第116話 ケース5 侵略する教え③
文字数 5,183文字
「あっつー」と喚く里香を見た幾人かの通行人が笑った。
里香は恥ずかしそうに俯くと、少し小走りに歩く。
大通りは、人と車の波で埋め尽くされている。
夏休みなこともあってか、若い人が多いようだが、白いワイシャツに汗を滲ませながら仕事に勤しむサラリーマンもよく見かけた。
ミニスカートに白いサマーニット姿の里香は、見た目だけで言えば遊びに出かける学生そのものだったが、あいにく今は就労の身。気持ちは、サラリーマンと一緒だ。
「ああ、羨ましい。私も遊びたーい。藍子と冷夏と一緒にデパート巡って、カフェ行って。……でも、遊びにいっちゃうと来世さんといる時間が短くなっちゃうしな」
「何ごちゃごちゃと独り言言ってるの里香?」
里香は、声にならない悲鳴を上げる。足元を見ると青いワンピースの女の子が立っていた。
肩まで伸びた髪をツーサイドアップに縛り、人形じみた美形の顔に薄く笑みを浮かべている。
「もう、幸子ちゃん。感心しないよ」
「ごめんなさい。驚かせるつもりはなかったの。んー、でも里香も里香よね。ビビりなところ直したほうが良いんじゃない?」
「むー、分かってますよ。でも、そんなすぐに直らないよ」
むくれた顔でそっぽを向く女子高校生。それをなだめる女児。実年齢はともかくとして、微笑ましいことは確かだ。近くを通った若いサラリーマンがクスリと笑った。
「もう、笑われちゃったじゃん。これ以上恥かく前に調査を開始しよ」
「待ちなさい」
走りだそうとした里香を、幸子の小さな手が止める。なに、と反射的に背後を振り返った里香の眼前に、人差し指が突き付けられた。
「慌てないで。やみくもに動いても意味はない。まずはどう動くかを考えましょう」
「む、ラジャー」
「依頼の詳細については来世ちゃんから聞いてるわ。まずは目撃者から情報を聞くのがベターだけど、どうやらこの事件の目撃者は大した情報を握っていない人ばかりだったらしいわ」
「じゃあ、重要なことを見たり聞いたりした目撃者が他にいないか探すのが私たちの仕事?」
「いいえ、どうかしら? 事件から二週間は経過している。その間、警察が聞き込みをしても、有益な情報を持つ目撃者を見つけることができていないらしいから、望み薄でしょうね。
そもそも、この事件の実行犯は、自殺してまで自らの目的を明かすのを隠蔽したのよ。見られてもロクな証拠が残らないように工夫したはず。となれば、狙うは望み薄の目撃者より、大本を探った方が良いと思うわ」
ハア、と幸子はため息を吐く。里香が知恵熱を出したような顔をしているからだ。
「今回の犯人たちは何らかの組織、宗教団体である可能性があるわ。つまり、こんなヤバイことを行いそうな思想・目的を持った人々がいないか探ったほうが良いってこと。来世ちゃんの話だと、宗教団体あたりが怪しいらしいし、探ってみましょうか」
「探るって、どうやって?」
「さっきリンクアプリ――SNSの一種――で調べたんだけど、最近妙な書き込みをしている連中がいたわ。……ほら、これ」
幸子の持つ薄紫色のスマホには、「夕京街は生まれ変わる。新しき神を降臨させる」といったメッセージが表示されている。
「……これだけ?」
「そう、これだけ。でもこのメッセージは定期的に呟かれているわ。ただの悪戯かもしれないけど、そうじゃないかもしれない。試しにね、このメッセージ主に「興味があります。連絡ください」ってメッセージを送ったんだけど」
「ええ! あぶないよ」
「里香、うるさい。……心配はありがと。でね、返事はこなかったの。だから、このメッセージについて知っている人がいないか聞き込みしてみないかしら。リンクアプリでも知っている人がいないか探すけど、足でも探してみましょう」
「うーん、そうだね。物は試しって言うし。やろっか」
「決まりね。せっかくだから事件現場の方に行きながら聞き込みしましょう。支流……は遠いし、あんまり人がいない場所なんでしょ? だったら、まずは夕京川へ向かうべきね」
頷き、里香は幸子と歩き出す。
場所は夕京川の上流。桜並木が川の左右を彩る下流と異なり、上流は閑静な住宅街が広がっている。
目的地へ向かいつつも聞き込みをするが、
