第94話 約束のこと1

文字数 5,006文字

 メルリアはそのまま部屋から飛び出すと、記憶を頼りにエントランスへ戻ってきた。石造りの冷たい床に、光のない空間。目には何も映らない。頼れるものは己の記憶だけ。
 エントランスの中央へ至ると、軽やかな靴音がぴたりと止まる。しまった、とメルリアは肩を落とした。飛び出してきたまではよかったものの、クライヴが今どこの部屋にいるのか知らない。一階のどこかの部屋であることは確かだが、まさか勝手に部屋をひとつひとつ確認するわけにはいかない。どうするべきかと悩んでいると、視界に見慣れた白い光が現れた。それは進むべき道の中央へ、標のように落とされる。その数十センチ上には、月満草の光を反射する二つの丸がある。動物の目だ。
「乙夜鴉……、さん?」
 暗闇に向けて問いかけると、そこから低く渋い声色が響く。すっかり聞き慣れたその音は、乙夜鴉の鳴き声に違いない。音の余韻が消えぬまま、鴉は地面に落とした月満草をくわえた。
 乙夜鴉はメルリアが部屋から飛び出したのを見るなり、自分の判断で彼女を追った。主人が特別これだと指示を下さずとも、自主的に判断しきちんと仕事をこなす。使用人の鏡であった。
 漆黒の姿は夜の闇に紛れているが、嘴から顔のあたりは辛うじて見える。メルリアはその瞳を見つめた。彼は人の言葉を理解している。今度こそ躊躇わなかった。
「クライヴさんの……ウェンディさんが行くって言ってた場所に連れて行ってくれる?」
 返事の代わりに、乙夜鴉は翼を大きく広げた。そのまま廊下の奥の闇へと飛び立っていく。くわえた月満草からは光が漏れ、鴉の行く軌跡を描いていく。光が闇に溶けきる前に、その軌道を追った。


