影の接近

文字数 1,916文字

「まさか、来て早々に帰る支度をする事になるなんて、思ってなかったわ」
 急ごしらえの執務室の中、白銀は鉢植えの薬草を摘み取り、水晶の擂鉢(すりばち)に放り込んでいた。
「まだ不死なる罪の化身(アサーナタマティーア)の行方は分かっていないのに、荷造りなんかしていいのか?」
 だらしなく腰掛けた明星は訝しげに問いかける。
「おそらく、もうすぐそれは現れる……父上はそう言ったし、私もそんな予感がする。だから、片付けついでにこれを作ってるのよ」
「清浄の生薬か……でも、ニワトコは」
「プラシニシーから送ってもらった物が有るわ。尤も、気持ちがいいくらい乾いてるから、葡萄酒に浸して戻してる最中だけど」
「そっか……って、もうお昼か……」
 明星は溜息を吐き、机に半身を投げ出した。
「……この一件が終わったら、モニミアネはどうするつもりなんだ?」
「エザフォスは間もなく戦争だと聞くけれど……許してくれるなら、戻ろうと思う」
 葡萄酒ごとニワトコの花を擂鉢に流し込みながら、白銀は呟いた。
「プラティーナの館にか?」
 投げ出した半身を起こし、明星は白金を見た。
「えぇ……なんだか、この星に居られる気は、もうしないし……私の名前は、栄光の永遠を願われたのだから……私は」
 白銀の言葉を遮る様に、急ごしらえの執務室の扉が開け放たれる。
「会議室に集まってくれ、非常事態だ」
 通りすがりに扉を開けた黒井に促されるまま、白銀と明星は会議室へと向かう。

 室内には望月を除く全員が集まっており、神妙な面持ちの吉備津が立っていた。
「前置きはしないわ、神奈川県の宮ケ瀬ダムのほとりで、ケンタウルスの変死体が見つかった。おそらくは、管理小屋の職員を惨殺した被疑者、というか、武寿賀さんが言うところの災厄が、こちらに近づいているわ」
 一同は顔を見合わせ、補う様に武寿賀が口を開いた。
「箱根の山中から、丹沢山を経て、宮ケ瀬ダムまで到達したのでしょう。とはいえ、かなり無茶な距離を移動していますから、依り代のケンタウルスが使えなくなり、災厄の根源は別の宿主に寄生して異動を続けていると思われます。ちょうど昨日、神奈川県内でガーゴイルと思しき未確認飛翔体が目撃されています。尤も、このガーゴイルは何らかの弾みで地球に渡航して来たもので、災厄とは別物でしょう。しかし問題なのは、その中の一体に災厄が取り憑いているとすれば、移動は素早くなり、何処に移動するか予測がつかなくなります」
「でも、私達を呼んだという事は、見当がついているのですよね」
 白銀の言葉に、武寿賀は続けた。
「未確認飛翔体の目撃情報が、少しずつ、こちら側へと近づいています。複数の目撃があったのは昨日の午後、相模原市内でしたが、明けて今朝になって以降、集団での目撃はありません。しかし、単独と思しき目撃情報は、確実に近づいています。しかも昨日、この庁舎付近には抑えきれていない邪気が撒かれています……その邪気におびき寄せられる格好で、こちらに来る可能性は非常に高いと考えています」
「でも、探しに行くのは、無理ですよね」
 窓を見遣りながら、白石は問い掛ける。
「えぇ。しかし、このまま放っておけば、群がる群衆に被害が及ぶでしょう……少なくとも、災厄の難を受けるべきではありません。尤も、捜索ならこちらで透視を試みています。貴方方は、すぐに動けるよう、二階で待機して下さい。部屋を一つ、借りています」
 一同は再び顔を見合わせながら、行くしかないといった様子で立ち上がる。
「醍醐さん、行こう」
「う、うん……」
 天野に促され、醍醐は立ち上がる。その表情には、言い知れぬ不安がにじんでいた。
「大丈夫だよ……今度のは、本当に、悪い奴、だから」
「う、うん……でも、宿舎にこよみちゃん、一人だけだし……」
「大丈夫、建物の中までは、きっといかないよ」
「そ、そうですよ、ね……」
 醍醐は言い聞かせる様に言って、天野の後を追う。だが、自分の後ろに続いていたはずの白銀が急ごしらえの執務室に入るのを目にして立ち止まる。
「白銀さん?」
「先に行って、少し、やる事が残っているの」
「醍醐さん?」
 天野に呼ばれ、醍醐は足早に彼の後を追う。
 一方、一同から離れた白銀は作りかけた薬を仕上げ、草の青い匂いと酒精の揮発臭が混ざり合うそれを瓶に詰めた。そして、申し訳程度の流し台で水晶の擂鉢を洗う中、ふと、透明な水に満たされたその擂鉢が、水鏡の様に見えた。
 白銀は息を呑んだ。透き通った水面に、黒い影がよぎったのだ。
 来る。
 白銀は擂鉢を机に下ろすと、薬の瓶を手に走り出した。
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