「あ? 知らねえ」
「すいません。よくわかりません」
「んー? いや、心当たりはないね。悪戯じゃないの?」
道行く人々の返事は快くない。
幸子はつまらなそうに表情を曇らせた。
「もう、面倒ね。私に頭の中を読む能力があれば良いのに」
「神様っていっても万能じゃないんだね」
「うるさいわ。どんくさい娘のくせに。……どん里香」
「ひ、酷い」
そんなやり取りをしている間に、目的地に到着した。
この辺りは、二階建てで、白やダークグレーといった落ち着いた色合いの建物が多い。普段であれば、真昼の空の晴れやかな空気を満喫するには持ってこいの場所だろうが、今は事件のせいかどこかよそよそしい雰囲気に感じられる。
道行く人々は、里香たちをチラリチラリと盗み見ており、その視線が肌に刺さってどうも落ち着かない。
「……ちょっと、天罰いっちゃう?」
「駄目だよ! 家の近くで事件が起きちゃったんだから仕方ないじゃん」
「冗談よ。本気にしすぎ」
姉が妹に冗談を言った時のような親しさを言葉に滲ませ、幸子は背を向ける。
「事件現場はこの辺りね。……ちょっと来世ちゃんに電話してみる」
「あ、私が電話する」
時すでに遅し。
すでに幸子は、スマホを耳に当てている。
里香は頬を膨らませ、所在なさげに周囲を見渡す。――と、
「あれ?」
誰かが、白い家の窓から里香たちを眺めていた。七十代くらいの男性は、里香の視線に気付くと隠れるように奥へと引っ込んでしまう。
里香は、しばし首を傾げ、不思議そうに住人が見えなくなった窓を眺めていた。
「おっけ、じゃあね来世ちゃん。里香、犯行現場すぐそこよ」
「すぐ? ねえ、もしかして犯行現場って、この家の近くだったりする?」
「え、スンゴ。犯行現場はね、その家の脇にある路地よ。警察が調べた後だから何もないでしょうけど、一応見てみましょう」
待って、と里香は前置きし、先ほどの窓を指差す。
「あそこからおじいちゃんが、私たちを見ていたの」
「え、そうなの?」
「……ちょっと、気になるな。ねえ、先に話を聞いてみない?」
「そう、ね。何か知ってるかも」
行動を決めた時の里香は、イノシシのように猪突猛進で素早い。
短距離さえも惜しみ走りだすと、インターホンを三度矢継ぎ早に押す。
……返答は、ない。
「すいませーん。怪しい者じゃありません。ちょっと、伺いたいことがあるんです」
「里香、自分から怪しい者じゃないっていう人って逆に怪しいわよ」
「え、そう? あ!」
ドアが開く。だが、警戒心があるようで、ドアの隙間にチェーンが横切っていた。
男性は、神経質そうに眼鏡をかけ直し、恐る恐るといった様子で声をかけてきた。
「あの、何か御用ですか?」
「あ、突然すいません。私たち、えーと何て言いましょうか。いわゆる探偵業のようなものをしておりまして」
「……探偵? 随分とお二人とも若いようですが」
「え、ええっと。私はアルバイトでして、この子は……私の妹です。親が今日自宅にいないので、上司に無理を言って仕事に同行させているんですよ」
乾いた笑みを浮かべる里香。
(厳しいかー。あんまり似てないしな。目元は……やっぱ似てないや)
ゴクリ、と里香は喉を鳴らす。
男性はジロジロと疑うような眼差しを向けていたが、ひとまずは納得したようで頷いた。
「何を聞きたいのですか?」
「あ、ええっと。私たち、そこで起きた事件に関してちょっと調べてまして。何でも良いから教えてくれませんか?」
「え、そこで起きた……。いや、大したことは知りませんよ。悲鳴が聞こえた後に、妙な音を聞いたくらいで」
「そう、ですか」
「ねえ、オジサン。じゃあ、この文章を読んでみてくれます。もしかしたら、事件と関係があるかもしれないので」
男性は、突然の言葉にびっくりした様子だったが、すぐに幸子のスマホ画面を覗き見てくれた。だが、特に知らないと告げられる。
「あのー、他に質問は? ないようなら部屋の掃除に戻りたいんですがね」
「え、いや」
「オジサン、さっき妙な音が聞こえたっていうけど、どんな音だったの?」
ピクリ、と男性が僅かにたじろぐような動作を見せた。それを見逃さなかった幸子は、頭を深々と下げる。
(ほうら、小さい子がこんなに頭下げると、困っちゃうわよねぇ?)