 中庭へ続く道を横切り、そこから扉を四つほど通り過ぎたところで、乙夜鴉はゆっくりと羽根を下ろす。扉の脇に月満草を落とすと、こちらへ向かうメルリアの様子をじっと見つめていた。
 メルリアは扉の前に立つと、傍らで待機する乙夜鴉へ笑顔を向ける。
「ありがとう。このお部屋でいいんだね?」
 木製の扉を指さすが、乙夜鴉はその言葉に同意も否定もしない。代わりに、くちばしを扉へ数度押し当てた。トントントン、と軽やかな音が響く。キツツキが樹木を叩くそれとよく似ていた。
 突然の音に、メルリアの肩が跳ねた。乙夜鴉が立ち尽くす左下へと視線を向ける。月満草に照らされた足下や腹部はよく見えるが、肝心の顔の部分は闇に紛れてよく見えない。どうしたのだろうか、と彼に手を伸ばそうとした時、鴉は月満草をくわえて羽を広げる。扉から十分に距離を取ったその時、部屋の扉がゆっくり押し開かれた。メルリアもそれに合わせて数歩後ずさる。
「メルリア様ですか」
 扉の中から現れたのはウェンディだった。彼女は扉の奥で待機する乙夜鴉に視線を向ける。右側の翼を大きく広げ、右隣に立つメルリアを見るよう主人に促した。
 やがて彼女たちの視線が合うと、メルリアは慌てて頭を下げた。顔を上げてウェンディの表情を窺うが、扉を開けたところでその表情は薄暗く、読み取りづらい。彼女には影が落ちていた。部屋の光源は、その背後に見え隠れする室内灯だろう。かろうじて、明かりを散布させるような装飾が視界に映った。
「あの、クライヴさんにお話があって……こちらにいらっしゃいますか?」
 扉の前に立つウェンディの表情は変わらない。それがメルリアの不安を加速させた。
 おずおずとした彼女を見て、ウェンディは表情を崩す。口元に笑みを浮かべると、ひとつ頷いた。ほっと胸をなで下ろすメルリアを横目に、扉の奥へ視線を向ける。声を出さずに部屋の主と会話し、道を空けた。
「どうぞ、お入りください」
 深い一礼をするウェンディにメルリアも慌てて頭を下げると、部屋の中に足を踏み入れた。
 室内は広々としていた。先ほど通された場所よりも二回りほど広い程度であったが、家具が少ない分、随分と広いように感じる。ここでもやはりカーテンは開きっぱなし。アーチ窓から降り注ぐ月明かりを、余すことなく部屋に取り込んでいた。傍らには少し広めの飾り棚。右方に寄せられたソファには、シャムロックとクライヴが向かい合って座っていた。
 よく知る茶髪の背中に気づき、メルリアはほっとした。そちらへ向かってゆっくりと歩いて行くと、険しい表情を浮かべたシャムロックの顔が視界に入り、思わず歩を止めてしまう。この位置からクライヴの表情は見えない。話の邪魔だっただろうか、今来るべきではなかっただろうか――そんな不安が脳内を巡る。どうするべきかと、彼女の表情が次第に陰っていった。自然と肩を落としたその時、シャムロックは気難しい表情を崩した。
「話はあらかた済んだよ」
 場の空気を変えるように優しい声で、シャムロックは微笑した。
 その声に、メルリアはまた一歩、一歩と二人の方へ近づいていく。しかし人二人分の距離を開けた途端、その歩みは止まってしまった。もう一度確認した方がいいだろうかと迷っていると、背を向けていたクライヴがこちらを見た。すぐ近くにメルリアがいると知ると、彼は驚きで目を見開く。
「メル……?!」
「クライヴさん、話があるの」
 メルリアはさらに距離を詰めるが、クライヴは落ち着かない様子で、何か言わねばと視線を泳がせた。薄ぼんやりとした飾り棚の焦げ茶や、ハンガースタンドに止まる乙夜鴉。足下に置かれた月満草の仄かな光。それらの刺激を目が受け取るが、脳は、感情は特にそれらを処理せずに過ぎ去っていく。見慣れた長髪が視界に入ると、クライヴは顔を上げた。彼女の青い瞳は力強く、クライヴとは対照的に真っ直ぐだ。
「隣、いい?」
「あ、ああ」
 肩を強ばらせ、クライヴはぎこちなく頷いた。
 クライヴは左側に寄り、慎重にソファに腰掛けた。ここのソファは特別柔らかい。先ほどは、抱え上げられた子供のようにソファに沈み込んでしまった。同じ失態を二度も繰り返すわけにはいかない。力加減を理解した彼は、今度こそまともにソファに腰掛ける。違った意味の緊張のひとつから解放され、息をついた。
 メルリアはクライヴが腰掛けたのを見た後、空いた右側のスペースに腰を下ろす。想像以上の柔らかな感触に驚いたが、先のクライヴのようにソファに飲み込まれることはなかった。右手をソファの上に置くと、弾力を確かめるように何度か指を沈ませる。ふわりと手のひらに返ってくる感触に、メルリアは思わず目を輝かせそうになった――が、今はそういう場合ではない。その手を膝に置くと、すぐ隣のクライヴの瞳をじっと見つめた。
「この間の……宿で約束のことなんだけれど」
 宿の約束。つまり、共にグローカスの街を見て回ろうと約束した話だ。それを理解した途端、ただでさえ乱れているクライヴの鼓動がさらに早く変わっていく。その日に対する期待と、何かあったのだろうかという心配と、断られるのかもしれないという恐れ。頭の中が混乱し、どうにかなりそうだったが、クライヴは平然を装った。
 ガラスのテーブルの上に、新しいティーカップとティーソーサーが用意される。ウェンディは手早く紅茶を注ぐと、それをメルリアにと差し出した。傍らには角砂糖の入った瓶を置く。メルリアはありがとうございますと頭を下げた後、再びクライヴに向き合った。
「あのね。少しだけ、延期してもらってもいい?」
「構わない、けど、どうした?」
 クライヴはメルリアを安心させるよう、気遣って笑みを浮かべたが、その表情はやはりどこか固まっていた。
 やはりどこか気を悪くさせてしまっただろうか、とメルリアは俯きがちに切り出す。
「エントランスで別れた後のことなんだけど――」
 メルリアは別れた後の出来事をひとつずつ説明した。
