第78話 村の手伝い
文字数 3,428文字
魔女の村を流れる川は透き通っていた。
穏やかな木漏れ陽が、透明な水やゴツゴツと荒い岩場、傍の石や土の道を優しく照らす。木々が空を覆う川辺の一帯は、村の中でも特に涼しい場所だ。昼過ぎ、太陽がやや西に傾き始めると、広場との温度差は顕著だ。夏場はエルフ達が涼むためによく利用される。
この場所で、クライヴは苔生した岩に腰掛け、釣りをしていた。釣り竿の先――川辺に気持ちよさそうに浮かぶウキを眺める。釣り始めてからまだ十分と経たない。ウキは穏やかに川を泳ぐだけで、魚が釣れる気配はなかった。しかし、彼はそれを苦だとは思わなかった。竿を引き上げ、餌が囓られた形跡はない事を確認すると、もう一度川へ投げ入れる。
魔女の村に生息する森林アユは、例によって一般的なアユと大きく異なる特徴があった。エルフ達はアユ釣りに友釣りや練り餌は使わない。餌として使用するのは、川辺に自生している初夏キュウリである。ここのアユにとって、初夏キュウリは苔に次ぐご馳走だ。初夏キュウリは川辺の木々にツタを絡ませながら成長する習性がある。それが川へ落ち、アユ達の食事となっている。下流では歯形のついたキュウリが流れ着くことも珍しくない。そのため、森林アユは歯が鋭く、餌に食いつく力も非常に強いのだ。
クライヴは釣り竿を握りしめ、その動きに注意を向けながらも、しかしどこか穏やかな笑みを浮かべていた。川辺を吹き抜ける風は心地よい。それにより、木漏れ日の影が陽炎のように形を変えた。木々の葉が擦れ、涼やかな音を立てて川が流れてゆく。想像通り、ここでの釣りは格別だった。
濃緑の隙間から覗く青空を仰ぎ、ほっと息をつく。すると、軽やかな足音がこちらへと向かってくる。
「クライヴさん、釣りの成果はどう?」
「まだまだこれからって感じだな。メルリアの方は?」
森の奥から姿を現したメルリアは、籐のかごから一本の初夏キュウリを取り出して見せた。それは、つる植物のように実がぐるりとうねっている。初夏の濃緑を思わせる色のそれは、とげのない滑らかな表面をしていた。やはり通常のキュウリとは形状が異なった。
「立派なのが見つかったんだ。綺麗ならせん状のがおいしいんだって。これで少しは恩返しできるといいんだけど」
メルリアは初夏キュウリをそっと抱きしめると、やわらかく微笑んだ。
――昨晩のアラキナの依頼は未明までかかったという。
シャムロックが目覚めるまでの間、二人は魔女の村の手伝いをすることになった。
手伝いがしたいと申し出たのはメルリアだ。今まで世話になってばかりいたから、少しでもエルフの人たちにお返しがしたい、と。クライヴもその提案に賛同した。無論、彼にも恩返しがしたい気持ちもあったが、十分熱が下がったとはいえ、病み上がりのメルリアをそのままするのはいささか心配だったのである。
二人は、先日の薬の件で消費した森林アユ、初夏キュウリの在庫を調達するよう頼まれた。釣りの経験があるクライヴは森林アユを、メルリアは初夏キュウリの収穫へと回ったのだった。
クライヴは竿を引き上げると、ゆっくりと立ち上がる。針の先には先ほどと変わらぬ初夏キュウリが青々と存在を主張し、綺麗な形を保っている。この辺りにはアユ自体がいないのかもしれない。十分に水を張った銅のバケツを手に取り、息をついた。
「もう少し上流の方に行こうと思うけど、メルリアはどうする?」
「そうだね、私も場所を変えた方がいいかな。一緒に行っていい?」
そう言われてしまったら断る理由はない。むしろその返答にほっと息を吐いてから、彼はぎこちなく笑ってうなずいた。
バケツの水がクライヴの歩みに会わせ波紋を作る。ぽちゃりと音を立て、跳ねた水が足下を濡らした。上流へ向かうほど川の流れは速く激しく変わるが、水質はより純度を増していく。太陽の光を確かに反射する透き通った川。そこから顔を覗かせる岩岩やくすんだ苔色。人が立ち入ってはならぬような、ある種神聖な空気に、クライヴの背筋が伸びた。
「……クライヴさん、体調、大丈夫?」
そんな中、メルリアが不安げにクライヴの表情を窺った。
「ああ、大丈夫だ」