幸子の口元には、ニヤリとした笑みが浮かぶ。
彼女は止めとばかりに、顔を上げ言葉の嵐を叩きこむ。――ついでに、目には涙が添えられていた。
「お願いします。何でも良いから教えて! このお姉ちゃん、頼りなくて。このまま何の成果もないと仕事辞めさせられるかもしれないの。……うち、貧乏で。お姉ちゃんのやっすい給料でもないと困るんです」
「ちょ、ちょっと。い、った」
里香のお尻が、凄まじい力でつねられる。犯人はもちろん、幸子だ。
そんな出来事が起きているとはつゆ知らず、男性は少し涙目になってしきりに頭を揺り籠のように動かす。
「苦労、されているんですなあ。……大したことじゃないかもしれませんが、一つ気になることがありまして」
「どんなことオジサン? ねえ!」
「え、ええ。警察にも話したのですが、さっき妙な音が聞こえた、と言ったでしょう。実はあの音、そこの路地で聞こえたというよりも、私の家の庭で聞こえた気がするんですよ」
「犯人が庭に侵入したってこと?」
「いいえ。警察が調べてくれましたが、侵入した形跡はないようです。……もしかしたら、私の聞き違いだったかもしれません」
里香は、人差し指を唇に当て唸っていたが、ポンと手を叩いた。
「考えても分かんない。あの、その場所、見せてもらうことってできますか?」
「あ、はい。もちろん」
ドアを開け、外に出てきた男性は、里香たちから見て左側に進み、庭へと足を踏み入れる。
庭は、六畳ほどの広さしかないこじんまりとした場所だ。右手には家の縁側があり、左手には二メートルほどの塀が見える。
堀の中央には、ひし形の穴が横一列、一定間隔に開いており、その穴から路地の様子が観察できた。
「あの、奥に見えるフェンス。あれが殺害現場ね」
「そうなんだ。……あの、それで音はどこから聞こえましたか?」
「えー、そこの物置の辺りで聞こえたはずです」
件の物置は、庭の奥にあった。位置としては、堀を隔ててフェンスのほぼ真横にある。オーソドックスな小型の物置で、長年使用しているのか錆が目立つ。
魔眼屋の二人は近づいて、物置の周囲を見渡してみるが怪しい物は見当たらない。
これは、何もないかな、と里香が諦めようとした時、幸子に太ももを軽く叩かれた。
「何?」
「物置の上が見たい。肩車して」
里香がしゃがみ込むと、馬に乗るように幸子が肩へ足を乗せる。運動部から助っ人を頼まれることもある里香は、軽々と幸子を持ち上げると、足を踏ん張ってピタリと止まった。
「どう? 何か見える?」
「ううん。特に何もない、けど。オジサン、この物置開けて良い?」
「え、はいはい。その物置、鍵がかかってるから少々待ってください」
男性が鍵で古びた戸を開ける。派手に不快な音が鳴り、露になった物置の中は、箒やらバケツやらがあるだけで、一見大した物はなさそうだ。――しかし、里香は物置の隅に落ちている物が気になり飛びつくように拾った。
「これ……手帳だ」
小さな手のひらサイズの手帳で、使い始めて間もないのかまだ真新しい。ピンクの表紙で可愛らしいが、べっとりとくすんだ赤が、表紙を汚していた。
「あなたの、じゃないですよね?」
「は、はい。入れた覚えはありませんが」
「里香、これは被害者のじゃないかしら? さっき物置の上を見た時、錆のせいでやや大きめの穴が開いていたわ。もしかしたら、被害者が襲われた時に投げて入ったのかも」
里香の眼が大きく見開かれる。すぐさま手帳を開き、中を改めた。
仕事のスケジュール、買い物リストなど、細やかに文字が書かれている。
よほどこの手帳の持ち主は几帳面だったらしい。真面目に仕事を頑張っていたことが、ひしひしと伝わってくるようで……。里香は苦しそうに胸を押さえた。
「里香?」
「う、ううん。特に重要な情報はないけど……これは?」
走り書きで文字が書かれている。インクに血が混じって判別しにくいが、『せいたん、いけにえ、みなもの』と記されていた。
「里香、ちょっと見せて。今、書き写すわ。……重要な証拠ね。警察に連絡して提出しましょう」
「う、うん」
里香はスマホを取り出し、氷室に連絡を入れる。
コール音が鳴りやみ、氷室の軽薄そうな声を聞きながら、里香は一心不乱に手帳の文字を反芻した。
