第25話 ケース2 死神の足音①
文字数 1,900文字
その日は、やけに寒い日だった。
シンシンと降り積もる雪は、世界を白く染め上げ、人々は口から白い息を吐く。
一言で言うなら、そう、漂白された清潔な世界だ。
そんな印象を受ける夕京街の黒いシミのように、全身を黒で統一した男が歩いている。
ふらりふらりと右へ左へと足元はおぼつかなく、青白い顔は、男の体調を如実に物語っていた。
と、不意に、
「痛てえな」
ドン、と大柄な男に、その男はぶつかってしまう。
トラ柄のコート越しにも分かる筋骨隆々な肉体を有する大男だ。顔を怒りの炎で赤く染め上げた大男は、男に掴みかかろうとする。……だが、やめた。男が地面へ嘔吐したからだ。
テラテラ、とナメクジを連想させるように光りながら、吐しゃ物は雪へしみこんでいく。
「くせぇんだよ、たく」
大男は、勢いをそがれ、舌打ちをして去っていく。
……男は、赤く充血した瞳で、地面を眺め、それからゆっくりと歩き出した。
空に浮かぶ太陽は、煌煌と輝いていたが、風に流れた分厚い雲に隠れ、世界を薄暗くしてしまう。
人々は、わずかに足を止め、陰った空を眺めたが、男は意に介さず一心に歩を進める。
男の数メートル先には、古びた建物と『魔眼屋』と書かれた看板がひっそりと佇んでいた。
※
「あれ、曇ってきた?」
小鹿 里香は、窓越しに空を見上げ、不服そうに眉根を寄せた。
「お前のせいじゃないのか? 買い物すらろくにできんから、天気も残念がってるんだろうさ」
この建物の所有者兼『魔眼屋』の店主である来世 理人は、部屋の中央に陣取っている真四角のテーブルの上に置かれた買い物袋を指差した。
う、と里香は言葉を詰まらせる。
「ちょっとしたミス。そう、ちょっとした。頼まれていたものと、違うの買ってきただけじゃないですか」
「ほう、ちょっと、だと。コーヒー豆とお茶を頼んだら、大豆と茶菓子がレジ袋に入っていたのが?」
「だ、だって、その。スマホゲームしている時に言うもんだから、あんまり聞いてなかったし、ねえ?」
来世は、肺に溜まった空気をすべて吐き出すようにため息を吐いた。
「今、客が来たら茶すら出せん状況だ。早めに、買いに行ってこい。お前には、助手見習いとして、それなりに給料を払ってるんだからな」
そういわれると、里香としてはぐうの音も出なくなる。しかし、曇ってきた空を見るに、そろそろ雨か雪が降ってもおかしくない。
お気に入りのピンクのチェスターコートに、白のパンプスを履いた里香としては、濡らすのは避けたいところ。
チラリ、と来世を見る。
(ああ、めちゃくちゃ呆れてる)
来世は、椅子に座り、ペンを走らせている。黙々と文字を書いているが、時折仕事の一環のようにため息を漏らす。
里香は、アルバイトとして働き始めてからというもの、小さなミスを連発(それもかなりの頻度で)していた。彼がこんな態度になるのは、仕方のないことと言える。
「ううー、行ってきます」
「傘を持っていけ。本降りになるようなら、タクシーに乗っても構わん」
「はーい。じゃあ、お借りしますね」
里香は、透明なビニール傘を手に持ち、ドアに手をかけた。ヒヤリとした冷たいドアノブに、ゾワリとした感触が背中を駆ける。嫌だな、と思いながらドアを開けると、
「ひい!」
大きな声が喉から飛び出た。ゾワゾワ、とした感覚はドアノブによるものではない。
真っ白く染め上がった路地を背景に、黒い服を着た男が立っている。目は痙攣しているように左右へ動き、青白い顔は死人じみていた。
「どうした」
「あ、ら、来世さん」
里香が縋るような気持ちで振り返ると、彼女の背後から声がかかった。
「あのー、どんな依頼も引き受けてくれる魔眼屋さんって、こちらですよね」
見た目によらず、男の声はしっかりとしていた。
里香は、男に振り向き、問いかけた。
「もしかして、依頼をご希望ですか?」
「はい、そうです。あなた方にお願いがありまして」
男が頭を下げる。なんのことはない。ただの依頼人だ。だが、依頼人の様子が妙である。里香は、首を傾げた。
「……客が先に来ちまったな。仕方ない、里香、冷蔵庫にお前のカフェオレがあったな。あれを温めてお出ししろ」
「な! あれは私が楽しみにとっておいたものなのに。……けど、仕方ないか」
私は大人の女性に脱皮中。この程度でがっかりしたりしないのだ、と里香は自分に言い聞かせてから、がっくりと肩を落とした。
