破局の時
文字数 2,189文字
調査に出るわけではなく、何か仕事が有るわけでもない。
時刻は間もなく正午だが、調査に出た四人は戻っておらず、望月も鵺田と面会して以降執務室には戻っていない。
草薙は溜息を吐き、机を眺めていた。
どうして、こんな時に限って一人で留守番なのだ、と。
何もせずにただ待って居ると、昨日の事が思い出されてどうにもならなかったのだ。亜人相談室で働くよりも前から、十年に亘って交際していた相手から別れを告げられた事が、彼から突き付けられた残酷な言葉が、草薙の脳裏を巡っていた。
望月が出て行ってから、何度目かの溜息を吐く。
地球に生まれ、地球人と同じ様に生きてきた中、何を間違えたのだろうか、と。
彼女が愛した男は、同じ猫獣人 だった。しかし、その男は、地球人なら大人と呼ばれる年になってから五年以上、子供を為さない彼女を捨てていたのだ。
彼自身も限られた寿命の中で、親に孫の顔を見せてやりたいと思い、祖父母のいる穏やかな暮らしを子供達に経験させてやりたいと思っていた。
だが、草薙にはそれが叶わなかった。彼女が両親を亡くしたのは、三年前の事だった。そして、彼女が愛した男はそれをきっかけに、彼女とは別の同族の女性と内縁関係を持つようになり、二人目の子供が生まれたばかりだったのだ。
男は子供の様に無邪気でありながら、掴んだものは離さない強情さを持った草薙の扱いに疲れ果てていたのだ。その上、出来もしない子供をせがまれる事に嫌気が差し、自分は子供の顔を見てから死にたい、小作りの為だけの肉体関係は疲れたと言ったのが、三ヶ月ほど前の事だった。
しかし、草薙は絶対に子供を産むからと男に縋り、泣き喚いて男の首を絞めてしまった。だが、彼女は本気で子供を望み、出来る事は全てやっていたつもりだった。それにもかかわらず子供を授かる事は叶わなかった。
そして昨日、男は別れる事に恐怖を感じて肉体関係だけの交際を継続している事に限界を感じ、いくらかの金を用意して彼女に全てを告白したのだ。
だが、彼女は男に別の女が居る事を責めはしなかった。金銭も必要ないと言った。もはや彼女の欲求は、子供を産む事だけになっていたのだ。例え愛した男に別の女が居て、既に子供が居たとしても、彼女にとっては問題ではなかったのである。それどころか、ただ一人で産み育てるにしても、亜人相談室に勤めてからの貯えがあれば、暫くは何とかなると考えていた。
お願いだから貴方の子供を産ませて欲しい。そう縋る草薙に対し、男は遂に手を上げた。子供が居なくても幸せな夫婦など珍しくないのだから、と。
昨日、本当の破局を迎えた草薙は一晩を泣き明かした。
ただ一人、静寂の支配する執務室に居ると、また涙が零れてしまいそうで、草薙は不安を募らせ、それが溢れそうになった時だった。内線電話の呼び出し音が、彼女を現在に引き戻したのは。
彼女は受話器を取った。相手は相談室の窓口で、女性の相談員が足らないので応援に来て欲しいとの内容だった。
草薙は仕事が有ると喜び、相談室へと降りて行った。
受付窓口から支持された相談室に向かうと、官公庁を訪ねるにしては簡略な服装の女性が一人座っていた。
「はじめまして! あたしは亜人相談室調査係の草薙です。えっと、まずはお名前を教えてくれますか?」
女性は草薙を怪訝に見遣りつつ、名乗る必要が有るのかと問う。
「うーん、お名前とか、連絡する所が分からないと、こっちから連絡が出来ないし、何て呼んでいいのか分からないよ?」
女性は僅かに思案し、連絡はいらない、ヤマダと呼んでくれと言う。
「それじゃあ、ヤマダさん、今日は何のご相談ですか?」
ヤマダと名乗った女性は目を伏せたまま、自分はエザフォスの吸血鬼と地球人の混血で、それを理由に就職の内定を取り消された為、止む無く売春婦として稼いでいると言った。
だが、元締めが厳しく、避妊具の使用を禁止されていた為、遂に妊娠してしまったが、中絶しようにも、人間の混血である事から処置してくれる医者が居らず困っているのだと言った。
それを聞いた草薙は目を丸くして声を上げた。
「えー? 赤ちゃん、中絶したいの? せっかく出来たのに?」
女は恐ろしいほどの形相で草薙を睨みつける。
「だめだよ、中絶なんてしちゃ! ちゃんと産んであげなきゃ、可愛そうじゃない」
女は怒りに身を震わせ、声を絞り出す。
「……アンタみたいな……アンタみたいなクソ役人に頼りたくは無かったけど……アンタに何の権利が有るっていうのよ! 毎日毎晩休みもロクに無しに、何処の誰だか分からない薄汚い男に好きな様にされて、子供が出来たら仕事にならないから、今日中におろしてこなきゃクビにしてやる、もう二度と風俗出来なくしてやるって言われたのに! 私に出来る事なんて風俗だけなのに!」
「でも! 赤ちゃんを殺すなんてサイテーよ! 中絶なんてしちゃだめ!」
「このクソ役人がぁ!」
女は机に身を乗り上げ、人間にしてはやけに鋭利な爪を持った手を草薙に振り下ろそうとした、その時だった。
二人の間を隔てていた机の天板が砕け、黒く得体の知れない触手の様な物が飛び出したのは。