 エントランスで別れた後、向かった部屋の先にいたのは自分の曾祖父だったこと。曾祖父は月夜鬼だったこと。自分と八年前一緒に暮らしていたことがあったが、その時は血縁も種族も知らなかったこと。曾祖父と祖母の話をしたこと、月満草の話をしたこと。そして、曾祖父と共にベラミントへ墓参りへ行くことになったこと――。
 メルリアは先ほどまでの会話を要約しながら、ひとつひとつ丁寧に伝えた。自分が言った言葉も、テオフィールから聞いた言葉も、何一つ違いはない。
「――私も、できることなら今行ってあげたいなって思ったんだ」
 メルリアは喉を潤そうと、用意された紅茶に手を伸ばした。紅茶を正しく味わうには随分と低い温度だったが、今の彼女にはぬるいくらいがちょうどいい。渇いた口を紅茶で潤すと、メルリアは静かにティーカップをソーサーに置いた。陶器のぶつかる高い音が控えめに響く。白い小花の装飾に目をやり、一つ息をついた。今の彼女は、どうしてもその色を月満草と重ねてしまう。
「分かった。俺のことは気にしなくていいから、行ってこい」
 すぐ隣から聞こえる明るい声に、メルリアは顔を上げた。彼女の瞳は、喜びと、けれどほんの少し罪悪感のある色をしている。その青色を見かねて、クライヴは続ける。
「……俺も、まず先に家に帰らないといけないからさ。家族に説明しないと」
 メルリアはクライヴの言葉にはっとした。自分は身よりのない人間だったが、クライヴには帰るべき家があるし、帰りを待つ家族がいるのだ。その言葉を聞いた彼女は、今度こそ否定の言葉を口にしなかった。
「夢だったんだろ? だったら、早く行った方がいいよ」
 最後に申し分程度に自分の気持ちを伝えると、クライヴはテーブルにあるティーカップに目を向けた。ティーカップの内側は白く、底に茶色をわずかに残すのみ。飲み干した後だった。それを見かね、ウェンディが早々に新しい紅茶を注ぐ。ティーポットから注がれたそれは華やかな香りをもたらした。白い湯気が揺らぎながら一本の筋を描いていく。
 ベラミントの村とグローカスの街はほぼ隣同士だ。ベラミントの土地が山の中にあり、またグローカスがそこそこ広い分、お互い行き来するには少し時間が必要になるか――頭の中で道筋や手順を反すうした。
「お墓参りに行ったら、すぐ戻ってくるからね」
「せっかく帰るんだ、ゆっくりなくていいのか?」
 メルリアは肯定の意味とも否定の意味とも取れる様子で頷くと、困ったように笑った。
 彼女はそもそも、何年もあの村を留守にするつもりで旅に出たのだ。蓋を開けてみれば一年も経たなかったが、当時はそんなことを知るよしもない。エプリ食堂のグエラ夫妻にはとても世話になった。花が見つかったとなれば挨拶に行くべきであろう。しかし、自分が無理を言ってテオフィールを誘った以上、わがままで長居はできない。
 ……それに、墓参りの後長居をしてしまったら、動けなくなってしまう気がした。
 ふと浮かんだ感情を、唇を噛んで押し殺す。メルリアが顔を上げると、コーヒーの匂いが漂ってきた。どこか落ち着く香りだ。いつの間に用意したのか、ウェンディがシャムロックにコーヒーを差し出していた。どうぞと静かに差し出す様子をぼんやり見ていると、ウェンディとメルリアの視線が合う。
「メルリア様、ベラミントに向かわれた後のご予定は?」
「えぇっと……」
 ベラミントから戻って来た後は、クライヴの案内でグローカスの街を回る約束がある。しかし、それだけ。それ以上は判らない。決まっていなかったし、見つかっていなかった。ミスルトーで問いかけられたあの日から、何も。あれ以来、先のことを全く考えなかったわけではない。考えなければならないと理解しつつも、何も分からなかった。今までは祖母との約束のために生きてきて、自分の人生など二の次だった。したいことも、やりたいことも、よく分からない。
「まだ……考えて、ないです」
「そうですか。それはさておき、ご帰宅後にお話がありますので」
 震える声でつぶやいたが、ウェンディの表情が変わることはなかった。貶むでも非難するでもない。眉一つあげず笑顔一つ作らず、何を考えているのか分からない表情で、淡々としていた。どうして問いかけられたのか、その意図もくみ取れない。
 メルリアは辛うじて言葉を聞いたという意味での返事をし、こちらに背を向けるウェンディの背中を目で追う。
「メルリア、あまり考えすぎる必要はない」
 陶器のぶつかる音なくシャムロックはティーカップを手に取る。
 そっと寄せられた言葉に、メルリアは遠慮がちな笑みを浮かべた。
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登場人物紹介

◆登場人物一覧

┗並びは初登場順です。

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メルリア・ベル


17歳。

お人好し。困っている人は放っておけない。

祖母との叶わなかった約束を果たすため、ヴィリディアンを旅することになる。

フィリス・コールズ


16歳。

曖昧な事が嫌いで無駄を嫌う。
シーバの街で、両親と共に「みさきの家」という飲食店を経営している。

クライヴ・シーウェル


22歳。

真面目。お人好しその2。

理由あって旅をしており、メルリアとよく会う。

ネフリティス


27歳(人間換算)

都市に工房を持つエルフの錬金術師。

多少ずぼらでサバサバしている。

イリス・ゾラ


21歳。

隣国ルーフスの魔術師。闇属性。

曲がったことが嫌い。

リタ・ランズ


16歳(人間換算)

魔女の村ミスルトーで暮らしているエルフ。
アラキナのストッパー兼村一番のしっかり者。

ウェンディ・アスター


不明(20代後半くらいに見える)

街道の外れの屋敷で働くメイド。

屋敷の中で一番力が強い。

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