その声を聞くと、メルリアは気の抜けたように安心した表情を見せる。
クライヴは安心すると共に、どこか嬉しいと感じている自分に気づいた。どこか落ち着かないと、肩で頬を擦った。細かい石を踏みしめていた足の感触が代わり、思わずよろけそうになる。足下と目の前を交互に見比べ、注意深く歩を進めた。
……今朝は大丈夫だった。発作があったにもかかわらず、あんな爽やかな目覚めは今まで経験したことがない。発作の翌日は、渇きが収まれど体のだるさが残るし、まれに頭痛や目眩を伴う。けれど、今朝はそれらが全くなかった。ほどよく運動をして、すんなりと眠りに入った日の翌朝のように――あれがあったというのに、信じられないくらい体調がいい。未だに現実が受け入れられなかった。昨晩の出来事が夢ではないかと何度も頬を叩いたほどに。
「俺の体調のこと……は、シャムロックが全部知っているらしい」
半ば吐き捨てるように言う。
信頼できるか否かはまだ少し計りかねるが、一晩経った今は話を聞こうとは思えた。けれど、全てを知っているように振る舞う部分がどうしても引っかかる。男の言葉が見当外れだった時、傷つかなくて済むように。自分を期待させないように――と、弱々しく口にするが、隣に立つメルリアは違った。
「クライヴさんも?」
彼の隣を歩くメルリアは、目を輝かせながら尋ねた。彼がぎこちなく頷くのを見るなり、ほっと安堵する。
「そっか。シャムロックさんなら安心だね」
メルリアは屈託のない晴れ晴れとした笑みを浮かべた。
やがてこちらにも眩しい表情が向くが、素直に受け取ることができない。口を開こうとするが、何度も何度も開きかけた口を閉ざす。どう伝えれば彼女を傷つけずに済むかひたすらに考えていた。どうしてだと問いただすのは角が立つだろう、なぜ信用できると尋ねたら、自分が信じていないことが筒抜けになるし――。逡巡の後、頭の中で使えそうな単語が浮かぶや否や、すぐさまそれを口にする。
「メルリアが、いい人だって思う理由……安心できる理由って、教えてくれないか?」
たどたどしい問いかけに、メルリアはううん、と考え込む。その表情は少し難しいものへと変わったが、声のトーンや、彼女の持つ雰囲気は特別変わらない。気分を害していないことの証拠だった。
「優しい感じもそうだけど……」
メルリアは顔を上げる。優しく穏やかな木々の緑に目を細めながら、昨晩のことを回想した。
久しぶりに再開したシャムロックは、あの日と全く変わっていなかった。こちらへ向けた表情や声色も柔らかいままだし、自分を気遣う様子も以前見た通り。どこか傍にいると落ち着くような安心感はあるが、それを言っても伝わらない気がする。何か――悩んでいると、頭の中に四つ折りのメモ書きが浮かんだ。記憶の中でそれをゆっくりと広げ、今手元にあるように記憶の中でそれを見た。……あの言葉だ。
「最初にシャムロックさんと会ったのは、突然雨が降り始めた夕方のことで――」
メルリアは、シャノワールでの出来事の詳細をクライヴに伝えた。
雨の日、エルヴィーラのこと、シャノワールという喫茶店、ずぶ濡れでエルヴィーラを捜し回っていたシャムロック――。あの日を正確に思い浮かべながら、メルリアは順を追って話した。寸分の狂いもない正しい記憶だ。時間をなぞるように、あの時見たものをかみしめるように目を伏せた。エルヴィーラを見て心底安心した、あの優しい表情を。
「――それって、一生懸命エルヴィーラさんを探してたって事だよね。初めて会ったのはその時だけど、エルヴィーラさんのことがとっても大切なんだって思ったんだ。だからかな」
メルリアはゆっくり目を開く。森の木漏れ陽は穏やかに、瞼を開いたばかりの視界にも優しく馴染んだ。生命力溢れる青々とした木々に、傍らの川の流れを耳で感じる。森の澄んだ空気を肺いっぱいに取り込むと、体中が活気に満ちあふれるような気がした。
「そうか……」
クライヴはぎこちない笑みを浮かべた。隣を歩くメルリアは、晴れ晴れとしたよい表情をしている。疑いのない真っ直ぐな瞳は、彼の心に薄い影を落とした。自分が間違っているような錯覚に陥るが、お互いに間違いはないのだと言い聞かせた。
