第91話 ケース3 春、去り際に燃ゆる想い㉙

文字数 3,497文字

 時間は流れゆく。この世にもし平等があるとすれば、きっとそれは時間の流れを指すのだろう。

 流れには誰も逆らえず、朝には晴れていた空も分厚い雲に覆われ、冷たい雨で地を濡らす。

 創太は空を見上げ、舌打ちをした。まるで、ヤクザに殴られた日に似ている。痛くて、怖くて、人生最低の日だったと断言できた。

 まったく、やめてほしい。今日は母に、ちょっと良い物を買って来たのだ。

 いつも閉じこもってばかりは気が滅入るだろう。もし、自分があんなに長期間病室にこもりっきりならば、ストレスで吐いてしまうに違いない。

 母は、桜が好きだった。だからせめて、桜の絵を飾ってやろう、と思った。

 似合わない、と笑われてしまうだろうか? それならそれで構わない。一週間くらい前から笑う姿を見かけていない。ちょっと具合が悪くなってきたみたいだが、これを見せれば喜んでくれるだろう。

 創太は、手に持った紙袋を軽く叩き、病院への道を急ぐ。風はあまり強くないが、土砂降りのせいで、傘をさしても足元はぐしゃぐしゃに濡れていた。

 ――ブウウウウウウウ。

 バイブレーションは、ズボンのポケットから。創太は、電話の主を見て首を傾げた。

「病院から? んだよ、治療費払えってか。もうちょっと待てって言ったろーに。はい、徳大寺。え?」

 やけに声が遠く聞こえた。雨が離れていくような錯覚。

 創太は、紙袋と傘を落とし、がむしゃらに走りだした。

 ※

 荒い息遣いを整えもせず、創太は廊下を走り、病室のドアを開ける。

 そこには白衣を着た医師と看護師二名に、しだれ、来世、里香、幸子が創太を待ち受けていた。

 しだれ、里香、幸子が泣いている。どうして泣いているのだろう?

 その疑問に対する答えが、一瞬創太の心に浮かび上がりそうになるが、瞬時に首を振ってかき消す。

 そんなわけがない。だって、大丈夫だって話だっただろうが。

 創太は、水滴を垂らしながらゆっくりと医師に近づく。医師は、創太の目を直視できず、視線を逸らした。

妙な反応をするものだ。創太は、恐る恐るベットへ視線を向けた。

(誰だ? これ)

