凶兆の風
文字数 1,184文字
「いらっしゃいませ……」
入ってきた客に、朝比奈は目を瞬いた。
「今日はお一人?」
「いろいろと有りまして」
武寿賀はカウンターの一番奥へと進み、黙って腰を下ろした。
ランチタイムは終わり、残る客も会計を残すのみとなった頃の事だった。
最後の客を送り出した朝比奈は店の看板を準備中に替え、皿を食器洗い機に掛けた。
「何にしますか?」
「アップルティーをお願いします」
その注文に、朝比奈は事情を理解した。
武寿賀がこの店を訪れる時、多くは部下を連れていた。そして、その一人が必ず頼んでいたのが、アップルティーだった。
この店では毎年冬になると、皮ごと食べられる有機栽培された林檎を大量に取り寄せ、果実はケーキの具材にすべく蜜煮にして保存し、残った部分も砂糖漬けにして紅茶の香り付けに使っている。
最後にその一人が同じ物を頼んだ時は、新物の林檎で作ったケーキを出していた頃だった。
朝比奈は黙って二組のカップとソーサーを出し、武寿賀の隣にそれを差し出した。
「最近、この辺りで妙な噂は有りませんか。例えば、人間の言う心霊現象が起こった、とか」
「心霊現象、ですか……そういえば、其処の通りの監視カメラ、二ヶ所ほど壊れていたと聞きました」
「カメラが?」
「ええ。何が映っていたのかは知りませんけど、ひとつの通りで壊れたというのが妙だと、噂を聞きました」
武寿賀は、あのマンションの監視カメラが壊れていた事に関連しているのではないかと思案を巡らせる。
「……その通りで、奇妙な怪我人や、乱暴が起こったという話は有りますか」
「それは聞いていないけど……なんとなくこの辺りで、時々嫌な気配を感じる事は有るわね。何か、悪い事でも起きそうな……でも、悪い事は、もう……」
朝比奈は手に取られないティーカップを見遣る。
「繰り返したくは、有りませんからね……」
明星がもたらしたのは、罪の化身の脱獄という情報だけではなかった。草薙がその後どうなったか、彼はシネーティアウスの書状を武寿賀に届けていたのだ。
シネーティアウス曰く、スパーシウスの伝令を受けて遣わした迎えの馬車が山小屋に着いた時には、彼女は既に息絶えていたという。そして、亡骸は、今はアステリシーの家臣となった西の氏族の末裔が荼毘に付し、叔父は港から彼女の御霊石 と共に郷里へ戻ったとの事だった。
――私達に口を挿 む余地は無かった。貴方方の決断は正しく、我々に出来る事は何もなかった。
その一文に、武寿賀は全てを察した。おそらく、彼女の叔父は手を下したのだろう、と。
「……だから、私、好きになれないの。みんなすぐに居なくなってしまうから」
朝比奈は振り返り、棚の中を見る。そして、小さな箱に入った砂糖菓子を取り出し、手に取られる事の無いティーカップの傍に下ろした。
入ってきた客に、朝比奈は目を瞬いた。
「今日はお一人?」
「いろいろと有りまして」
武寿賀はカウンターの一番奥へと進み、黙って腰を下ろした。
ランチタイムは終わり、残る客も会計を残すのみとなった頃の事だった。
最後の客を送り出した朝比奈は店の看板を準備中に替え、皿を食器洗い機に掛けた。
「何にしますか?」
「アップルティーをお願いします」
その注文に、朝比奈は事情を理解した。
武寿賀がこの店を訪れる時、多くは部下を連れていた。そして、その一人が必ず頼んでいたのが、アップルティーだった。
この店では毎年冬になると、皮ごと食べられる有機栽培された林檎を大量に取り寄せ、果実はケーキの具材にすべく蜜煮にして保存し、残った部分も砂糖漬けにして紅茶の香り付けに使っている。
最後にその一人が同じ物を頼んだ時は、新物の林檎で作ったケーキを出していた頃だった。
朝比奈は黙って二組のカップとソーサーを出し、武寿賀の隣にそれを差し出した。
「最近、この辺りで妙な噂は有りませんか。例えば、人間の言う心霊現象が起こった、とか」
「心霊現象、ですか……そういえば、其処の通りの監視カメラ、二ヶ所ほど壊れていたと聞きました」
「カメラが?」
「ええ。何が映っていたのかは知りませんけど、ひとつの通りで壊れたというのが妙だと、噂を聞きました」
武寿賀は、あのマンションの監視カメラが壊れていた事に関連しているのではないかと思案を巡らせる。
「……その通りで、奇妙な怪我人や、乱暴が起こったという話は有りますか」
「それは聞いていないけど……なんとなくこの辺りで、時々嫌な気配を感じる事は有るわね。何か、悪い事でも起きそうな……でも、悪い事は、もう……」
朝比奈は手に取られないティーカップを見遣る。
「繰り返したくは、有りませんからね……」
明星がもたらしたのは、罪の化身の脱獄という情報だけではなかった。草薙がその後どうなったか、彼はシネーティアウスの書状を武寿賀に届けていたのだ。
シネーティアウス曰く、スパーシウスの伝令を受けて遣わした迎えの馬車が山小屋に着いた時には、彼女は既に息絶えていたという。そして、亡骸は、今はアステリシーの家臣となった西の氏族の末裔が荼毘に付し、叔父は港から彼女の
――私達に口を
その一文に、武寿賀は全てを察した。おそらく、彼女の叔父は手を下したのだろう、と。
「……だから、私、好きになれないの。みんなすぐに居なくなってしまうから」
朝比奈は振り返り、棚の中を見る。そして、小さな箱に入った砂糖菓子を取り出し、手に取られる事の無いティーカップの傍に下ろした。