第98話-1 二人の朝焼けに

文字数 3,226文字

 短くも長い夜が終わりを告げる。
 東の空が薄ぼんやりと明るく、夜明け前の薄い青色が空を覆っていた。西には、未だに星々の瞬きが見て取れる。朝の訪れるほんの少し前の時間だ。早起きの小鳥が一羽、さえずりながら羽ばたいた。やがてその影は森の影に溶けていく。
 ミスルトーとは異なり、屋敷の空は広い。見渡すほどの夜空に、ほんのわずか顔を出す太陽の光。グローカスの海辺では、水平線から太陽が顔を出す頃合いだった。
 朝焼けに包まれる中、大窓が静かに解錠される。古びた音と共に窓が開かれた。湿気を含んだ冷たい風が、建物の中へと吹き抜けていく。しばらくして、石造りのバルコニーを踏みしめる足音が一つ。メルリアだった。彼女は興味深そうに周囲を見回しながら、バルコニーの手すりに右手を置いた。風で乱れた前髪を耳にかけながら、朝を告げる東の空を見つめる。そうしてから、その視線を下に向けた。
 中庭では、月満草が朝の風に揺れていた。しかし、昨晩とは異なり、その輝きは弱い。どういうことだろうと目をこらす。その瞬間、視界の端にある光がひとつ消えた。月満草が静かにその花弁を畳んだのだ。真っ白なそれが花咲く直前へと蕾む様は、まるで時が戻っているようだった。月満草――月夜に咲く花。この花が蕾に変わるということは、夜が終わる合図なのだろう。顔を上げ、東の空を見た。普段の濃い藍色とは異なり、そこは薄紫に染まっている。夜にしては大分浅い色だ。木々に阻まれ、月の形はバルコニーからは確認できない。
 間もなく夜が終わる。手すりに触れながら、再び前を向いた。夜明け前の湿気をはらんだ風が、彼女の細く長い髪を揺らす。それは風の軌道を不確かに描く。朝焼けに溶けるよう、ただただ静かに。
 そんな中、メルリアは小さなあくびを一つこぼす。瞳に溜まった涙を指の背で拭うと、ゆっくりとまばたきを繰り返した。
 昨日はよく眠れなかった。日が昇る前に目覚めてしまうくらいには。原因は二つある。一つは、借りた部屋のベッドは信じられないほど柔らかかったせいだ。ベッドのスプリングが派手に軋み、寝具は体全体を包みこむような暖かさ。真っ白なシルクのシーツは手触りがよく、あまりの心地よさにベッドの中で一人縮こまってしまった。もう一つは、いろいろなことがありすぎたせいだ。屋敷に到着してからというものの、山のような情報が降りかかった。それのどれもが彼女の求めるものであったし、嬉しい出来事ばかりだった。追い求めていたものの答え、月満草のこと、そして曾祖父テオフィールの存在。自分のことだけではない。原因不明の発作に悩まされていたクライヴにも、解決の糸口が見えたという。これほど嬉しいことがあるなんて。気づけば浅い眠りのまま朝を迎えてしまったのだ。
 瞬きを繰り返し、やがて静かに目を閉じる。瞳の上、瞼の付け根あたりから、じんわりと重く温かい熱を感じた。やがて眠気を催し、大きなあくびへと至る。ゆったりと木の葉を揺らす風の音。東から西へ、鮮やかな色彩を描く夜明けの空。瞼の内側が温かく変わり、両耳の辺りにも熱を感じる。心地がよい。思わずまどろんでしまいそう。メルリアは眠気に逆らうことができなかった。心地のよい音がなにであるかを認識できなくなるほどぼやけていく。
「メルリア?」
 そんなぼやけた音の中で、ひとつだけはっきりと聞き取れる声があった。まどろんでいた意識がゆっくりと引き戻されていく。こちらを伺うような声の主は、探るようにこちらへ近づいてくる。石造りの堅い床を踏みしめる足音は、はっきりとその場に響いた。傍らの木々で休む小鳥が、警戒して遠くへと飛び去る。
 彼はメルリア傍らに立つと、その顔をのぞき込んだ。様子を確認しようとした時、メルリアがゆっくりと目を開いた。両目に溜まっていた涙がその衝撃でぽろりと溢れ、零れていく。それは足下の灰色に濃い円を作った。
「大丈夫か!? なにかあったのか?」
 荒らげる声を耳にすると、メルリアの意識は完全に引き戻された。いつの間にか目の前に立っているクライヴは、心底辛そうにこちらを伺っていた。
「だいじょうぶ。あんまり眠れなかったから、ちょっと眠たくって」
 そう言いながら、メルリアは口に手を当てて、もう一度大きくあくびする。くしゃりと笑うと、再び両瞼から涙が流れ落ちた。
「それならいいんだけど」
 その様子を見て、あくびから出た涙と理解したクライヴは、恐る恐るといった風に安堵のため息をついた。未だ眠たそうに、しかし安心しきったように笑う彼女を見て、静かに笑みを浮かべる。
