第79話 ケース3 春、去り際に燃ゆる想い⑰

文字数 1,699文字

 階段を、およそ筋肉らしきものがついていない足で駆け上っていく。

 下駄とコンクリートが奏でる音は、不出来な演奏に似ている。

 ――苦しい。足がもげそうじゃ。

 荒く息を吐き、額から滝のような汗を流しても、しだれは足を止めない。ひたすらに病院の階段を上り続け、眼前に現れたドアを手間取りながらも開け放った。

 風が行き場を求めてドアから激流のように吹き抜けていく。鼻腔には雨の気配を感じるニオイが満たされる。

 まもなく雨が降るのだと、しだれは理解したが引き返すつもりは毛頭ない。

 しだれは扉を閉め、ぐるりと屋上を見渡した。自殺防止のためか、背の高いフェンスが外周に設置されている。だが、それを除けば、ここには何もない、そして何者もいない場所だ。

 好都合である。しだれは、誰もいない場所を求めていた。

 白い塗装が施されたコンクリートの床を、下駄が規則正しく十回ほど叩いた。しだれは、錆びたフェンスを握りしめ、あらん限り叫んだ。

 言葉にならない雄叫びは、悲しみの色が滲んでいた。

 視界はぼやけ、暖かい涙が頬を伝い、拭っても拭っても止めどなく流れる。

「どう、してじゃ」

 小百合の姿が思い浮かぶ。細く頼りない体は折れた枝のように切なく、苦しそうに吐く息は命が抜けていく音に聞こえる。

 春夏秋冬。四季は巡り、幾年もの時をしだれは生きてきた。景色は時と共に姿を変え、忙しない。――ただ変わらないものもある。その一つが生と死だ。

 命は生まれ、死へと還る。何度も生き物の死を見送ってきた。



 ボロボロになった子猫が枝に抱かれるように死んだ。

 力なく羽ばたきを止めた鳥が、落下して息絶えた。

 ついこの間生まれたばかりの虫が、あまりにも短い天寿を全うした。

 人間が同じ人間に刺され、血を流し死に絶えた。

 ふらふらに酔っ払った男が、野良犬を何度も殴り、殺した。



 死はどこにでもある。人ならば、瞳を閉じて立ち去ってしまえば、なかったことにできるかもしれない。だが、体を動かすことができないしだれは、死を見送る羽目になるのだ。いやでも慣れようというものだ。

 大昔は張り裂けそうに痛く、近年は鈍くキツイ痛みを感じ、そして近頃はわずかな鈍痛を感じるだけで済んだ。死に慣れるのが恐ろしかった。けれども、そうではなかったのだ。

 慣れているふりをしていたのだと、しだれは知った。小百合の姿を見るのが、喜ばしい一方で怖い。

 夥しい死と向き合ってきたしだれにとって、生き物が死へと向かう様子が手に取るように分かる。小百合の気丈な姿は、優しさだけで保たれた虚構だ。本当は辛いのに、人を気遣っているから平気なふりをするのだ。

 ――そう、思えてならぬ。いや、杞憂ならば良いが。思考はまとまらない。

「あ、ああ。ままならぬよ。人になれたというのに、ワシはなんと無力なのか」

 桜の木だった時は、体が動かなかった。だから、死にゆくものを助けることができなかった。歯がゆい思いを何度したことだろう。

 ――けれど、なんてことはない。人になっても、歯がゆい思いは変わらない。むしろ、下手に自由に動ける体があるのに何もできないことが、しだれには何よりも辛い。



 ――一滴、また一滴と雨が降った。春であってもまだ雨は冷たさを保っている。着物は濡れ、骨の内側まで寒さが侵食する。体は震えを発し、吐く息は白く、空気に溶けていく。

「う、ううう。ぐううううう」

 フェンスを掴む手に力を込めた。指は白く染め上がり、食い込んだ箇所から赤い血が滴り落ちる。血は、水たまりに踊るように混じりあっていく。

 雨は勢いを増し、眼下にいる人々が逃げ場を求めて病院の中へ駆けこんでいくのが見えた。

 きっと、エレベーターとやらに乗っていけば、あの人々には数秒で出会えるだろう。だが、全ては遠い世界に住む人々にしか思えない。

 しだれは、雨に祈った。どうかこの悲しさを川のように流し去ってほしい、と。雨はますます降り注ぐ。――だが、どれほど雨が激しくとも、体を冷やしながら流れていくだけで、暗く重たい悲しみだけは川の流れにも負けぬ岩のように、いつまでも心にへばりつき、一向に雨水に動かされる気配はなかった。
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