第83話 宿酒場の夜
文字数 2,557文字
この日、結局ヴィリディアンの空は薄暗い雲に覆われたままだった。
天気は極端に崩れることも回復することもない。昨晩、小雨が降った程度で、日中は辛うじて曇り空を保っていた。
魔女の村を発ってから、これで二日目の夜となる。天気は晴れないものの、道中は特に問題がない。シャムロック曰く、このまま雨に降られなければ、明日には夜半の屋敷へたどり着けるだろうとの見立てだった。
その夜、宿酒場に到着した後のこと。
「……ごちそうさまでした」
フォークとナイフを空の皿に載せると、メルリアは手を合わせた。ぬるい紅茶に口をつけ、周囲の様子を窺う。酒場を利用している客は自分たちの他に三組。恰幅のいい中年の男が一人。それぞれ年の近い少女二人と、彼女たちの父親。メルリア達と同じくらいの若い男女が一組だ。テーブルは三席ほど空きがあり、それぞれのスペースがゆったりと余裕があるおかげで、さほど窮屈には感じない。
そのまま奥の階段の様子を窺う。上り階段の先には宿泊スペースがある。そこから人が降りてくる気配はない。代わりに飛び込んでくるのは、少女達の楽しそうな笑い声だ。
シャムロックは今日も夕食時に顔を出さなかった。
一度仮眠を取ってから食事をするから、二人は俺に構わずに夕食を済ませて欲しい――。昨晩、手続きを終えるなり彼はそう言った。それだけ伝えると、早々に借りた部屋へと向かっていく。昨日の夕食時に現れることはなかったし、今日もそうなるだろう。
それに、気がかりなことがもう一つ。やはり移動中は常に眠たそうで、問いかけてもどこか反応が悪い。メルリアは彼ともっと話がしてみたかった。一緒に食事がとれたら、きっと楽しいだろうに――ため息を一つこぼすと、寂しそうに目を伏せた。
そんなメルリアを見て、クライヴは喉元まで出かかっていた言葉を飲み込んだ。右手に意識が集中する。水を飲むべきか飲まざるべきか。無意識に手が動くと、カラカラと小気味よい音を立てて、冷水の氷が揺れる。彼は食事を取っている時から、こんなことばかりを繰り返していた。食前、食事中、食後の今を含め、水を六杯も飲み干す。それほど落ち着きを失っていた。
メルリアに言いたいことがあった。あの時、発作に邪魔されて言えなかった話だ。しかし、今言うべき空気ではないかもしれないと考えながら、かれこれ一時間が経過しようとしている。それに、どうしても喉の渇きが気になった。決して水では足りないと理解しつつも、気休めに手が伸びてしまう。
しかし、今でなければまたタイミングを逸してしまうだろう。グラスを強く握りしめ、顔を上げた。
「メルリア――」
「お前達にはまだ早い!」
その瞬間、突然右隣から机を両手で叩く音が聞こえた。その振動が、離れた場所に座るこちらにも床を通して伝わってくる。思わず二人が視線を向けると、娘連れの父親が顔を真っ赤にして涙を流していた。傍らにあるのは麦酒の入ったジョッキ二つ。両方とも中身は入っておらず、片方にはまだ麦酒の泡がグラスの縁に残っている。男は大げさに鼻をすすったかと思えば、机に突っ伏して派手に泣き始めた。要するに酔っ払いである。娘達はどうにか心得ているようで、長髪の少女は父親の世話を、短髪の少女は宿の人間を呼びに駆けていった。
メルリアへの呼びかけ――もとい、クライヴの決心はその事件に全て持って行かれる。
……どうしていつもこうなのだろうか。完全に干からびた笑いを顔に貼り付けながら、感情のない声で笑った。
やがて泥酔した父親が、娘と店主に連れられて宿泊部屋へ運ばれていく。俺の目が黒いうちは、などと引き摺られていく様に、客である男女一組がくすくすと笑う声が残った。木製のビアジョッキが椅子の下でごろごろと音を立てて転がった。その音が収まった頃、この場に平和が戻った。
「えっと……、どうかした? さっき、声をかけてくれたよね」
諦めかけていたクライヴは、突然の言葉に体を硬直させた。不自然なほどピンと背筋を伸ばす。咄嗟の行動で飲み込んだ唾液が気管に入り、深い咳を繰り返した。
「だ、大丈夫?」
クライヴは辛うじて頷いた。ひときわ大きい咳をすると、残りの水を一気に飲み干す。七杯目である。グラスには丸い氷がふたつ取り残され、涼しげな音を立てた。腹の底から空気を吐き出して、生理的に乱れた鼓動を整える。視線を右下に逸らしたまま、ぽつりと零した。
「シャムロックの話が終わった後、なんだけどさ」
クライヴは膝の上で手を揉み、余裕のないため息をついた。やがて意を決すると、顔を上げ、メルリアに真っ直ぐな視線を向けた。
「グローカスの街に、一緒に行かないか? 俺、あの街に住んでるんだ、だから二人で行けたら楽しいかと思うんだけ、ど……」
提案が次第に弱々しく、声も小さく頼りなく変わっていく。言葉が詰まり、視線が泳いだ。
クライヴは、頭の片隅で他人 のことをどうこう言える立場にないなと苦笑したが、しかしそれに構うだけの余裕も、対策を講じるだけのゆとりもなかった。迷いと緊張に揺れる視界に入ってきたのは、瞳を輝かせるメルリアの笑顔だった。
「いいの?」
口の端が妙な軌道を描いて上がりそうになるのを必死に抑えて、クライヴはうなずく。
「グローカスはまだ行ったことないんだ。楽しみにしてるね!」
曇りのない真っ直ぐな笑顔に言葉が全て飲み込まれそうになるが、クライヴはそれをなんとか乗り越え、拙いながらも一つ言葉を返した。