里香は恥ずかしそうに俯くと、少し小走りに歩く。
大通りは、人と車の波で埋め尽くされている。
夏休みなこともあってか、若い人が多いようだが、白いワイシャツに汗を滲ませながら仕事に勤しむサラリーマンもよく見かけた。
ミニスカートに白いサマーニット姿の里香は、見た目だけで言えば遊びに出かける学生そのものだったが、あいにく今は就労の身。気持ちは、サラリーマンと一緒だ。
「ああ、羨ましい。私も遊びたーい。藍子と冷夏と一緒にデパート巡って、カフェ行って。……でも、遊びにいっちゃうと来世さんといる時間が短くなっちゃうしな」
「何ごちゃごちゃと独り言言ってるの里香?」
里香は、声にならない悲鳴を上げる。足元を見ると青いワンピースの女の子が立っていた。
肩まで伸びた髪をツーサイドアップに縛り、人形じみた美形の顔に薄く笑みを浮かべている。
「もう、幸子ちゃん。感心しないよ」
「ごめんなさい。驚かせるつもりはなかったの。んー、でも里香も里香よね。ビビりなところ直したほうが良いんじゃない?」
「むー、分かってますよ。でも、そんなすぐに直らないよ」
むくれた顔でそっぽを向く女子高校生。それをなだめる女児。実年齢はともかくとして、微笑ましいことは確かだ。近くを通った若いサラリーマンがクスリと笑った。
「もう、笑われちゃったじゃん。これ以上恥かく前に調査を開始しよ」
「待ちなさい」
走りだそうとした里香を、幸子の小さな手が止める。なに、と反射的に背後を振り返った里香の眼前に、人差し指が突き付けられた。
「慌てないで。やみくもに動いても意味はない。まずはどう動くかを考えましょう」
「む、ラジャー」
「依頼の詳細については来世ちゃんから聞いてるわ。まずは目撃者から情報を聞くのがベターだけど、どうやらこの事件の目撃者は大した情報を握っていない人ばかりだったらしいわ」
「じゃあ、重要なことを見たり聞いたりした目撃者が他にいないか探すのが私たちの仕事?」
「いいえ、どうかしら? 事件から二週間は経過している。その間、警察が聞き込みをしても、有益な情報を持つ目撃者を見つけることができていないらしいから、望み薄でしょうね。
そもそも、この事件の実行犯は、自殺してまで自らの目的を明かすのを隠蔽したのよ。見られてもロクな証拠が残らないように工夫したはず。となれば、狙うは望み薄の目撃者より、大本を探った方が良いと思うわ」
ハア、と幸子はため息を吐く。里香が知恵熱を出したような顔をしているからだ。
「今回の犯人たちは何らかの組織、宗教団体である可能性があるわ。つまり、こんなヤバイことを行いそうな思想・目的を持った人々がいないか探ったほうが良いってこと。来世ちゃんの話だと、宗教団体あたりが怪しいらしいし、探ってみましょうか」
「探るって、どうやって?」
「さっきリンクアプリ――SNSの一種――で調べたんだけど、最近妙な書き込みをしている連中がいたわ。……ほら、これ」
幸子の持つ薄紫色のスマホには、「夕京街は生まれ変わる。新しき神を降臨させる」といったメッセージが表示されている。
「……これだけ?」
「そう、これだけ。でもこのメッセージは定期的に呟かれているわ。ただの悪戯かもしれないけど、そうじゃないかもしれない。試しにね、このメッセージ主に「興味があります。連絡ください」ってメッセージを送ったんだけど」
「ええ! あぶないよ」
「里香、うるさい。……心配はありがと。でね、返事はこなかったの。だから、このメッセージについて知っている人がいないか聞き込みしてみないかしら。リンクアプリでも知っている人がいないか探すけど、足でも探してみましょう」
「うーん、そうだね。物は試しって言うし。やろっか」
「決まりね。せっかくだから事件現場の方に行きながら聞き込みしましょう。支流……は遠いし、あんまり人がいない場所なんでしょ? だったら、まずは夕京川へ向かうべきね」
頷き、里香は幸子と歩き出す。
場所は夕京川の上流。桜並木が川の左右を彩る下流と異なり、上流は閑静な住宅街が広がっている。
目的地へ向かいつつも聞き込みをするが、
「あ? 知らねえ」
「すいません。よくわかりません」