シンシンと降り積もる雪は、世界を白く染め上げ、人々は口から白い息を吐く。
一言で言うなら、そう、漂白された清潔な世界だ。
そんな印象を受ける夕京街の黒いシミのように、全身を黒で統一した男が歩いている。
ふらりふらりと右へ左へと足元はおぼつかなく、青白い顔は、男の体調を如実に物語っていた。
と、不意に、
「痛てえな」
ドン、と大柄な男に、その男はぶつかってしまう。
トラ柄のコート越しにも分かる筋骨隆々な肉体を有する大男だ。顔を怒りの炎で赤く染め上げた大男は、男に掴みかかろうとする。……だが、やめた。男が地面へ嘔吐したからだ。
テラテラ、とナメクジを連想させるように光りながら、吐しゃ物は雪へしみこんでいく。
「くせぇんだよ、たく」
大男は、勢いをそがれ、舌打ちをして去っていく。
……男は、赤く充血した瞳で、地面を眺め、それからゆっくりと歩き出した。
空に浮かぶ太陽は、煌煌と輝いていたが、風に流れた分厚い雲に隠れ、世界を薄暗くしてしまう。
人々は、わずかに足を止め、陰った空を眺めたが、男は意に介さず一心に歩を進める。
男の数メートル先には、古びた建物と『魔眼屋』と書かれた看板がひっそりと佇んでいた。
※
「あれ、曇ってきた?」
小鹿 里香は、窓越しに空を見上げ、不服そうに眉根を寄せた。
「お前のせいじゃないのか? 買い物すらろくにできんから、天気も残念がってるんだろうさ」
この建物の所有者兼『魔眼屋』の店主である来世 理人は、部屋の中央に陣取っている真四角のテーブルの上に置かれた買い物袋を指差した。
う、と里香は言葉を詰まらせる。
「ちょっとしたミス。そう、ちょっとした。頼まれていたものと、違うの買ってきただけじゃないですか」
「ほう、ちょっと、だと。コーヒー豆とお茶を頼んだら、大豆と茶菓子がレジ袋に入っていたのが?」
「だ、だって、その。スマホゲームしている時に言うもんだから、あんまり聞いてなかったし、ねえ?」
来世は、肺に溜まった空気をすべて吐き出すようにため息を吐いた。
「今、客が来たら茶すら出せん状況だ。早めに、買いに行ってこい。お前には、助手見習いとして、それなりに給料を払ってるんだからな」
そういわれると、里香としてはぐうの音も出なくなる。しかし、曇ってきた空を見るに、そろそろ雨か雪が降ってもおかしくない。
お気に入りのピンクのチェスターコートに、白のパンプスを履いた里香としては、濡らすのは避けたいところ。
チラリ、と来世を見る。
(ああ、めちゃくちゃ呆れてる)
来世は、椅子に座り、ペンを走らせている。黙々と文字を書いているが、時折仕事の一環のようにため息を漏らす。
里香は、アルバイトとして働き始めてからというもの、小さなミスを連発(それもかなりの頻度で)していた。彼がこんな態度になるのは、仕方のないことと言える。
「ううー、行ってきます」
「傘を持っていけ。本降りになるようなら、タクシーに乗っても構わん」
「はーい。じゃあ、お借りしますね」
里香は、透明なビニール傘を手に持ち、ドアに手をかけた。ヒヤリとした冷たいドアノブに、ゾワリとした感触が背中を駆ける。嫌だな、と思いながらドアを開けると、
「ひい!」
大きな声が喉から飛び出た。ゾワゾワ、とした感覚はドアノブによるものではない。
真っ白く染め上がった路地を背景に、黒い服を着た男が立っている。目は痙攣しているように左右へ動き、青白い顔は死人じみていた。
「どうした」
「あ、ら、来世さん」
里香が縋るような気持ちで振り返ると、彼女の背後から声がかかった。
「あのー、どんな依頼も引き受けてくれる魔眼屋さんって、こちらですよね」
見た目によらず、男の声はしっかりとしていた。
里香は、男に振り向き、問いかけた。
「もしかして、依頼をご希望ですか?」
「はい、そうです。あなた方にお願いがありまして」
男が頭を下げる。なんのことはない。ただの依頼人だ。だが、依頼人の様子が妙である。里香は、首を傾げた。
「……客が先に来ちまったな。仕方ない、里香、冷蔵庫にお前のカフェオレがあったな。あれを温めてお出ししろ」
「な! あれは私が楽しみにとっておいたものなのに。……けど、仕方ないか」
私は大人の女性に脱皮中。この程度でがっかりしたりしないのだ、と里香は自分に言い聞かせてから、がっくりと肩を落とした。