「俺もあんまり眠れなくてさ。とりあえず体を動かそうって思って屋敷の廊下をうろうろしてたら、大窓が開いてるのを見つけて……まさか、メルも同じだなんて思ってなかった。けど、そうだよな」
 いろいろなことがありすぎた――クライヴはその言葉を飲み込み、手すりに置いた右手に力を入れた。中庭に視線を向けると、月満草が蕾む瞬間が視界に飛び込む。その様子を始まりから終わりまで、息をつめて見届けた。月満草が一輪眠るたびに夜の終わりへ向かっていく。その証拠に、東方の空に朝が来た。空の帯の先に、太陽が昇っていく。その明かりは目を細めるほどに眩しい光だった。
 朝が来る。人間にとっては一日の始まりの、月夜鬼にとっては一日の終わりの時間だ。
「……もうすぐ朝が来るな」
「うん。朝が来るのは楽しみだけど、でもちょっと残念かな」
 東方の空を眺めていたメルリアが苦笑を零した。目の前に手をかざし、太陽の光を遮るように朝焼けの空を見つめる。やがて視線を外すと、今度はバルコニーの手すりに背中を預けた。まだ夜の匂いが残る西方の空を仰ぐ。たったひとつ取り残された星を見つめながら、夜を惜しむように眉を下げた。
「昔から夜は好きだったんだ。月や星が綺麗だし、静かだし、落ち着くし……。でも多分、私が夜を好きなのは、それだけじゃなくって」
 メルリアは左胸に手を置いた。自分の心臓の音がより強く聞こえる。鼓動のリズムが手のひらにも伝わってくる。その音は穏やかだった。
「『自分の血に、月夜鬼の血が流れているから』……?」
 メルリアは目を見開き、すぐ隣にいるクライヴの顔をまじまじと見つめる。普段と変わらぬ金の瞳は、空に昇る太陽と似た色をしている。
「すごい。どうして分かるの?」
「俺もさっき同じようなことを考えてたからさ。だから、メルからその言葉を聞いて驚いた」
「そっか……」
 言葉の余韻が消えると、二人は照れくさそうに笑い合った。
 やがて、メルリアはとっさに目をそらし、クライヴはわずかに視線をそらして頬をかく。なんとも言えぬ居心地の良さと、居心地の悪さ。むず痒いような、それでいてどこか嬉しいような。
 穏やかだったメルリアの胸の鼓動が徐々に乱れていく。傍らに立つクライヴの方へ、控えめな視線を向けた。東の眩しい朝焼けの予感が広がる空を、目を細めて見つめている。茶髪の先が太陽の光に照らされて、明るい金髪を思わせた。そのまま、彼の横顔をじっと見つめる。何か言いたいけれど、言葉がうまく出てこない。間もなく夜半の屋敷にも朝が来るだろう。朝焼け間際のわずかな時間が、彼女にはとても短く感じた。夜が明け、日が暮れる。どちらともあっという間に過ぎ去る時間だが、今日は特別だ。時の移り変わりがずっと早い。今までこんな風に思ったことはなかったのに。朝が来れば一日が始まる。夕刻までには旅支度を終わらせ、恐らく今夜はテオフィールとともにベラミントの村へ向かうだろう。夢が叶うこの瞬間は間もなく。早く叶ってほしい――と思う気持ちは変わらないが、この時間が終わってしまう事を惜しく感じていた。クライヴともっといろいろなことを話していたい。話をしていなくても、傍にいる時間が欲しい。今までこんな風に思ったことはなかったというのに。胸の奥に広がるしびれに、メルリアは静かに目を伏せた。
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登場人物紹介

◆登場人物一覧

┗並びは初登場順です。

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メルリア・ベル


17歳。

お人好し。困っている人は放っておけない。

祖母との叶わなかった約束を果たすため、ヴィリディアンを旅することになる。

フィリス・コールズ


16歳。

曖昧な事が嫌いで無駄を嫌う。
シーバの街で、両親と共に「みさきの家」という飲食店を経営している。

クライヴ・ローウェル


22歳。

真面目。お人好しその2。

理由あって旅をしており、メルリアとよく会う。

ネフリティス


27歳(人間換算)

都市に工房を持つエルフの錬金術師。

多少ずぼらでサバサバしている。

イリス・ゾラ


21歳。

隣国ルーフスの魔術師。闇属性。

曲がったことが嫌い。

リタ・ランズ


16歳(人間換算)

魔女の村ミスルトーで暮らしているエルフ。
アラキナのストッパー兼村一番のしっかり者。

ウェンディ・アスター


不明(20代後半くらいに見える)

街道の外れの屋敷で働くメイド。

屋敷の中で一番力が強い。

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