「んー? いや、心当たりはないね。悪戯じゃないの?」
道行く人々の返事は快くない。
幸子はつまらなそうに表情を曇らせた。
「もう、面倒ね。私に頭の中を読む能力があれば良いのに」
「神様っていっても万能じゃないんだね」
「うるさいわ。どんくさい娘のくせに。……どん里香」
「ひ、酷い」
そんなやり取りをしている間に、目的地に到着した。
この辺りは、二階建てで、白やダークグレーといった落ち着いた色合いの建物が多い。普段であれば、真昼の空の晴れやかな空気を満喫するには持ってこいの場所だろうが、今は事件のせいかどこかよそよそしい雰囲気に感じられる。
道行く人々は、里香たちをチラリチラリと盗み見ており、その視線が肌に刺さってどうも落ち着かない。
「……ちょっと、天罰いっちゃう?」
「駄目だよ! 家の近くで事件が起きちゃったんだから仕方ないじゃん」
「冗談よ。本気にしすぎ」
姉が妹に冗談を言った時のような親しさを言葉に滲ませ、幸子は背を向ける。
「事件現場はこの辺りね。……ちょっと来世ちゃんに電話してみる」
「あ、私が電話する」
時すでに遅し。
すでに幸子は、スマホを耳に当てている。
里香は頬を膨らませ、所在なさげに周囲を見渡す。――と、
「あれ?」
誰かが、白い家の窓から里香たちを眺めていた。七十代くらいの男性は、里香の視線に気付くと隠れるように奥へと引っ込んでしまう。
里香は、しばし首を傾げ、不思議そうに住人が見えなくなった窓を眺めていた。
「おっけ、じゃあね来世ちゃん。里香、犯行現場すぐそこよ」
「すぐ? ねえ、もしかして犯行現場って、この家の近くだったりする?」
「え、スンゴ。犯行現場はね、その家の脇にある路地よ。警察が調べた後だから何もないでしょうけど、一応見てみましょう」
待って、と里香は前置きし、先ほどの窓を指差す。
「あそこからおじいちゃんが、私たちを見ていたの」
「え、そうなの?」
「……ちょっと、気になるな。ねえ、先に話を聞いてみない?」
「そう、ね。何か知ってるかも」
行動を決めた時の里香は、イノシシのように猪突猛進で素早い。
短距離さえも惜しみ走りだすと、インターホンを三度矢継ぎ早に押す。
……返答は、ない。
「すいませーん。怪しい者じゃありません。ちょっと、伺いたいことがあるんです」
「里香、自分から怪しい者じゃないっていう人って逆に怪しいわよ」
「え、そう? あ!」
ドアが開く。だが、警戒心があるようで、ドアの隙間にチェーンが横切っていた。
男性は、神経質そうに眼鏡をかけ直し、恐る恐るといった様子で声をかけてきた。
「あの、何か御用ですか?」
「あ、突然すいません。私たち、えーと何て言いましょうか。いわゆる探偵業のようなものをしておりまして」
「……探偵? 随分とお二人とも若いようですが」
「え、ええっと。私はアルバイトでして、この子は……私の妹です。親が今日自宅にいないので、上司に無理を言って仕事に同行させているんですよ」
乾いた笑みを浮かべる里香。
(厳しいかー。あんまり似てないしな。目元は……やっぱ似てないや)
ゴクリ、と里香は喉を鳴らす。
男性はジロジロと疑うような眼差しを向けていたが、ひとまずは納得したようで頷いた。
「何を聞きたいのですか?」
「あ、ええっと。私たち、そこで起きた事件に関してちょっと調べてまして。何でも良いから教えてくれませんか?」
「え、そこで起きた……。いや、大したことは知りませんよ。悲鳴が聞こえた後に、妙な音を聞いたくらいで」
「そう、ですか」
「ねえ、オジサン。じゃあ、この文章を読んでみてくれます。もしかしたら、事件と関係があるかもしれないので」
男性は、突然の言葉にびっくりした様子だったが、すぐに幸子のスマホ画面を覗き見てくれた。だが、特に知らないと告げられる。
「あのー、他に質問は? ないようなら部屋の掃除に戻りたいんですがね」
「え、いや」
「オジサン、さっき妙な音が聞こえたっていうけど、どんな音だったの?」
ピクリ、と男性が僅かにたじろぐような動作を見せた。それを見逃さなかった幸子は、頭を深々と下げる。
(ほうら、小さい子がこんなに頭下げると、困っちゃうわよねぇ?)
