不思議なパンと不吉な予兆

文字数 2,055文字

「今日は暇ねぇー」
「今日も、ね」
 冬物特売が終わり、春物先行特売が終わり、春分の日に開かれた即売会が終わり、学生達の新生活準備が終わり、店はすっかり閑散としていた。
「星が変わっても、商売は上手くいかないものよねー」
 可愛い物が大好きな光の民(フォスコイノス)のラッテとドルチェは、可愛い物が沢山有るらしいと聞き、地球を目指した。
 初めはエザフォスで身につけた裁縫の知識や彫金の知識を生かして服飾雑貨の店を開き、同じ星から来た知り合いの伝で文房具を作って売り始めた。しかし、客足が劇的に伸びたわけでもなく、今度はパンや焼き菓子を作って売り始め、遂にトラックを買って移動販売を始めた。
 しかし、何をやってもそれなりの稼ぎにしかならなかった。
 今は東京の外れにある、店主の多くが店を閉めてしまったささやかな商店街の空き店舗に期間限定の店を出しているが、相変わらず暇な日々を送っていた。
「お、そろそろ新作の桜メロン抹茶餡パン(よもぎ)入りが焼き上がりだね」
 ドルチェが浮かれた足取りで試作用のささやかな電気オーブンに向き直った瞬間、ラッテが奇声を上げた。
「どうしたのよ」
「な、なんか今黒いのが」
「アブラムシなら捕獲機」
「違うちがうちがう! 外よそと、外になんかオークが、あーっ」
 ラッテが二度目の奇声を上げた瞬間、ドルチェもそれを目にした。
 黒い肌の不気味な影が、こちらを見ている光景を。
発光魔術(ルークス・フルゴール)!」
 ドルチェのささやかな発光魔法は、水面に反射した朝陽ほどの明るさしかなかった。しかし、魔法に恐れをなした黒い影はその場を立ち去る。
 二人は顔を見合わせた。そして、即座に店の外に有った看板とマットを中に放り込むとシャッターを下ろし、焼きたてのパンを放り込んだ紙袋と鞄を抱えて店の裏にあるトラックに飛び乗った。

 秘も傾きが強まった午後五時前、警視庁本部庁舎にある亜人相談室の窓口は受付終了の準備に掛かっていた。残業になりがちな為、終了時刻が近付いた時点で勤務超過の多い職員は引き上げており、受付担当者は報告書の点検に取り掛かっていた。
 その平和な時間をかき乱したのは、二人の女だった。
 二人は口々に、なんで地球にオークが居るんだ、どうしてくれるんだと騒ぎ立て、苦々しい表情を浮かべた受付担当者は内線連絡を掛けた。願わくば、あの人間が出る事を祈って。
「あー、調査係ですよね、こちら相談係窓口担当なんですけど、八王子のはずれにある店舗でオークを見たって女の人が二人いらっしゃいまして―、あー、はい、応援要請出来ますか? あー、はい、それじゃお願いしますー」
 受話器を置いた受付担当者は胸を撫でおろした。
「おまたせしましたー、担当者間もなく参りますので、そちらのベンチでお待ちになって下さい」
 程無くして姿を見せた天野に、担当者は手招きをする。
「報告書は夜間提出箱に投函しといて下さい、遅番の担当者が後で全部整理しますから。それじゃあ、私の業務はこれで終わりですので、問題が有れば執務室に連絡して下さい、遅番が待機してますから」
 窓口担当はそう言って席を立ち、天野にすべてを押し付ける格好で仕事を切り上げた。
 天野はベンチで待つ二人に声を掛ける。
「お待たせしてすみません、お二人、別々にお伺いする必要が有りますか?」
「一緒でいいわ」
「つか此処でもいいわ」
 二人はほぼ同時に口を開き、天野は面食らう。
「い、一応こちらでお話伺いますから……どう……」
 天野は廊下の奥を見て絶句した。全ての部屋が、塞がっている。
「……書類の準備をするので、もう少しだけ、お待ち下さい」
 天野は消え入りそうに言って、窓口の奥に入る。そして、無造作に棚へ放り込まれた用箋ばさみや書類をかき集め、ベンチへと戻った。
「お待たせしました、こんな場所で申し訳ありませんが、お話を伺います……まず、お二人のお名前をお聞きしていいですか?」
 天野は二人の身分証を確認し、話を聞き進めた。
 いざ話を聞くと、二人が同時に口を開くという事も無く、殊の外話の内容は筋が通っていた。
「……この件は調査係の方にも報告しますので、お二人とも安全な所で過ごして下さいね。では、これで」
「あ、ちょっと待って、これあげる」
 ラッテはドルチェの膝の上から紙袋を取り上げた。
「え……これはー……」
「うちのお店の試作品、桜メロン抹茶餡パン蓬入り」
 ドルチェの説明に天野は困惑したが、店のオリジナルと思しき紙袋に悪意はなさそうだとそれを受け取った。
「あ、ありがとうございます……」
「それじゃ、駐車料金高いから私達帰ります」
「お世話になりましたー」
 二人は立ち上がると、足早に来た道を引き返した。
「お、お気を付けて―」
 二人の背中を見送りながら、天野は溜息を吐く。そして、ふと紙袋の中をのぞいた。
 何とも言えない春らしい香りが、バターの香りと大喧嘩をしていた。
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