最善を模索して

文字数 1,900文字

 本来、無機質な役所の一室であるはずの係長室は、重厚な木製の書棚と欧州のアンティークを思わせる木製の机が置かれており、応接セットのソファは古風なカウチにクッションを置いた様な簡素な物だった。
 書棚の中には、天野には読めない言葉で書かれた百科事典の様な装丁の古めかしい書物が入っており、低い棚の上にはふたつの天球儀が置かれている。
 そして、広い壁にはやたら荘厳な書物や、刑事が縁起を担ぐ目的で飾る調度品ではなく、大きな天体図が壁紙の如く貼られていた。
 エルフの書斎とはこんな物なのか。天野が思いを馳せていると、望月が戻ってきた。
「望月さん……」
 醍醐の言葉に望月は答えず、彼女は静かに天球儀の据えられた棚へと歩み寄る。
「……醍醐さん」
「はい?」
 醍醐は目を瞬き、望月を見た。
「何か……草薙さんに、変わった様子は無かったかしら……」
「えっと……」
 唐突に問われ、醍醐は俯く。望月は天球儀をなぞりながら、その答えを黙って待った。
「……あ」
 醍醐は顔を上げ、望月を見遣った。
「天野さんが、此処に初めて来た日……皆さんと、お昼ご飯を食べた時、獲夢ちゃん、ジェラートを食べてませんでしたよね」
 望月は天球儀をなぞる指を止め、目を見開く。
 思い返せば、確かにそうだった。
 普段は食べないサラダを食べ、好きだったはずのチョコレートのジェラートを断り、カフェラテも豆乳のカフェラテにして欲しいと言った。
「それに……此処何日か、朝礼で、お茶を飲んでいなかったです。お菓子も、食べてませんでした」
 確かにそうだ。望月は思い出す。だが、それが何を意味するのか、分からない。
「でも、どうして……」
 重い沈黙が部屋に広がり始めた時、天野は顔を上げた。
「あ!」
 思わず上げられた声に、一同の視線が注がれる。
 天野はそれに動揺しながらも、当たらないだろうと思いつつ推論を述べる。
「もしかして、妊活……平たく言って子作りじゃないですかね。ほら、妊娠する前から体を冷やしちゃいけないって言いますし、カフェイン、特にコーヒーや紅茶もよくないって言いますし……あ、あと、人工の油脂分に入ってるトランス脂肪酸も妊娠希望なら、内分泌に悪いから良くないって、テレビで見た事が有るんです」
 望月の中で、散らばっていた考えが集約されていく。
 妊娠だ。
「……でも、でも、彼女は……子供が出来たら辞めたいって……仮に、仮に流産だったとしても、妊娠が分かっていたなら……辞めると言うはずなのに」
 望月は弾かれた様に机に向かい、受話器を取った。
 連絡先は、風見の自宅。
「もしもし? あぁ、風見さん! 望月です。実はお願いが有りまして……どうか、何も言わずに、質問に答えて下さい……草薙さん、婚約されているとか、聞いた事が有りますか?」
 受話器の向こうから返されたのは、十年来の交際相手が居るらしい、という話だった。
「変な事を聞いてごめんなさい。今は詳しく言えない事、どうか許して下さい」
 望月は通話を切り、暫くの間電話を見下ろしていた。
 そして、ある仮説を導き出した。
「もしかしたら……子供が出来なくて、結婚、断られたのかもしれない」
 天野達三人は顔を見合わせた。
「そんな事、有るんですか……」
 困惑する天野に、瀬戸は眉を顰めた。
獣人(サテュロス)有翼人(イカリアス)の寿命は、人間よりもずっと短い。だから……草薙さんは、まだ二十五歳だけど、人間でいえば、もう四十も近いくらいで、子供が出来ないとなると、そろそろ、限界なんだよ」
「え……」
 目を瞠る天野に、更なる現実が重く圧し掛かった。
「動物の寿命は短いでしょ? 獣人の寿命は、長くても五十年。短ければ、四十年……人間の半分くらいなんだよ」
「そ、そんな……じゃあ、彼女の時間は、倍も……」
 天野は体から力が抜けるのを感じた。
 その向こうで、望月は拳を握り締めた。
 もし、それが理由なら、殺さずに済むかもしれない、と。
「……醍醐さん。今日は室長の家に泊まれるかしら」
「え……」
 突然の問い掛けに醍醐は再び目を瞬く。
「多分、宿舎には帰らない方がいいわ。それと、瀬戸さんと天野さん……今晩は此処に居て下さい。宿舎にも、あれが出るかもしれません」
 瀬戸と天野は顔を見合わせる。
「殺さずに……殺さずになんとかする事が出来るかもしれないけれど……今すぐにはどうにも出来ないんです。係長にも連絡したいけど……他に運転出来る人を連れていないと、携帯電話は着信を教えてくれないし……ひとまず、安全な場所に居て下さい」
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