穏やかな木漏れ陽が、透明な水やゴツゴツと荒い岩場、傍の石や土の道を優しく照らす。木々が空を覆う川辺の一帯は、村の中でも特に涼しい場所だ。昼過ぎ、太陽がやや西に傾き始めると、広場との温度差は顕著だ。夏場はエルフ達が涼むためによく利用される。
この場所で、クライヴは苔生した岩に腰掛け、釣りをしていた。釣り竿の先――川辺に気持ちよさそうに浮かぶウキを眺める。釣り始めてからまだ十分と経たない。ウキは穏やかに川を泳ぐだけで、魚が釣れる気配はなかった。しかし、彼はそれを苦だとは思わなかった。竿を引き上げ、餌が囓られた形跡はない事を確認すると、もう一度川へ投げ入れる。
魔女の村に生息する森林アユは、例によって一般的なアユと大きく異なる特徴があった。エルフ達はアユ釣りに友釣りや練り餌は使わない。餌として使用するのは、川辺に自生している初夏キュウリである。ここのアユにとって、初夏キュウリは苔に次ぐご馳走だ。初夏キュウリは川辺の木々にツタを絡ませながら成長する習性がある。それが川へ落ち、アユ達の食事となっている。下流では歯形のついたキュウリが流れ着くことも珍しくない。そのため、森林アユは歯が鋭く、餌に食いつく力も非常に強いのだ。
クライヴは釣り竿を握りしめ、その動きに注意を向けながらも、しかしどこか穏やかな笑みを浮かべていた。川辺を吹き抜ける風は心地よい。それにより、木漏れ日の影が陽炎のように形を変えた。木々の葉が擦れ、涼やかな音を立てて川が流れてゆく。想像通り、ここでの釣りは格別だった。
濃緑の隙間から覗く青空を仰ぎ、ほっと息をつく。すると、軽やかな足音がこちらへと向かってくる。
「クライヴさん、釣りの成果はどう?」
「まだまだこれからって感じだな。メルリアの方は?」
森の奥から姿を現したメルリアは、籐のかごから一本の初夏キュウリを取り出して見せた。それは、つる植物のように実がぐるりとうねっている。初夏の濃緑を思わせる色のそれは、とげのない滑らかな表面をしていた。やはり通常のキュウリとは形状が異なった。
「立派なのが見つかったんだ。綺麗ならせん状のがおいしいんだって。これで少しは恩返しできるといいんだけど」
メルリアは初夏キュウリをそっと抱きしめると、やわらかく微笑んだ。
――昨晩のアラキナの依頼は未明までかかったという。
シャムロックが目覚めるまでの間、二人は魔女の村の手伝いをすることになった。
手伝いがしたいと申し出たのはメルリアだ。今まで世話になってばかりいたから、少しでもエルフの人たちにお返しがしたい、と。クライヴもその提案に賛同した。無論、彼にも恩返しがしたい気持ちもあったが、十分熱が下がったとはいえ、病み上がりのメルリアをそのままするのはいささか心配だったのである。
二人は、先日の薬の件で消費した森林アユ、初夏キュウリの在庫を調達するよう頼まれた。釣りの経験があるクライヴは森林アユを、メルリアは初夏キュウリの収穫へと回ったのだった。
クライヴは竿を引き上げると、ゆっくりと立ち上がる。針の先には先ほどと変わらぬ初夏キュウリが青々と存在を主張し、綺麗な形を保っている。この辺りにはアユ自体がいないのかもしれない。十分に水を張った銅のバケツを手に取り、息をついた。
「もう少し上流の方に行こうと思うけど、メルリアはどうする?」
「そうだね、私も場所を変えた方がいいかな。一緒に行っていい?」
そう言われてしまったら断る理由はない。むしろその返答にほっと息を吐いてから、彼はぎこちなく笑ってうなずいた。
バケツの水がクライヴの歩みに会わせ波紋を作る。ぽちゃりと音を立て、跳ねた水が足下を濡らした。上流へ向かうほど川の流れは速く激しく変わるが、水質はより純度を増していく。太陽の光を確かに反射する透き通った川。そこから顔を覗かせる岩岩やくすんだ苔色。人が立ち入ってはならぬような、ある種神聖な空気に、クライヴの背筋が伸びた。
「……クライヴさん、体調、大丈夫?」
そんな中、メルリアが不安げにクライヴの表情を窺った。
「ああ、大丈夫だ」
その声を聞くと、メルリアは気の抜けたように安心した表情を見せる。
