送別

文字数 1,930文字

 春霞の空も快晴のその日、庁舎の玄関先では、ささやかな送別会が行われていた。
「十年間、本当にご苦労様でした」
 吉備津は一抱えもある花束を風見に手渡す。
「こちらこそ、いろいろとありがとうございました、吉備津室長……俺が来た時には、係長でしたよね」
「そうね……」
 吉備津は感慨深げに笑みを浮かべる。
「元気でね、風見さん」
 醍醐は満面の笑みを浮かべた。
「あぁ。桜ちゃんも頑張れよ」
「短い間ですけど、本当にお世話になりました」
 深々と頭を下げる天野に、風見は苦笑いを浮かべた。
「おいおい、止めてくれよ。そんな事してる間には、男らしくなれって」
 望月と吉備津は並んで肩を震わせ、笑っていた。
「……風見さん、これからも、お幸せに」
「……あぁ」
 望月の言葉に、風見は寂し気な笑みを見せた。
 二人の脳裏に浮かぶのは、草薙の記憶である。
「望月さんも、幸せになってくれよな」
「まだ先になりそうですけどね」
 風見は武寿賀に向き直る。武寿賀は穏やかな表情のまま、静かに口を開いた。
「今日まで、本当にありがとうございました」
「こちらこそ、お世話になりました……それじゃあ、家内と(せがれ)が待って居ますんで」
 去っていく風見の背に、惜しみない拍手が送られる。
 風見は一度だけ振り返り、吹き抜けの向こう側の人影を見た。
 十年間相棒同士だった瀬戸である。彼はあからさまな送別会は御免だと言って、玄関には降りてこなかったのだ。
 しかし、風見には分かっていた。それが一番瀬戸らしく、二人らしい別れ方なのだ、と。
 風見の姿が建物から消えた時、天野はふと二階を見上げた。
 瀬戸は黙っておけと人差し指を立てる。
 天野には、瀬戸が出てこなかった理由がはっきりと理解出来ていない。しかし、相棒と別れるというのは、そういう事なのかもしれないとも思っていた。
 天野が視線を戻すと、醍醐が彼を見上げていた。
 風見を送り出した時とはまるで違う、寂しげな表情で。
「さあ、戻りますよ」
 武寿賀の号令に、醍醐と天野は言葉を交わす間も無く執務室へと戻る。
 ――さあ、部屋の掃除を始めますよ……週明けには、新しい人員が此処にやってくるのですからね。
 突然に草薙が去り、その悲しみを背負いながら風見が去った執務室。
 電気ポットは望月の私物で間に合わせ、椅子と机は総務から借り受けた物のまま。しかし、その爪痕さえも、草薙が居た証明になっていた執務室の中から、借り受けていた備品が運び出され、望月の私物が持ち出し用の箱に収められる。
 新しい備品が届くのは、風見の後任者、そして、人員増強の為に招かれた職員が着任する直前。
 着任するその日は、全員早出になってしまった。
 そんな中、天野は思っていた。
 これで、本当の日常が、戻ってくるのだ、と。
「天野さん」
 醍醐と天野が室内の掃除をしていると、醍醐は不意に彼を呼んだ。
「なんですか」
「獲夢ちゃんは……今、幸せなんでしょうか」
「え……」
 引き出しに残っていたマドレーヌを見つけた醍醐は、問い掛けずにはいられなかった。
「この桜のマドレーヌ、美味しかったのに……獲夢ちゃん、食べないままだったから……」
 天野は困った様に作り笑いをして、口を開いた。
「きっと……幸せだと思います。もう、何も苦しまなくていいんだから……確かに、そのマドレーヌ、食べられなかったのは、心残りかもしれないですけど……そんな事も、もう、今は気にしていないと思います」
 事件の事後処理の為、吉備津は草薙の交友関係も調査し、彼女と二重の関係が続いていた男にも接触していた。その結果は簡単な報告書として二人の知るところにもなった。不妊をきっかけとした不倫交際を告白され、別れ話を持ち出された事があの事態の原因だった、と。
 しかし、何故諸悪の化身(エフィアルティース)が生じたのかについては不明のまま。
「……きっと、獲夢ちゃんは……すごく悲しくて、苦しくて、あれが迷惑だなんて、思ってなかったんですよね」
「え……」
 天野は息を呑んだ。
「獲夢ちゃんの事だから……悪気なんて無くて、思った事をそのまま言っただけで……何も、何も悪くないんですよね?」
 縋る様な醍醐の眼差しに、天野はただ穏やかに作り笑いするしかなかった。
「そうですね……きっと、何も悪くなんて無かったと思います。悪いのは……彼女に取り憑いていた諸悪の化身(エフィアルティース)ですから……」
「そう……ですよね」
 醍醐は少し悲し気な笑みを浮かべて、残されていたマドレーヌを作業台の上に置いた。
 新しい茶菓子を買いに行かなければと思いながら。
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