第121話 ケース5 侵略する教え⑧

文字数 5,615文字

「うっわ、こりゃひでえ」

 氷室は、パトカーから降りると、眼前の光景に呆然とした。

 まず目につくのは、空に立ち上る黒い煙とマグマをぶちまけたような毒々しい炎だ。焦げた臭いで気持ちが悪くなる。氷室は、口にハンカチを当て、木っ端みじんになった建物を細やかに確認していく。

(連絡あったのここら辺だよな。連絡でねえし、まさか……来世君。この建物にいたんじゃねえだろうな? ……もし、そうなら)

 最悪の想像が頭を掠め、思わず首を振る。

「ちょっと、どいて」

 濃ゆい眉の消防隊員が鋭い声で氷室を押しのけ、放水を開始する。

 遠巻きで騒ぎ出す野次馬たちの声が、氷室には遠く聞こえた。

(後味が悪いじゃねえか。ええ、魔眼屋よ。俺の依頼で死ぬんじゃねえぞ)

 スマホを取り出し、汗で濡れる指を動かして来世にコールする。

 ――プルルル、プルルル、ブツ。

「……俺だ」

 氷室は、ゆっくりと息を吐いた。

「心配させんなよ。どこにいる? 守下の辺りで、爆発があったぞ」

「ああ、知ってるよ。だって」

 生存者がいたぞ、と消防隊員の怒鳴り声が響く。誘惑されるように声のあったあたりを見ると、誰かが瓦礫を押しのけ立っている。

 煤だらけの茶色いミリタリーシャツに、黒のジーンズ。丈夫そうなブーツで瓦礫を蹴り飛ばし、消防隊員の手を問題ないと押しのける男。まさしく氷室が探している男であった。

「ここにいるからな」

「おま、来世君、どうやって生き残った?」

「あ? ああ、あれだ。得意技だ」

 と来世は自身の目を指差す。

「あー、はいはい、なるほど。不可思議能力か。に、しても無傷かよ」

「パトカーで来たんだろ? ちょっと乗せろ」

 パトカーのドアを開けた瞬間、ムッとタバコの臭いが彼らを出迎えた。

 来世は不愉快そうに鼻をひくつかせながら助手席に座り、氷室は運転席の背もたれを倒し、寝っ転がる。

 来世は咳ばらいを一つ、それから車のセンタークラスターのボタンを押し、大音量でラジオを流し出した。

「おいおい、うるせえよ」

「我慢しろ。敵がどっから盗聴しているか分かったもんじゃない」

 そういいながら、来世は車内を詳しくチェックしだす。

 氷室は呆れた様子でその様を眺めた。

「仕掛けられてねえって。お前、大音量で音楽流してるってことは、レーザー盗聴器を心配してんのか? あれ機材、いくらすると思ってんの? 確かにレーザーなら、外からでも車内の声を拾えるかもしれんが……え、まさか、そんな財力がある相手だとか?」

 来世は重々しく頷く。

 信じられない、と言った様子の氷室。彼がそのような反応をするのは仕方がないだろう。盗聴は意外と身近に起きており、しばしば警察でも取り扱うことはある。だが、ほとんどは個人でも購入できる価格の盗聴機器を用いた犯罪ばかりで、レーザー盗聴器のような特殊かつ高額な機器が用いられる例などほとんどないと言ってよい。

 来世は、田切宅に侵入してから起きた出来事を氷室に話した。

 現役の刑事、だが悪徳と付く刑事は、神妙な顔で肩を回す。

「ああ、なんてこった。波及の始まりか。宗教団体ってのは予想どおりだったが、そいつは予想外。俺はまだお目にかかったことがないが、結構手を焼く相手だって、警察内部でも有名な連中だぜ」

「らしいな。規模は不明。だが、日本各地に現れることから、かなり大きな団体であることが予想されている」

「あー、教主さんはサードって名乗ってた話だったよな。ってことは、教主ってのは複数人いるわけで、共同経営されてるって感じ?」

「さあな。ファースト、セカンドっときて、フォースと続くとだるいな」

 へ、と氷室は笑う。

「ま、目下の敵はサードだ。厄介な奴は一人って考えりゃ、ちょっとは楽に……なるかも」

「……だるいことに変わりはない。ハア、ともかく、連中のアジトを突き止めないといけない。手がかりはコイツだけだな」

 来世の手に、数枚の書類が握られている。

 氷室の眼が、興味深げにキラリと光った。

「ほーう、よく確保できたな」

「まあな。今回の魔眼は、【否定の魔眼】だ。数秒から数十秒ほど、目に映った危険を停止できる。炎が俺に迫ってくれば炎を、弾が飛んでくれば銃弾を停止できるわけだ。おかげで助かった。フン、ほらよ」

