第24話 陰雨に愁う1
文字数 2,890文字
メルリアは来る日も来る日も図書館に通った。
図鑑のすべてのページに目を通し、少しでも記憶の中の特徴と似た花を見つければ、花の名前、図鑑のタイトル、該当ページ数をメモに残した。その際、どこがあの花に近いかと注釈を書き記すのも忘れない。些細な情報も見逃さぬよう、目を光らせる。
それぞれの図鑑は一見同じように思えるが、やはり細部がどこか異なる。例えば、絵の雰囲気。図鑑それぞれで絵のタッチが異なる。解説もそうだ。言い回しやクローズアップする内容も少しずつ異なっていた。
あの花の情報を何も知らないメルリアは、わずかな違いでも大きな手がかりになると考える。前の図鑑で読み込んだ花でも、一ページ一ページ丁寧に目を通した。
あれから十日。
図書館にある花の図鑑にほとんど目を通したメルリアだったが、未だに肝心の情報にはたどり着けずにいる。メモ用にと買っておいたノートは、ページのほとんどを使い切ってしまった。完全な白紙は、三ページしか残っていない。
ヴェルディグリの空から太陽の光がこぼれた。
実に十日ぶりの晴れ間である。
図書館に缶詰状態だったメルリアは、水を失った草花のようにしおれていた。久々に浴びる太陽の光をまぶしすぎると思うほど、彼女は疲れ果てている。
住宅街の家々には、たまった洗濯物が大量に干されていた。風にあおられシャツやズボンがはためく。太陽の光を受けたシーツの白色が眩しい。夕方からはまた雨が降るというとの予報が出ており、今の時間帯は貴重だった。
メルリアは夕方のために傘を持ち、ヴェルディグリの街を行く当てもなくさまよっていた。本当は、今日も図書館に足を運びたいところだ。しかし、これ以上体を動かさないとだめになってしまう。後頭部の鈍痛の原因が、本の読み過ぎだとは気づかなかったが。
ヴェルディグリには人口に比例し、様々な種類の店が多くあった。
都市部に近い場所では外食店が多く、レストランや喫茶店、バーなどが建ち並ぶ。住宅街に近くなればなるほど、食料雑貨店やベーカリー、服飾店、宝石店、骨董品店などが目立った。
カラカラと店の看板が風で音を立てる。子供連れの親子がレストランに入る姿、身なりのいい女性が黒いバッグを手に提げ宝石店を後にする様子、都市の見回りを行う衛兵の姿――今日一日、メルリアはぼうっと街を回りながら色々な景色や人のあり方を目にした。足の刺激が、音の刺激が、光の刺激が、干物状態のメルリアを元へと戻していく。
半ば魂が抜けた状態のメルリアが我に返ったのは、灰色の雲が再びヴェルディグリを覆った時だ。
太陽の熱を受けた温かい風が、雲に遮られ冷たい空気を含んだ風へと変わっていく。急激な温度変化に気づいたメルリアは空を見上げた。ここ最近ヴィリディアンの空を覆っていた黒い雲が、再び空を埋め尽くしている。また土砂降りだろうか。メルリアは手にした傘を握りしめ、大通りへ向かう。あの噴水広場まで出れば、宿までの道が確実に分かるからだ。
メルリアの頬に冷たい雫が落ちる。続いて額、左手の甲。雨だ。音もなく降り始めた雨が、やがてしとしとと音を立て、乾いたばかりの石の道を濡らしていく。ヴェルディグリにまた雨がやってきた。
メルリアは傘を差し、急ぎ足で噴水広場へ向かう。
「急がないと……!」
傘を持たず慌てて走り去る人物と何度かすれ違い、メルリアは広場にたどり着いた。
案内板を探すべく、周囲を見回すと、ベンチに人影を見つける。
この雨の中、人が座っている? 疑問に思ったメルリアは、そちらに視線を向けた。
そこにいたのは、一人の女だった。闇に溶けるような真っ黒な服装に、ふんわりと癖のあるセミロングの髪。ベンチに深く腰掛け、静かに目を閉じている。雨に気づいていないかのように、微動だにしない。端から見れば眠っているようにすら思えた。
メルリアは女を見つけた途端、胸の奥がじんわりと痺れるような懐かしさを覚えた。女に駆け寄ると、手にした傘をそちらへと傾ける。女の体に薄い影が落ちた時、女はゆっくりと目を開く。瞼からのぞいた瞳が、静かにメルリアを捉えた。
「雨、降ってきましたよ。大丈夫ですか?」
「そうね……」
女は、メルリアの背後に広がる空を見つめる。濃い灰色が広がっていた。
「今晩はひどい雨になりそう」
水滴が傘の骨をつたってぽたぽたと落ちていく。その雫を気だるげに目で追った後、女は再び目を閉じた。
……間違いない、あの人だ!
