人間の常識が通用しない亜空間

文字数 2,442文字

「どう? 東京にはもう慣れたかしら?」
 天野が入居する庁舎に隣接した宿舎を訪ねた吉備津は微笑みを湛えて問いかける。
「いや、まだ全然……地下鉄は迷路みたいですし、在来線もどれに乗ればいいのか路線図がわけわからないです……」
 吉備津は苦笑する天津を眺めながら、そのうち慣れるわよと言い、殺風景な室内に目を向ける。
「何かと不便も多いでしょうけど、調査係の職員は皆面倒見がいいから、困った事は抱え込まないでね。さ、庁舎を案内するわ」
 促されるまま天野は地下通路へと降り、警視庁本部庁舎へと入った。
 通用口の説明を受けながら数階上へと進み、通されたのはまだ明かりの点いていない部屋だった。
「此処が執務室兼待機場所よ。朝礼は此処でやってるから、まずは此処に来てね」
「はい」
「それじゃあ、皆集まってくるから、それまで待っててね。何かあったら其処の内線から室長室宛に連絡して」
「分かりました」
「頑張ってね」
 吉備津は爽やかな笑みを残し、白い廊下へと出て行った。
 席次も決まっていない中、長机に添えられた椅子に腰掛けるのは気が引け、天野は作業台の傍に有ったスツールに腰を下ろす。
 良く整った室内を見回し、どんな人が居るのだろうかと期待に胸を膨らませていると、扉が開いた。
 天野は慌てて立ち上がろうとし、突然に後ろへと倒れ込んだ。
「あぁ……」
 鈍い音に対するその人物の反応は、殊の外冷めた物だった。
「大丈夫ですか?」
 何が起こったのか分からないといった様子で身体を起こす天野の前に有ったのは、脚の折れたスツール。
「その椅子は掃除をしていて壊された物だったのですが……脚が曲がっていたのに気付かなかったのですか?」
 言いながら、白い髪の人物は天野に手を差し伸べる。
「す、すみません……」
「怪我は有りませんか?」
「は、はい、その……」
 天野はズボンを払いながら、何を言うべきかと言葉を探すが、白髪の男の方が先に口を開いてしまった。
「天野君ですね」
「あ、はい……その」
「私は此処の係長、武寿賀(たけすが)と申します」
「ご、ご丁寧にどうも……」
 何も言えなくなり、天野は居心地の悪い会釈を返した。
 向かい合ったまま二の句が継げないと天野が焦りを感じた時、勢い良く扉が開け放たれた。
「おっはよー!」
 入って来た人物を見て、天野は目を疑った。それは、頭頂部に一対の猫耳を持った女性だったのだ。
「あーっ!」
 武寿賀越しに立ち尽くす天野の姿を見て、猫耳の女性は声を上げる。
「君が新入りさんだね! えーっと」
「あま」
「そう! あまのん! あまのんだ! はじめまして! 私は草薙(くさかり)獲夢(えるむ)だよ、よろしくね!」
 名乗るよりも先に、妙なあだ名で呼ばれた上に一方的な自己紹介を押し付けられ、天野は困惑を通り越して混乱していた。
「よ、よろしくお願いします……」
 消え入りそうな声で呟きながら、天野は必死に引き攣った笑みを浮かべ、取り繕おうとした。
 此処は地球で、日本で、法律に決められていなくても首都の東京で、警察組織の中でも別格の警視庁の、それも本部たる庁舎の中なのだから、それ相応の礼儀という物があるのではないのかと思いながら。
 しかし、そんな天野の混乱した思考をよそに草薙は武寿賀に対し、私はアップルティー砂糖入りね、などと言っている。
(じょ、上司になんて事を!)
 呆然と突っ立っていた天野は、傍若無人な草薙の発言に思わず視線を彼女へと向けていたが、目の前の気配が動いた事に慌てて視線を戻すと、武寿賀は作業台にある電気ポットに向かってた。
(この人今一番偉い人だよね、え?)
 天野がありえない光景を見ている様な気分になっていると、再び扉が開き、彼は現実に引き戻される。
「あ、君は……」
 入って来たのは、どことなく暗い印象で、中性的にも見える男だった。
「えっと」
「山梨県警から来たんだっけ? 僕は瀬戸(せと)(ひびき)、よろしく」
 瀬戸は天野の事は既に知っている様子で、手短に名乗ると、部屋の奥へと進む。
「……君、その椅子に座ったの?」
「えっ……」
 瀬戸は机越しに壊れた椅子を見て、怪訝そうに天野へと視線を移す。
「明らかに足が一本曲がってたでしょ? そんな事にも気付かないなんて、間抜けだね」
 草薙とは違った意味で無遠慮な発言に、天野は言葉を失った。
「あまりいじめないで下さいよ? やっと確保した人間なんですから。それに……」
 武寿賀は紅茶の支度をしながら瀬戸を窘める。だが、天野の想像を超えた発言を続けた。
「いくらニンフの混血だからといえ、ただの人間に過剰な期待をする物ではありませんよ」
 天野は震える様に武寿賀を見た。だが、武寿賀には何ら他意が無いらしく、彼は平然とカップに紅茶を注いでいた。
 もう訳が分からないといった様子で、言葉を紡ぐことも溜息を吐く事も出来ずに唇を半開きにさせている天野をよそに、席に着いた草薙と瀬戸はいつも通りの朝を迎えていた。
「ねー、やっぱり編み込みさせてくれないのー?」
 草薙は瀬戸の髪を一束摘まみ、瀬戸はその手をやんわりと払い除ける。
「解けなくなるのは御免だよ。やるなら自分の髪でやって」
「自分じゃ腕が疲れて出来ないのー」
「そんなの知らないよ」
「それにー、響君の方が綺麗に見えるに決まってるじゃない。濃い青と、青緑の所と、赤紫の所があってさぁ」
「隣り合ってるわけじゃないし、三つ編みは似合わない」
「三色で編みたいわけじゃないの! こう、一束違う色が入ると綺麗じゃない」
「都合よく配色されてるわけじゃないんだから、変な所に三つ編みされるのも御免だ」
「えー、ん」
 瀬戸はまだ何か言いたげな草薙の口にクッキーを押し込み、物理的に黙らせてしまった。
 そんなやり取りを傍から眺めていた天野は、一体此処はどうなっているのかと半ば放心していた。
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