不穏な予感

文字数 1,174文字

 ――何の為に殺したのか。何の為に此処に来たのか。
 天野は考えていた。
 しかし、思い返せば無難な人生を選ぼうと官吏の道に進み、それで失敗した為に此処に来たのだ。
 大義名分など彼には無かった。ただ、警察職員という、公務員という身分が捨てきれなかったに過ぎない。無論、彼は役場勤めの頃以上に県警で働いていたし、勤勉である事に変わりは無かった。種族間対立が起こらぬように勤めたいという意思はあった
 だが、それを成し遂げる事で自分がどうなりたいのか、という事は考えていなかった。結局は官吏の道を選び、無難に生きようという人生の舞台を変えただけに過ぎなかったのだ。
 天野は自己嫌悪を覚えながら、執務室の扉を開ける。
「おはようございます」
「おはようございます、天野さん!」
 天野の落ち込み気味な挨拶にも、醍醐は無邪気に応える。
「早いですね」
「お茶とお菓子を持ってきたんです。昨日、母と買い物に行って、素敵な物を見つけたんです」
「素敵な物?」
「はい。桜の香りがするお茶と、美味しい抹茶のクッキーが有って、皆さんと食べたいなって思って、買ってきたんです」
「それはありがたいですね……」
 嬉々とした様子の醍醐に、天野はぎこちなく笑って返す。
 桜はこりごりだ、と。
 その後も、醍醐は百貨店で見てきた物が綺麗だったとか、夕食に立ち寄った寿司屋の卵が美味しかったとか、他愛の無い事を喋っていた。
 そして天野はそんな彼女を眺めながら、あの時オークを(ほふ)ったのは、いや、オークに危害を加え死に至らしめたのは、彼女が居たからではないのかと思い始めた。
 同じ場に魔狼(カタラリコス)がおり、動転していたのも有ったが、自分一人だけなら、説得しようとしていたのではないかと感じ始めたのだ。
 そうしていると扉が開き、望月がやってきた。
「おはようございます……ところで望月さん、昨日は何かあったんですか?」
 大捕り物となった現場に彼女が居なかった事を不思議に思い、天野は尋ねる。
「えぇ……知っての通り、奥多摩の山中に連絡通路(ワープホール)が出現している件で、あちら側の調査に関係した雑用が有ったの。次の満月までには、進展させないといけないから」
 望月は言いながら、電気ポットのスイッチを入れる。
「ん?」
 視線が白い壁を通る瞬間、彼女は違和感を覚えた。
 何か、黒い影が横切った様な気がして。
「おっはよー!」
 程無くして、勢いよく開け放たれた扉の向こうから草薙が姿を見せた。
 望月は草薙の方に挨拶を返そうとして、一瞬、得体のしれない黒い影が視界を覆うのを感じた。
「おはようございます」
 挨拶を返した望月は内心で首を振った。
 そんな事は無いはずだ、と。
 此処に諸悪の化身(エフアルティ―ス)が姿を見せるわけがない、と。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み