メルリアは今の会話で確信する。この女は、エピナールの湖で一緒に月を見た女だと。
再び、あの時感じた不思議と懐かしい感覚が、メルリアの胸の内に広がっていく。理由は分からないが、メルリアはそれを嬉しく思った。
しかし、それを今口にするのは憚られる。彼女が捉えどころのない人物である事は理解しているが、今日は気分が沈んでいるように見えたからだ。
メルリアがどう声をかけるべきか悩んでいると、雨音を聞くように目を閉じていた女が、再び目を開く。真紅の瞳が悪戯に揺れた。
「あなた、これから用事は?」
「この後は特にありませんけれど……」
女はフッと笑って立ち上がる。女の髪に零れた雨の雫が風で跳ねた。
「決まりね。ついてきて」
女は微笑む。つかの間、メルリアの左手を握り、何も言わずに駆け出した。
「あっ、あのっ……!?」
メルリアの制止の声が雨にかき消されたかのように、女は振り返らない。
そのまま、二人は走り抜けるようにヴェルディグリを回った。
午前中、住宅街の家々に干されていたまぶしすぎるほどの白いシーツの数々は今やほとんど姿を消し、取り込まれなかった洗濯物が雨を吸って寂しそうに揺れている。メルリアが朝通ったパン屋の前――つい立ち止まってしまうほど香ばしい香りは、雨にすべて流されてしまった。昼、行列を成していたレストランの前には人がいない。飲食店の看板が風が揺れる音はどこか控えめだ。警備に回る衛兵の鎧が雨に濡れ、湿気を鬱陶しそうに、言葉にならない呻き声を上げる。
女がどこを目指しているのか分からない。まるで気まぐれな猫のように、ヴェルディグリの街をぐるぐると回る。メルリアはただただ翻弄されるだけだった。
同じ都市でも、午前と午後、晴れと雨でここまで違った印象を受けるものなのか。メルリアは女の方に一生懸命に傘を傾けながらも、ヴェルディグリの景色に驚いていた。数時間前の景色がまるで夢のような――もしくは今見ている景色が夢なのではないかという感覚に襲われる。
そんな建物を通り過ぎ、二人はやがて画家や彫刻師の工房が立ち並ぶ区域にたどり着く。今まで立ち入ったことのない区画に、メルリアは周囲を不思議そうに見渡しながら、女の後ろについていく。
女はこぢんまりとした店の入り口で立ち止まると、木製の扉をゆっくりと引く。湿気を含んだカランという音にメルリアが顔を上げると、店の脇には猫の顔を模った黒い看板が揺れていた。そこには、白い文字でシャノワールと書かれている。
女は手を離し、店の中へと入っていく。メルリアも傘を閉じてから、彼女に続いた。
図鑑のすべてのページに目を通し、少しでも記憶の中の特徴と似た花を見つければ、花の名前、図鑑のタイトル、該当ページ数をメモに残した。その際、どこがあの花に近いかと注釈を書き記すのも忘れない。些細な情報も見逃さぬよう、目を光らせる。
それぞれの図鑑は一見同じように思えるが、やはり細部がどこか異なる。例えば、絵の雰囲気。図鑑それぞれで絵のタッチが異なる。解説もそうだ。言い回しやクローズアップする内容も少しずつ異なっていた。
あの花の情報を何も知らないメルリアは、わずかな違いでも大きな手がかりになると考える。前の図鑑で読み込んだ花でも、一ページ一ページ丁寧に目を通した。
あれから十日。
図書館にある花の図鑑にほとんど目を通したメルリアだったが、未だに肝心の情報にはたどり着けずにいる。メモ用にと買っておいたノートは、ページのほとんどを使い切ってしまった。完全な白紙は、三ページしか残っていない。
ヴェルディグリの空から太陽の光がこぼれた。
実に十日ぶりの晴れ間である。
図書館に缶詰状態だったメルリアは、水を失った草花のようにしおれていた。久々に浴びる太陽の光をまぶしすぎると思うほど、彼女は疲れ果てている。
住宅街の家々には、たまった洗濯物が大量に干されていた。風にあおられシャツやズボンがはためく。太陽の光を受けたシーツの白色が眩しい。夕方からはまた雨が降るというとの予報が出ており、今の時間帯は貴重だった。
メルリアは夕方のために傘を持ち、ヴェルディグリの街を行く当てもなくさまよっていた。本当は、今日も図書館に足を運びたいところだ。しかし、これ以上体を動かさないとだめになってしまう。後頭部の鈍痛の原因が、本の読み過ぎだとは気づかなかったが。
ヴェルディグリには人口に比例し、様々な種類の店が多くあった。
都市部に近い場所では外食店が多く、レストランや喫茶店、バーなどが建ち並ぶ。住宅街に近くなればなるほど、食料雑貨店やベーカリー、服飾店、宝石店、骨董品店などが目立った。