 布団が丁寧に体にかけられ、顔には純白の布が乗っている。

 来る病室を間違えてしまったらしい。誰の病室だろうと思い、視線を彷徨わせると、ベッドわきにあるパイプ椅子に置かれた本が目に入った。

 それは、桜について書かれた本だ。

「桜をよく見に行ったけれども、考えてみたら桜についてよく知らなかった。だから、暇だし、桜の勉強をしようかしら」

 そう照れ臭そうに語った母のために、創太が買った本だ。どうして、こんな所にあるのだろう。他人の、病室なのに。

「なあ、お袋、どこ?」

「……徳大寺さん。お母様は先ほど亡くなられました」

 眼鏡をかけて真面目そうな医者が嘘を言う。今日はエイプリルフールじゃないはずなのに。

 創太は、苛立った声で言った。

「なあ、嘘はやめろよ。お袋はどこだ? こっちは金払ってんだ。くだらねえ嘘言ってんじゃねえぞ!」

「創太よ、や、やめんか」

 しだれが、創太の胸元を掴む。淡い桜色の瞳には涙が溜まり、潤んでいる。

「へ、てめえ、意外と演技が上手いじゃねえか。役者でも目指せよ。なあ」

 創太の目を、ほとんどの人間が見ようとしない。――ただ一人、来世を除けば。

「おい、来世さんよ。どこの病室に移した」

「移していない。そこに眠っておられるだろう」

「てめえ!」

 創太が大股で近づき、拳を振り上げる。来世は、その拳が自身に到達する前に、創太の頬を思いっきり殴りつけた。

 重々しい音が鳴り、創太は膝をつく。

 頭の芯にまで響く一撃は、あまりに痛く、夢ではなかった。

 それでも、創太は首を振る。

 嘘だ。

 嘘だ。

 嘘に決まっている。

 ありえねえ。

 痛みのある夢に決まってる。

 虚偽の言葉、という名の包帯で自身の心を包む。そうでもしないと、痛みが全身を貫いてしまう。

 冷や汗が流れるのは気のせい。これは雨だ。

 心臓がうるさいのは、さっき走ったせいだ。

 目から涙が出そうになるのは、目が乾燥していたからだ。

 ほ、他には。

「あ?」

 創太の顔を手で強引に持ち上げる手があった。枝のように細い、頼りない手はしだれのもの。

 彼は、創太と向き合い、涙を零すのも構わずに発言した。

「よく聞くんじゃ。小百合さんは、最期までお主の身を案じておった。ワシは親の顔を知らぬが、あれはまさしく親という者だったよ」

 優しく染みるような声は、心の壁を通過しようとする。創太は、とっさにしだれの体を押そうとするが、意外にも強い力で抵抗され、剥がせない。

 苛立った創太が、頭突きをしようと頭を後ろに下げた時だった。

 しだれの吐息が、鼻を掠める。

 バラともバニラともつかない甘い匂い。その匂いが、ふと創太の記憶を奮い起こす。



 ――あれは、いつの頃だっけ。ああ、そうだ。俺が小学生の頃、お袋と手をつないで桜並木の道を歩いている時だ。

「ねえ、母さん」

「なあに?」

 当時の創太は、背がまだ低くて、短パンと半袖を好んで着ていた。まだ寒さを感じる時期に、その恰好はやめなさい、と何度も怒られた。

 小百合は今よりも若々しく、グレーのスーツを着こなしていた。

 父親はいないが、自慢の美しい母がいれば十分だった。

 創太は、桜舞い散る中、母の暖かな手に引かれ、ゆったりと歩く。

 ほっこりとする日差しは、眩しくもなく心地よくて……。目の前をよぎった桜の花びらを見て、ふと思った。

「母さん、桜ってどんな匂いがするの?」

「え、ええ? そうねえ」

 母は、困った顔になったがすぐに柔和に笑った。

「ふつう桜の木はね、あまり匂いのしないものが多いの。けど、ほら見て」

 母の人差し指が、巨大なお化け桜を指差す。体の小さかった創太にとっては、可愛げも感じられず恐ろしい怪獣に見えたそれを、母は愛おしそうに撫でることが多い。

 創太にとっては、少し嫉妬を感じさせる木で、嫌いだった。

「このお化け桜はね、特別なの。他の桜の木と違って、花びらから強い匂いを感じるのよ。よっと、ごめんなさいね」

 小百合は、お化け桜に頭を下げてから、花びらを一片掴む。

 淡い桜色の花びらを指でこすり、それを創太の鼻へ近づけていく。

 ムッと、手に触れられそうなほど存在感のある甘い匂い。

 驚いて、創太は目を丸くした。

「ねえ、良い匂いでしょう。母さんね、この匂いが昔から大好きなのよ」

 鮮やかで晴れやかな母の笑み。

 どうして、忘れていたのだろう。

 創太の意識が、現実に帰ってくる。暖かい涙が目から零れて止まらず、息が上手く吸えなくて息苦しい。

「なあ、嘘じゃねえのか。母さんが死んじまったのはよ」

「そうじゃ。……そうだとも。最期にな、創太、って名前を呼んで息を引き取ったんじゃ」

 しだれの言葉が痛い。

創太は、ふらふらと立ち上がると、ベッドへと近寄り、顔にかかった白い布をめくった。

「あ……」

 そこには、青白くなった母の顔があった。穏やかで眠っているような顔だ。死んでいないのでは、とわずかに希望が心に灯る。――だが、母の手に触れたとたん、火は消失した。あまりにも冷たいその手は、生きている人間の体温ではなかった。

 記憶に残る母の手は、暖かかった。じゃあ、この手は……。

「死んだ、のかよ。あ、ああ。嫌だよ。そんなの嫌だよ。嘘だ、せ、先生。どうにかなるよな」

 創太の問いに、医師は首を振る。

「じゃあ、来世さんよ、あんた良い医者知らねえか?」

 来世は、「死者を蘇らす医者など知らん」と言い放った。

「じゃあよ、しだれ、里香ちゃん。友達とか知り合いに、どうにかできる人知らねえかな」

「ごめんなさい」

「済まぬ」

 それぞれの言葉で、力になれないことを突き付けられた。

「じゃ、じゃあ。幸子ちゃんはどうだ? 神様だったらできるよな」

 幸子は、涙をぬぐい深々と頭を下げた。

「神様だけど、ほとんど力はないの。すいません、何もできません」

 創太は後じさり、力なく母の手を握った。

 手を温めれば、蘇るのでは、と馬鹿げた考えが頭に浮かぶ。

「なあ、母さん。俺、最近仕事上手くいってんだ。このままいきゃ、給料上げてくれるってよ。そしたら、借金と治療費払いながらだから、贅沢できねえけど、上手いもんとか食べたりさ、一緒に桜見たりとか、さ。……なんとか言えよ」

 答える声はない。ただ、冷たい手のひらだけが、事実だけを伝えてくる。

 雨は止みそうにない。内も外も、今日は、今日だけは降り続けるのだろう。

 桜の満開は奇しくも、小百合の亡くなった翌日だった。

 それはそれは美しい桜吹雪を、小百合は見ることが叶わず、穏やかにこの世を去った。
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