

「落とし物ですか?」

 里香の問いは、あっさりと否定された。

「積み込みおっけい。おーい、そろそろ行くぞ」

 作業員の腹の底から吐き出された大声に、しだれの肩が動く。彼は息を深く吸い、ゆっくりと吐き出すと、来世を見た。

「お別れのようじゃ。……これを受け取ってくれぬか」

 しだれは、白く細長い封筒を懐から取り出すと、突き出すように来世に手渡した。

 来世が視線で意図を尋ねると、しだれは照れ臭そうに笑った。

「それは、ワシが何度も考えて分からなかった小百合さんに対する気持ちを綴った手紙じゃ。正直、世話になりまくったお主に自分の悩みを丸投げするようで気が引けたんじゃが、どうしてもその気持ちがどういうものだったのか知りたくてのう。あ、今開けるのは勘弁してくれ。なんか、むず痒いのじゃ。

……ま、気が向いたらでええ。読んでどうだったか分かったら、教えに来てくれるか? ワシが行くことになる公園は、広くて緑が豊かな所らしい。花見にはピッタリじゃから、な? 頼む」

 来世は片眉を上げた。

「一応読みはするが、期待はするなよ」

「構わぬ」

 しだれはチラリと前方を見ると、

「もう出発のようじゃ」

 と寂しそうに呟いた。

 その言葉の通り、しだれの本体を乗せたトラックは、大勢の人に見送られながら走り出した。

「フフ、不思議なもんじゃのう。ワシは今まで人間や動物たちの別れを、沢山見守ってきた。それは死に別れであったり、どこか遠くへ行くための別れであった。だが、ワシが見送られる立場になるとは思わなんだ。

 ああ、まことに人生とは奇異なものよ。……さらば、魔眼屋の二人よ。良き人生を送れ。縁があれば、また会おう」

 しだれの体が徐々に透けていき、空気に溶けるように消えた。後部座席には、一片の花びらが残されるのみ。

 来世は、その花びらを摘まむと、視線を前に向けた。すでにトラックは、角を曲がり見えなくなっている。それでもまだ、人々は手を振り続けていた。

「勝手なものだ。邪魔だ何だと言っておいて、いなくなる時はそれかよ」

「来世さん、何か言いました?」

「いや」

 来世は、人々から視線を逸らし、封筒を開けた。中には表裏にびっしりと文字が記された手紙が入っている。

 その手紙の文字には覚えがあった。恐らく、幸子が手伝ったのだろう。来世は、里香にも見えるような位置で手紙を保持すると、文字をゆっくりと目で追った。

 ※

 手紙はよくわからんので、気持ちだけをデタラメに記すことをまず詫びたい。はい、詫び終わり。

 ワシは、小百合さんに会いたい一心でお主に依頼した。

 ワシの体が遠くに引っ越す話は、人間同士の会話を聞いた時に知っておったので、ワシは焦りに焦った。

 姿を見せなくなった小百合さんは生きているのか、無事なのか、と。

 だが、そもそもそんな焦りを覚えることが不思議じゃ。ワシは、長く生き過ぎたからか、他の生き物のことなぞ、なるべく考えないようにしておった。なのに、小百合さんのことだけは、忘れられんし、考えることをやめられなかった。

 幹を撫でられた時の感触。優しくかけられた言葉。全部、全部仔細に覚えとる。

 人間のことだ。忘れろ。ワシには関係ない。言葉を尽くして、気持ちを落ち着かせようとしても、火に油を注ぐようなもので、逸るばかりじゃった。

 そんな時、お主と出会った。お主のおかげで人間になり、人の世がどのようなものかを体験できた。そのうえ、小百合さんと再びまみえた。会えた時、もちろん嬉しかったとも。これは内緒だが、抱きつきたいとも思っていたんじゃが、なんとなくそれはいかん気がしてやめた。

 ああ、それはさておきじゃ。同時に、苦しさを感じたのじゃ。苦しさの種類は、そうさのー、あー、そう二つ。一つは明瞭。小百合さんの死期が近いことが分かったから。この苦しさの正体は分かっとるからええんじゃ。分かっても苦しいが。……それで、もう一つは、そう、これが分からぬ苦しさじゃ。

 その苦しさは、創太と小百合さんが親子だと分かった時に感じた。胸のあたりがムカムカとして、頭が破裂しそうなほど苦しい感じ。……この苦しさは、何だろうと考えたら、そういえば昔も似たようなことがあったのを思い出しての。それは、幼い創太と小百合さんを見た時に感じた苦しさとそっくりなのじゃよ。