カラカラと店の看板が風で音を立てる。子供連れの親子がレストランに入る姿、身なりのいい女性が黒いバッグを手に提げ宝石店を後にする様子、都市の見回りを行う衛兵の姿――今日一日、メルリアはぼうっと街を回りながら色々な景色や人のあり方を目にした。足の刺激が、音の刺激が、光の刺激が、干物状態のメルリアを元へと戻していく。
半ば魂が抜けた状態のメルリアが我に返ったのは、灰色の雲が再びヴェルディグリを覆った時だ。
太陽の熱を受けた温かい風が、雲に遮られ冷たい空気を含んだ風へと変わっていく。急激な温度変化に気づいたメルリアは空を見上げた。ここ最近ヴィリディアンの空を覆っていた黒い雲が、再び空を埋め尽くしている。また土砂降りだろうか。メルリアは手にした傘を握りしめ、大通りへ向かう。あの噴水広場まで出れば、宿までの道が確実に分かるからだ。
メルリアの頬に冷たい雫が落ちる。続いて額、左手の甲。雨だ。音もなく降り始めた雨が、やがてしとしとと音を立て、乾いたばかりの石の道を濡らしていく。ヴェルディグリにまた雨がやってきた。
メルリアは傘を差し、急ぎ足で噴水広場へ向かう。
「急がないと……!」
傘を持たず慌てて走り去る人物と何度かすれ違い、メルリアは広場にたどり着いた。
案内板を探すべく、周囲を見回すと、ベンチに人影を見つける。
この雨の中、人が座っている? 疑問に思ったメルリアは、そちらに視線を向けた。
そこにいたのは、一人の女だった。闇に溶けるような真っ黒な服装に、ふんわりと癖のあるセミロングの髪。ベンチに深く腰掛け、静かに目を閉じている。雨に気づいていないかのように、微動だにしない。端から見れば眠っているようにすら思えた。
メルリアは女を見つけた途端、胸の奥がじんわりと痺れるような懐かしさを覚えた。女に駆け寄ると、手にした傘をそちらへと傾ける。女の体に薄い影が落ちた時、女はゆっくりと目を開く。瞼からのぞいた瞳が、静かにメルリアを捉えた。
「雨、降ってきましたよ。大丈夫ですか?」
「そうね……」
女は、メルリアの背後に広がる空を見つめる。濃い灰色が広がっていた。
「今晩はひどい雨になりそう」
水滴が傘の骨をつたってぽたぽたと落ちていく。その雫を気だるげに目で追った後、女は再び目を閉じた。
……間違いない、あの人だ!
メルリアは今の会話で確信する。この女は、エピナールの湖で一緒に月を見た女だと。
再び、あの時感じた不思議と懐かしい感覚が、メルリアの胸の内に広がっていく。理由は分からないが、メルリアはそれを嬉しく思った。
しかし、それを今口にするのは憚られる。彼女が捉えどころのない人物である事は理解しているが、今日は気分が沈んでいるように見えたからだ。
メルリアがどう声をかけるべきか悩んでいると、雨音を聞くように目を閉じていた女が、再び目を開く。真紅の瞳が悪戯に揺れた。
「あなた、これから用事は?」
「この後は特にありませんけれど……」
女はフッと笑って立ち上がる。女の髪に零れた雨の雫が風で跳ねた。
「決まりね。ついてきて」
女は微笑む。つかの間、メルリアの左手を握り、何も言わずに駆け出した。
「あっ、あのっ……!?」
メルリアの制止の声が雨にかき消されたかのように、女は振り返らない。
そのまま、二人は走り抜けるようにヴェルディグリを回った。
午前中、住宅街の家々に干されていたまぶしすぎるほどの白いシーツの数々は今やほとんど姿を消し、取り込まれなかった洗濯物が雨を吸って寂しそうに揺れている。メルリアが朝通ったパン屋の前――つい立ち止まってしまうほど香ばしい香りは、雨にすべて流されてしまった。昼、行列を成していたレストランの前には人がいない。飲食店の看板が風が揺れる音はどこか控えめだ。警備に回る衛兵の鎧が雨に濡れ、湿気を鬱陶しそうに、言葉にならない呻き声を上げる。
女がどこを目指しているのか分からない。まるで気まぐれな猫のように、ヴェルディグリの街をぐるぐると回る。メルリアはただただ翻弄されるだけだった。
同じ都市でも、午前と午後、晴れと雨でここまで違った印象を受けるものなのか。メルリアは女の方に一生懸命に傘を傾けながらも、ヴェルディグリの景色に驚いていた。数時間前の景色がまるで夢のような――もしくは今見ている景色が夢なのではないかという感覚に襲われる。
そんな建物を通り過ぎ、二人はやがて画家や彫刻師の工房が立ち並ぶ区域にたどり着く。今まで立ち入ったことのない区画に、メルリアは周囲を不思議そうに見渡しながら、女の後ろについていく。
女はこぢんまりとした店の入り口で立ち止まると、木製の扉をゆっくりと引く。湿気を含んだカランという音にメルリアが顔を上げると、店の脇には猫の顔を模った黒い看板が揺れていた。そこには、白い文字でシャノワールと書かれている。
女は手を離し、店の中へと入っていく。メルリアも傘を閉じてから、彼女に続いた。