幸子の口元には、ニヤリとした笑みが浮かぶ。
彼女は止めとばかりに、顔を上げ言葉の嵐を叩きこむ。――ついでに、目には涙が添えられていた。
「お願いします。何でも良いから教えて! このお姉ちゃん、頼りなくて。このまま何の成果もないと仕事辞めさせられるかもしれないの。……うち、貧乏で。お姉ちゃんのやっすい給料でもないと困るんです」
「ちょ、ちょっと。い、った」
里香のお尻が、凄まじい力でつねられる。犯人はもちろん、幸子だ。
そんな出来事が起きているとはつゆ知らず、男性は少し涙目になってしきりに頭を揺り籠のように動かす。
「苦労、されているんですなあ。……大したことじゃないかもしれませんが、一つ気になることがありまして」
「どんなことオジサン? ねえ!」
「え、ええ。警察にも話したのですが、さっき妙な音が聞こえた、と言ったでしょう。実はあの音、そこの路地で聞こえたというよりも、私の家の庭で聞こえた気がするんですよ」
「犯人が庭に侵入したってこと?」
「いいえ。警察が調べてくれましたが、侵入した形跡はないようです。……もしかしたら、私の聞き違いだったかもしれません」
里香は、人差し指を唇に当て唸っていたが、ポンと手を叩いた。
「考えても分かんない。あの、その場所、見せてもらうことってできますか?」
「あ、はい。もちろん」
ドアを開け、外に出てきた男性は、里香たちから見て左側に進み、庭へと足を踏み入れる。
庭は、六畳ほどの広さしかないこじんまりとした場所だ。右手には家の縁側があり、左手には二メートルほどの塀が見える。
堀の中央には、ひし形の穴が横一列、一定間隔に開いており、その穴から路地の様子が観察できた。
「あの、奥に見えるフェンス。あれが殺害現場ね」
「そうなんだ。……あの、それで音はどこから聞こえましたか?」
「えー、そこの物置の辺りで聞こえたはずです」
件の物置は、庭の奥にあった。位置としては、堀を隔ててフェンスのほぼ真横にある。オーソドックスな小型の物置で、長年使用しているのか錆が目立つ。
魔眼屋の二人は近づいて、物置の周囲を見渡してみるが怪しい物は見当たらない。
これは、何もないかな、と里香が諦めようとした時、幸子に太ももを軽く叩かれた。
「何?」
「物置の上が見たい。肩車して」
里香がしゃがみ込むと、馬に乗るように幸子が肩へ足を乗せる。運動部から助っ人を頼まれることもある里香は、軽々と幸子を持ち上げると、足を踏ん張ってピタリと止まった。
「どう? 何か見える?」
「ううん。特に何もない、けど。オジサン、この物置開けて良い?」
「え、はいはい。その物置、鍵がかかってるから少々待ってください」
男性が鍵で古びた戸を開ける。派手に不快な音が鳴り、露になった物置の中は、箒やらバケツやらがあるだけで、一見大した物はなさそうだ。――しかし、里香は物置の隅に落ちている物が気になり飛びつくように拾った。
「これ……手帳だ」
小さな手のひらサイズの手帳で、使い始めて間もないのかまだ真新しい。ピンクの表紙で可愛らしいが、べっとりとくすんだ赤が、表紙を汚していた。
「あなたの、じゃないですよね?」
「は、はい。入れた覚えはありませんが」
「里香、これは被害者のじゃないかしら? さっき物置の上を見た時、錆のせいでやや大きめの穴が開いていたわ。もしかしたら、被害者が襲われた時に投げて入ったのかも」
里香の眼が大きく見開かれる。すぐさま手帳を開き、中を改めた。
仕事のスケジュール、買い物リストなど、細やかに文字が書かれている。
よほどこの手帳の持ち主は几帳面だったらしい。真面目に仕事を頑張っていたことが、ひしひしと伝わってくるようで……。里香は苦しそうに胸を押さえた。
「里香?」
「う、ううん。特に重要な情報はないけど……これは?」
走り書きで文字が書かれている。インクに血が混じって判別しにくいが、『せいたん、いけにえ、みなもの』と記されていた。
「里香、ちょっと見せて。今、書き写すわ。……重要な証拠ね。警察に連絡して提出しましょう」
「う、うん」
里香はスマホを取り出し、氷室に連絡を入れる。
コール音が鳴りやみ、氷室の軽薄そうな声を聞きながら、里香は一心不乱に手帳の文字を反芻した。