 子がいるということは、小百合さんには愛すべき相手がいたということ。そして、創太は二人の愛によって生まれた子供じゃ。……なんじゃろうな。それを意識すると、苦しさが倍増した気になる。

 むー、分からん。どれだけ考えても、この苦しさの正体が分からぬ。これは、どういう気持ちなのじゃろう。……なあ、魔眼屋よ。お主は、不思議な目で多くの人々を助けてきたのだろう。だったら、お主になら分かるだろうか? あらゆる人の感情を見てきたであろうお主であれば、ワシのこの気持ちが、一体どういう名前であるか分かるだろうか? 教えてはくれないだろうか?

 ※

 手紙を読み終えた来世は紙面から目を離した。

「来世さん、これしだれさんに教えてあげましょうよ。この感情は絶対あれ、ですよ」

 里香は、ニヤニヤとした笑みを浮かべながら、来世の二の腕あたりを肘で軽く小突く。

 来世は、その肘を少々強い力で弾き飛ばし、首を横に振った。

「やめておけ。お前は、一切何も言うな」

「どうしてですか? ずっと悩み続けるかもしれないじゃないですか。だったら、教えてあげたほうが良いですよ」

 来世は、長くため息を吐き、運転席側のサイドウインドウを下げた。フワリ、と暖かさを秘めた風が車内に入り込み、二人の髪を揺らす。

 来世は、髪をかき上げると、ポツリと呟くように話し始めた。

「良いか? 覚えておけ。世の中には自分でしか見つけられない答えというものがある。今の時代は、インターネットを使えば大抵の疑問や悩みごとの回答が見つかるかもしれん。

 だがな、その回答が自分自身にとって正解であるとは限らない。例えば、テレビで評判の美味しい店があったとする。それは、大抵の人間にとっては、「美味しい食べ物が堪能できるお店」というのが揺るぎない答えなのだろう。けど、実際に行ってみて食べてみると「このお店の料理は美味しくないな」と感じることがある。それは要するに、他人にとっては正解だけど、自分にとっては不正解だった、と考えられるんじゃないか。

 しだれが感じた気持ちだってそうだ。あいつが感じた感情が、どういう名前だったのかは、本人にしか分からない。俺たちが「こうだと思う」と言っても、それは俺たちにとっての正解であって、あいつにとっての正解ではないかもしれない。だろ?」

 里香は、口をアヒルのように尖らせて首を傾げる。

「えー? そういうもんですか。あー、分かったような分からないような。もう、来世さんの話は時々意味不明です」

 来世は鼻で笑う。

「時々というか、ほとんどの話を理解しきれていないだろう」

「あ、ひど。また、悪口言いましたね。もー」

 里香は頬を膨らませて、そっぽを向く。来世は、彼女の頭に手を置いて、乱暴に撫でる。

「けど、俺たちがどう思うかは、俺たちの勝手だ。しだれの手紙を読んで、自分の心に「きっとこの感情は」と問いかけてみろ。その時心に浮かんだ答えを、俺たちは仮初めの答えとして持っておけばいい。

 あとは、しだれの奴が自分で考えて出した答えを俺たちに言う気になったら、改めて答え合わせをすればいい」

 里香は、ぐしゃぐしゃになった髪を指で整えながら、納得したように頷く。

「なるほど。じゃあ、「きっとしだれさんの感情は」……これかな? うん、浮かびました。ひとまずこれが答えってことで。あ!」

 里香は、口元に手を当て忍び笑いを零す。

「来世さんは、どう思いました。教えてくださいよー」

「はあ、お前は本当にあれだな。そう、無粋な奴だ。言わぬが花って言葉を知らないのか?」

「言わぬが花? なんですそれ?」

「辞書を引け。馬鹿と会話をするのは疲れる」

 里香が、顔を真っ赤にして怒り出すが、来世は気にした様子もなく車を発進させた。



 春の日差しを浴びて、心にゆとりを持つ人々の間を風が駆け抜ける。

 風は、桜の花びらをドレスに軽やかに舞った。

 日差しを反射する宝石のような川面を。

 楽しげに笑いあう家族の頭上を。

 雲一つない青い空を。

 桜舞う街は、今日も日々を過ごす。

 出会いと別れが色濃く浮かび上がる春は、寂しさも嬉しさも内包しながらも、艶やかな景色で見る者を魅了する。

 舞えよ舞えよ桜の花びらよ。恋する乙女の頬が如く輝きは、心に触れて忘れ難し。
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