 サラリと目を通した後、来世は氷室に書類を預けた。

 氷室は興味津々といった様子でペラペラとめくったが、すぐさまため息を吐いた。

「あ、あー。なるほどなるほど、分かったぜ来世君。意味が分からないってことがよーく分かった」

「馬鹿野郎。面倒だからって思考を放棄するんじゃねえ。まず一枚目……【赤く血塗られた中に、生命の始まりがあり。同じで異なるものが混じる。それ、すなわち、新たな世界の始まりと古き世界の終わりを表す。真白き世界が現れし時、神は降り立つ】という文字列の他に八、三十一、同という記載があるな」

「……前半の文字列はたぶん、事件のことだろうね」

「ああ、間違いない。数字は、何だろうな? ……ひとまず後回しにするとして、他はそれらの書類だな」

 氷室は四枚の書類をピックアップし、タバコを口にくわえた。

 来世はそのタバコを奪い取り、床に叩きつける。

「ひ、酷い」

「黙れ。タバコは吸うな。くせぇ、鬱陶しい」

「いや、辛辣」

「そんなことより、このラインどう見る?」

 四枚の紙片には、それぞれラインが描かれていた。三枚には、ラインが一本のみ記されているが、残る一枚は三本のラインが合流し、一本のラインとなっている。

「んー、落書きみたいに見えるが、なんだろうねえ? 赤いペンで書かれてるから、血か?」

 ハッと、二人は顔を見合わせた。

 氷室は、サンバイザーを開け、夕京街の地図を取り出す。そして、広げた地図の上に書類を置いた。

「このラインは、川を表現しているわけか。この街の川がある位置にぴったりだ。……んー、支流である一川と草々川、無川、そしてそれらが合流している夕京川。一本ラインの紙は支流を、三本ラインが合流して一本になってるのが夕京川だろうね。で? だからって感じだ来世君」

「……いや、待て。夕京川を示しているラインは他のラインよりも赤が濃ゆい。それに見ろ。薄くだが、丸く黒いマークがある」

 それは、うっすらとしか記されておらず、ほとんど赤に飲み込まれている。

「夕京川に捨てられた被害者。ほら、女のほう。あの人の遺棄現場の場所じゃねえかな」

「そうだな。しかし、だとすれば解せない。なぜ、支流の死体遺棄現場のマークはないんだ?」

「……支流も赤で記してあるから、血を流すのはどの川でも重要なわけだ。でも、わざわざマークを記しているってことは、他の場所よりも重要なんじゃね?」

 来世は、仰ぐように天井を見上げた。

「だろうな。女性の被害者が遺棄された場所。……【赤く血塗られた中に、生命の始まりがあり】。んー」

「やっぱり、来世君。俺の読みは当たっていたかもしれんよ」

「あ?」

「ほら、被害者たちが性行為したことがないって話だよ。神聖なる儀式をする上で、経験者は不浄であり、純真無垢な生贄が必要だった。【赤く血塗られた中に、生命の始まりあり】ってさ、性交を暗喩してんじゃないの? 男の股間を潰し、それを女の遺体に受け止めさせるってね」

 消防隊による消火はまだ終わっていないようだ。野次馬の数が増してきている。氷室はその波に飲まれる前に、車を後退させて距離をとった。

「……と、このくらいでいいかなー。お、来世君。電話、鳴ってるぜ?」

 氷室の指摘通り、来世のシャツが振動している。画面には、幸子と表示されていた。

「どうした?」

「あ、来世ちゃん。今どこ? ってわ!」

「ごめーん、幸子ちゃん。んん、あ、私、私」

 ピン、と来た様子の来世。しかし、彼はすぐには相手の名を呼ばず、しらばっくれた。

 氷室が興味深げに、来世の方を見ている。鬱陶しい、と来世は呟き、即座に氷室の頭を叩く。

「ちょ、何でよ」

「うるさい。崎森……ま、良いだろう。それより、いたのなら少し聞きたいことがある」

 来世は、氷室から書類と地図をひったくると、スマホを頭と肩で挟んだ。

「――というわけだ。どう思う?」

「うん、私も同意見だ。【赤く血塗られた中に、生命の始まりあり】は、波及の始まりお得意の死と再生の儀式さ。良い、理人? 波及の始まりはね、侵略者なんだよ。

 世界的に信仰されている宗教はもちろんのこと、各地に根付く土着の教えさえも敵視し、自らの考えに染めるってわけ。やり方は、ライフルぶっ放すような物理的手段ではなく、オカルト的な手段、儀式を行うのさ」

「全く大迷惑だ。で、コイツらが行っている儀式は、どのくらいのフェイズに入ってる? まだ犠牲者は増えるのか?」

「……たぶん、増えない。少なくとも、生贄はね。だからといって楽観視はできないよ。フェイズとしては、最終フェイズ手前だからね。八、三十一、同と記してあったんでしょ? それは八月三十一日を意味している。同は……たぶん、儀式を行った時間と同じ時間だよってことでしょう」