クライヴは安心すると共に、どこか嬉しいと感じている自分に気づいた。どこか落ち着かないと、肩で頬を擦った。細かい石を踏みしめていた足の感触が代わり、思わずよろけそうになる。足下と目の前を交互に見比べ、注意深く歩を進めた。
……今朝は大丈夫だった。発作があったにもかかわらず、あんな爽やかな目覚めは今まで経験したことがない。発作の翌日は、渇きが収まれど体のだるさが残るし、まれに頭痛や目眩を伴う。けれど、今朝はそれらが全くなかった。ほどよく運動をして、すんなりと眠りに入った日の翌朝のように――あれがあったというのに、信じられないくらい体調がいい。未だに現実が受け入れられなかった。昨晩の出来事が夢ではないかと何度も頬を叩いたほどに。
「俺の体調のこと……は、シャムロックが全部知っているらしい」
半ば吐き捨てるように言う。
信頼できるか否かはまだ少し計りかねるが、一晩経った今は話を聞こうとは思えた。けれど、全てを知っているように振る舞う部分がどうしても引っかかる。男の言葉が見当外れだった時、傷つかなくて済むように。自分を期待させないように――と、弱々しく口にするが、隣に立つメルリアは違った。
「クライヴさんも?」
彼の隣を歩くメルリアは、目を輝かせながら尋ねた。彼がぎこちなく頷くのを見るなり、ほっと安堵する。
「そっか。シャムロックさんなら安心だね」
メルリアは屈託のない晴れ晴れとした笑みを浮かべた。
やがてこちらにも眩しい表情が向くが、素直に受け取ることができない。口を開こうとするが、何度も何度も開きかけた口を閉ざす。どう伝えれば彼女を傷つけずに済むかひたすらに考えていた。どうしてだと問いただすのは角が立つだろう、なぜ信用できると尋ねたら、自分が信じていないことが筒抜けになるし――。逡巡の後、頭の中で使えそうな単語が浮かぶや否や、すぐさまそれを口にする。
「メルリアが、いい人だって思う理由……安心できる理由って、教えてくれないか?」
たどたどしい問いかけに、メルリアはううん、と考え込む。その表情は少し難しいものへと変わったが、声のトーンや、彼女の持つ雰囲気は特別変わらない。気分を害していないことの証拠だった。
「優しい感じもそうだけど……」
メルリアは顔を上げる。優しく穏やかな木々の緑に目を細めながら、昨晩のことを回想した。
久しぶりに再開したシャムロックは、あの日と全く変わっていなかった。こちらへ向けた表情や声色も柔らかいままだし、自分を気遣う様子も以前見た通り。どこか傍にいると落ち着くような安心感はあるが、それを言っても伝わらない気がする。何か――悩んでいると、頭の中に四つ折りのメモ書きが浮かんだ。記憶の中でそれをゆっくりと広げ、今手元にあるように記憶の中でそれを見た。……あの言葉だ。
「最初にシャムロックさんと会ったのは、突然雨が降り始めた夕方のことで――」
メルリアは、シャノワールでの出来事の詳細をクライヴに伝えた。
雨の日、エルヴィーラのこと、シャノワールという喫茶店、ずぶ濡れでエルヴィーラを捜し回っていたシャムロック――。あの日を正確に思い浮かべながら、メルリアは順を追って話した。寸分の狂いもない正しい記憶だ。時間をなぞるように、あの時見たものをかみしめるように目を伏せた。エルヴィーラを見て心底安心した、あの優しい表情を。
「――それって、一生懸命エルヴィーラさんを探してたって事だよね。初めて会ったのはその時だけど、エルヴィーラさんのことがとっても大切なんだって思ったんだ。だからかな」
メルリアはゆっくり目を開く。森の木漏れ陽は穏やかに、瞼を開いたばかりの視界にも優しく馴染んだ。生命力溢れる青々とした木々に、傍らの川の流れを耳で感じる。森の澄んだ空気を肺いっぱいに取り込むと、体中が活気に満ちあふれるような気がした。
「そうか……」
クライヴはぎこちない笑みを浮かべた。隣を歩くメルリアは、晴れ晴れとしたよい表情をしている。疑いのない真っ直ぐな瞳は、彼の心に薄い影を落とした。自分が間違っているような錯覚に陥るが、お互いに間違いはないのだと言い聞かせた。