「うわぁっ」
叫び声が上がった時には、女の身体は触手に絡め取られていた。
時刻は間もなく正午だが、調査に出た四人は戻っておらず、望月も鵺田と面会して以降執務室には戻っていない。
草薙は溜息を吐き、机を眺めていた。
どうして、こんな時に限って一人で留守番なのだ、と。
何もせずにただ待って居ると、昨日の事が思い出されてどうにもならなかったのだ。亜人相談室で働くよりも前から、十年に亘って交際していた相手から別れを告げられた事が、彼から突き付けられた残酷な言葉が、草薙の脳裏を巡っていた。
望月が出て行ってから、何度目かの溜息を吐く。
地球に生まれ、地球人と同じ様に生きてきた中、何を間違えたのだろうか、と。
彼女が愛した男は、同じ
彼自身も限られた寿命の中で、親に孫の顔を見せてやりたいと思い、祖父母のいる穏やかな暮らしを子供達に経験させてやりたいと思っていた。
だが、草薙にはそれが叶わなかった。彼女が両親を亡くしたのは、三年前の事だった。そして、彼女が愛した男はそれをきっかけに、彼女とは別の同族の女性と内縁関係を持つようになり、二人目の子供が生まれたばかりだったのだ。
男は子供の様に無邪気でありながら、掴んだものは離さない強情さを持った草薙の扱いに疲れ果てていたのだ。その上、出来もしない子供をせがまれる事に嫌気が差し、自分は子供の顔を見てから死にたい、小作りの為だけの肉体関係は疲れたと言ったのが、三ヶ月ほど前の事だった。
しかし、草薙は絶対に子供を産むからと男に縋り、泣き喚いて男の首を絞めてしまった。だが、彼女は本気で子供を望み、出来る事は全てやっていたつもりだった。それにもかかわらず子供を授かる事は叶わなかった。
そして昨日、男は別れる事に恐怖を感じて肉体関係だけの交際を継続している事に限界を感じ、いくらかの金を用意して彼女に全てを告白したのだ。
だが、彼女は男に別の女が居る事を責めはしなかった。金銭も必要ないと言った。もはや彼女の欲求は、子供を産む事だけになっていたのだ。例え愛した男に別の女が居て、既に子供が居たとしても、彼女にとっては問題ではなかったのである。それどころか、ただ一人で産み育てるにしても、亜人相談室に勤めてからの貯えがあれば、暫くは何とかなると考えていた。
お願いだから貴方の子供を産ませて欲しい。そう縋る草薙に対し、男は遂に手を上げた。子供が居なくても幸せな夫婦など珍しくないのだから、と。
昨日、本当の破局を迎えた草薙は一晩を泣き明かした。
ただ一人、静寂の支配する執務室に居ると、また涙が零れてしまいそうで、草薙は不安を募らせ、それが溢れそうになった時だった。内線電話の呼び出し音が、彼女を現在に引き戻したのは。
彼女は受話器を取った。相手は相談室の窓口で、女性の相談員が足らないので応援に来て欲しいとの内容だった。
草薙は仕事が有ると喜び、相談室へと降りて行った。
受付窓口から支持された相談室に向かうと、官公庁を訪ねるにしては簡略な服装の女性が一人座っていた。
「はじめまして! あたしは亜人相談室調査係の草薙です。えっと、まずはお名前を教えてくれますか?」
女性は草薙を怪訝に見遣りつつ、名乗る必要が有るのかと問う。
「うーん、お名前とか、連絡する所が分からないと、こっちから連絡が出来ないし、何て呼んでいいのか分からないよ?」
女性は僅かに思案し、連絡はいらない、ヤマダと呼んでくれと言う。
「それじゃあ、ヤマダさん、今日は何のご相談ですか?」
ヤマダと名乗った女性は目を伏せたまま、自分はエザフォスの吸血鬼と地球人の混血で、それを理由に就職の内定を取り消された為、止む無く売春婦として稼いでいると言った。
だが、元締めが厳しく、避妊具の使用を禁止されていた為、遂に妊娠してしまったが、中絶しようにも、人間の混血である事から処置してくれる医者が居らず困っているのだと言った。
それを聞いた草薙は目を丸くして声を上げた。
「えー? 赤ちゃん、中絶したいの? せっかく出来たのに?」
女は恐ろしいほどの形相で草薙を睨みつける。
「だめだよ、中絶なんてしちゃ! ちゃんと産んであげなきゃ、可愛そうじゃない」
女は怒りに身を震わせ、声を絞り出す。
「……アンタみたいな……アンタみたいなクソ役人に頼りたくは無かったけど……アンタに何の権利が有るっていうのよ! 毎日毎晩休みもロクに無しに、何処の誰だか分からない薄汚い男に好きな様にされて、子供が出来たら仕事にならないから、今日中におろしてこなきゃクビにしてやる、もう二度と風俗出来なくしてやるって言われたのに! 私に出来る事なんて風俗だけなのに!」
「でも! 赤ちゃんを殺すなんてサイテーよ! 中絶なんてしちゃだめ!」
「このクソ役人がぁ!」
女は机に身を乗り上げ、人間にしてはやけに鋭利な爪を持った手を草薙に振り下ろそうとした、その時だった。
二人の間を隔てていた机の天板が砕け、黒く得体の知れない触手の様な物が飛び出したのは。
「うわぁっ」
叫び声が上がった時には、女の身体は触手に絡め取られていた。