 来世は、八月三日の深夜一時過ぎに犯人たちが犯行に至ったことを思い出した。

「なら、八月三十一日の深夜一時あたりがタイムリミットってわけだな」

「うん。で、儀式の具体的な話に入るわね。まずは、川に遺体を放置した理由について。理由は、川に体液を流すため。男の股間の血、つまりは精液を、女が受け取り受精する」

「なるほど、だから受け止める側である女性が、一番下流に放置されたわけか。ん? そもそもなぜそんな周りくどい真似を? 川に流す意味はあるのか?」

「もちろん。川は水、水は生命の源だ。水があるからこそ生き物が誕生し、教えが生み出され、街が出来上がる。

 波及の始まりが行っている儀式の名は【否定と再生の儀】。彼らにとって水は、始まりの象徴だ。その始まりの象徴に、性交未経験である男女の体液を流すことが、この儀式の肝なのさ。性交未経験とは、まっさらであること。まっさらとは、穢れのないゼロであり、性交をすることで穢れを知り、ゼロから一に至る」

 崎森はクスリと笑う。

「こっから、波及の始まりの教えが滑稽な所なんだけどさ、ゼロ=古き世界、一=新たな世界、んで、ゼロと一の境界を穢れと解釈するのさ。全ての始まりである水は、新しい世界を作る土台となりうる。そして、その水で性交をすることで、純真さは穢れへ変じ、そして一が生まれる。そうして誕生した新たな世界では、彼らの神が降臨し、導いてくれるのだと。

 ざっくり言っちゃえばさ、この儀式はその対象となった地域の教えを、古き世界の穢れと定義、弾劾しちゃって、そんな汚いものがこびりついた世界はポイして、素晴らしい波及の始まりの神が降臨する新しい世界でやっていこうよってことなのさ。どんだけ我が儘な考えなのって話よ」

 来世は、手帳にペンを走らせながら、言葉を発した。

「で、【同じで異なるものが混じる。それ、すなわち、新たな世界の始まりと古き世界の終わりを表す。真白き世界が現れし時、神は降り立つ】についても教えてもらおうか。特に【同じで異なるものが混じる】という部分が気になるが」

「ああ、それ? 単純よ。人間の男と女が交わるという意味ともう一つ、多様性ね」

「多様性? あ、そういうことか」

 被害者の男たちは、容姿も職業もバラバラであった。多様性とは、それを指しているのでは、と来世が問うと、肯定の言葉が返る。

「世界とは多様性である、ということを血の交わりの中で表現しているわけね。それよりも私が気にかかるのは、【真白き世界が現れし時】よ」

「あ? だからそれは、あいつらがいう神が降臨するに相応しい新世界を意味してるんだろ?」

「え、ええ。そうなんだけど……真っ白い世界を表す何かがあった気がするんだけど」

 あいにく来世は、崎森ほど波及の始まりを知っているわけではない。来世は、自身の隣で暇そうに野次馬を眺めていた氷室に問いかけた。だが、彼はすぐさま首を振る。

「なーんも知らん。あ、そうだ。さっき里香ちゃんが回収してくれた被害者の所持品らしき手帳に、『せいたん、いけにえ、みなもの』って言葉が書かれたらしいけど、それは関係ないかい?」

「そういえば、言ってなかったな。崎森、さっき里香が見つけた被害者の手帳に『せいたん、いけにえ、みなもの』って言葉があったらしいが、ピンとこないか? こない? そうか」

 来世は、苦々しくため息を吐く。それから、何度か言葉を交わし、電話を切った。

 来世が、ふと運転席を見ると、顔を奇妙に歪めている氷室の眼とかち合う。

「何だ?」

「お前の電話の相手、崎森って女霊媒師だろ? オカルト方面じゃ無敵と言われ、おまけに信じられないほどの美人さんだってな。たまに俺から情報を買ってくれる奴からそんな人がいるって聞いてた」

「ほう、あいつも有名になったものだ。ん? 珍しいな。女好きのお前が、やけに大人しいな。普段ならば、俺のスマホをひったくりそうなものだが」

 氷室は、心底気持ち悪そうな顔で舌を出した。

「うえー、いくら俺でも節操なしじゃねえぜ。いくら美人でもオカルトなんぞに強い女は、大抵電波ちゃんって相場が決まってんの。おお、やだやだ」

「フ、変な奴って意味じゃ、お前とどっこいだがな」

「はあ? そりゃねえよ来世君。訂正しなさい。ほら、早く」

「あ? うるせぇよ。俺は事務所にいったん戻る。お前はお前で、引き続き事件を追え」

「へーい」

 来世が車から降りると、氷室はゆっくりとパトカーを発進させた。気だるげで調子の悪そうに進むパトカーを、来世は目で追うのを止め、爆発現場に視線を移した。

 どうやら消防隊の迅速な対応により、火は消し止められたらしい。遠巻きで見ていた野次馬たちの間で拍手が鳴り響く。

 来世は、じっと眺めていたが、安堵したように長く息を吐き、クルリと背を向け足早に立ち去った。
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