誰でも他人は理解出来ない

文字数 1,927文字

 時間にしてほんの数分間だったが、その数分間で彼は酷く疲労していた。
 天野は理不尽に叱責される事には慣れていたつもりだったが、言い掛かりを付ける為に来た人間など追い返せだの、全部の相談を調査係が受け付ける必要は無いだの、天野には受け入れ難い言葉が次々と彼に突き付けられたのだ。
 あの時間、相談室受理係の人員は全て出払っており、特に仕事の無かった調査係にも応援要請があった。そして、天野はそれまで通りに仕事を引き受けただけだった。
 ――手を開けておく事も仕事なんですから、貴方は貴方の仕事だけをして下さい。
 県警勤務の頃には、休日返上で職務にあたる事さえあった天野にとって、ただ待機しているというのは耐え難い事であった。だが、彼は理解していなかっただけなのだ。土地勘も人脈も無い彼に、他の職員と同じ仕事は出来ないという事を。
「天野さん、どうかしたの? なんだか顔色が悪いわ」
 天野がぼんやりと座っていると、顔を見せたのは醍醐だった。
「あ、え、いや、その……」
「もしかして、叱られた?」
 天野は一瞬息を呑むが、苦笑いを浮かべて乗り切ろうとした。
「まさか、エピスタニスおじいちゃんに叱られたの?」
「え?」
 それが誰だか分からず、天野は首を傾げる。
「係長の事よ、おじいちゃんのお説教、すっごく怖いって聞いた事あるから……」
 不安げな醍醐に対し、天野は混乱していた。エルフには、ふたつの名前があるのか、と。そして、醍醐は上司を“おじいちゃん”呼ばわりしているが、彼女こそ大丈夫なのだろうか、と。
「いや、別に、怖い事は無かったですよ。ただ……なんというか、否定されたみたいで、疲れましたね」
「え……」
 醍醐は悲しそうな顔で天野を覗き込む。
「僕は、相談に来られた方のお話は、全部聞くべきだと思っていますし、どんな理不尽な言い掛かりであっても、とにかくお話を全て聞く事で、きっと解決出来ると思っています。それでも、どうにもならないときは、別の人を呼んで対応を変えるし、もし、暴力に訴えてきたら、その時はその時でちゃんと対応します。でも……係長は、端から来た人間を選別すべきだとお考えですし、妙な物を持った人間はまず疑えと仰って……今回は、シリコンの赤ちゃん人形でしたけど……世の中には、子供を亡くした悲しみから、赤ちゃんの人形を抱いている人だって居るんですから、疑えるわけ、無いんです……」
 醍醐は渋い顔をして天野の話を聞き、口を開いた、
「んー……天野さんの言う事、なんだか難しいですけど……天野さんがすごく優しいって事は分かりました」
 何ら問題の解決にはならなかったが、意外で優しい返答に、天野の表情が晴れる。
「……そう言って貰えると、なんか、ちょっと自信が戻ってきた気分です」
「でも、やっぱり迷惑な人は迷惑だって言わないと、キリが無いと思います」
 天野の感情は、再び地の底へと叩き落された。
「でも、迷惑かどうかは、話してみないと分からないですよね?」
「でも、本当に迷惑な人って、私達を困らせる為に此処に来るんですよね」
 天野は何も言えなかった。事の発端となった女が、もし、本当に活動家であったなら、醍醐の言葉は否定出来ない。
「それに、困らせるつもりが無くても、無意識に私達を困らせる人だって居ますし、そういう人には、困りますってはっきり言わないと、気付いてもらえないと思います」
「で、でも!」
 天野は声を絞り出した。
「でも、本当に傷付いている人は、悲しくて、どうしようもなくて、他人を傷付ける事だってあると思います! そういう人は、迷惑を掛けたいわけじゃない、ただ、自分でも理解出来ないほどの苦しさを分かって欲しくて、必死なだけだと思うんです。だから……どんな人だって、受け入れる姿勢を持って接しなければならないと、僕は信じています。そうしたら、きっと……分かり合えると思うんです。本当に、迷惑を掛けたい人かどうかも、受け入れなければ、理解出来ないですから」
 表情を強張らせながらも、自分の本音を初めて言葉にした天野を前に、醍醐は無邪気に首を傾げるだけだった。
「ニンゲンって難しくて、わたしにはよく分からないです」
「……それを言うなら、僕も、そう思います。でも……僕は理解したいんです。端から、否定せずに」
 醍醐はよく分からないと言った様子で眉根を寄せる。
「やっぱり、なんだかよく分からないです。でも、わたしの事、一人にしないで下さいね」
「え……」
 予想だにしなかった言葉を受け天野は目を瞬く。だが、その言葉の真意を問う前に、醍醐は空色のジャンパースカートを翻し、部屋を出て行ってしまった。
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