「俺も、楽しみにしてるよ」
その声は随分と肩の力が入った固いものであったが、メルリアは気づかない。
また楽しみが一つ増えたと指折り数えながら、静かに目を閉じる。それを胸に押し当てながら、メルリアは微笑んだ。シャムロックが知るというあの花の話――それが終わったら、クライヴと共にグローカスを見て回る。そうしたら、また手がかりを求めて旅に出るのだろう。それに、グローカスは花の街だという。もしかしたら、街を回っているうちにも、意外なヒントが転がっているかもしれない。
――待っててね、おばあちゃん。
メルリアは大好きな祖母の顔を思い浮かべながら、ゆっくりと目を開く。すっかり冷め切った紅茶を啜ると、舌先に来る苦みの後に、溶けきらなかった砂糖の甘さが残った。
天気は極端に崩れることも回復することもない。昨晩、小雨が降った程度で、日中は辛うじて曇り空を保っていた。
魔女の村を発ってから、これで二日目の夜となる。天気は晴れないものの、道中は特に問題がない。シャムロック曰く、このまま雨に降られなければ、明日には夜半の屋敷へたどり着けるだろうとの見立てだった。
その夜、宿酒場に到着した後のこと。
「……ごちそうさまでした」
フォークとナイフを空の皿に載せると、メルリアは手を合わせた。ぬるい紅茶に口をつけ、周囲の様子を窺う。酒場を利用している客は自分たちの他に三組。恰幅のいい中年の男が一人。それぞれ年の近い少女二人と、彼女たちの父親。メルリア達と同じくらいの若い男女が一組だ。テーブルは三席ほど空きがあり、それぞれのスペースがゆったりと余裕があるおかげで、さほど窮屈には感じない。
そのまま奥の階段の様子を窺う。上り階段の先には宿泊スペースがある。そこから人が降りてくる気配はない。代わりに飛び込んでくるのは、少女達の楽しそうな笑い声だ。
シャムロックは今日も夕食時に顔を出さなかった。
一度仮眠を取ってから食事をするから、二人は俺に構わずに夕食を済ませて欲しい――。昨晩、手続きを終えるなり彼はそう言った。それだけ伝えると、早々に借りた部屋へと向かっていく。昨日の夕食時に現れることはなかったし、今日もそうなるだろう。
それに、気がかりなことがもう一つ。やはり移動中は常に眠たそうで、問いかけてもどこか反応が悪い。メルリアは彼ともっと話がしてみたかった。一緒に食事がとれたら、きっと楽しいだろうに――ため息を一つこぼすと、寂しそうに目を伏せた。
そんなメルリアを見て、クライヴは喉元まで出かかっていた言葉を飲み込んだ。右手に意識が集中する。水を飲むべきか飲まざるべきか。無意識に手が動くと、カラカラと小気味よい音を立てて、冷水の氷が揺れる。彼は食事を取っている時から、こんなことばかりを繰り返していた。食前、食事中、食後の今を含め、水を六杯も飲み干す。それほど落ち着きを失っていた。
メルリアに言いたいことがあった。あの時、発作に邪魔されて言えなかった話だ。しかし、今言うべき空気ではないかもしれないと考えながら、かれこれ一時間が経過しようとしている。それに、どうしても喉の渇きが気になった。決して水では足りないと理解しつつも、気休めに手が伸びてしまう。
しかし、今でなければまたタイミングを逸してしまうだろう。グラスを強く握りしめ、顔を上げた。
「メルリア――」
「お前達にはまだ早い!」
その瞬間、突然右隣から机を両手で叩く音が聞こえた。その振動が、離れた場所に座るこちらにも床を通して伝わってくる。思わず二人が視線を向けると、娘連れの父親が顔を真っ赤にして涙を流していた。傍らにあるのは麦酒の入ったジョッキ二つ。両方とも中身は入っておらず、片方にはまだ麦酒の泡がグラスの縁に残っている。男は大げさに鼻をすすったかと思えば、机に突っ伏して派手に泣き始めた。要するに酔っ払いである。娘達はどうにか心得ているようで、長髪の少女は父親の世話を、短髪の少女は宿の人間を呼びに駆けていった。
メルリアへの呼びかけ――もとい、クライヴの決心はその事件に全て持って行かれる。
……どうしていつもこうなのだろうか。完全に干からびた笑いを顔に貼り付けながら、感情のない声で笑った。
やがて泥酔した父親が、娘と店主に連れられて宿泊部屋へ運ばれていく。俺の目が黒いうちは、などと引き摺られていく様に、客である男女一組がくすくすと笑う声が残った。木製のビアジョッキが椅子の下でごろごろと音を立てて転がった。その音が収まった頃、この場に平和が戻った。
「えっと……、どうかした? さっき、声をかけてくれたよね」
諦めかけていたクライヴは、突然の言葉に体を硬直させた。不自然なほどピンと背筋を伸ばす。咄嗟の行動で飲み込んだ唾液が気管に入り、深い咳を繰り返した。
「だ、大丈夫?」
クライヴは辛うじて頷いた。ひときわ大きい咳をすると、残りの水を一気に飲み干す。七杯目である。グラスには丸い氷がふたつ取り残され、涼しげな音を立てた。腹の底から空気を吐き出して、生理的に乱れた鼓動を整える。視線を右下に逸らしたまま、ぽつりと零した。
「シャムロックの話が終わった後、なんだけどさ」
クライヴは膝の上で手を揉み、余裕のないため息をついた。やがて意を決すると、顔を上げ、メルリアに真っ直ぐな視線を向けた。
「グローカスの街に、一緒に行かないか? 俺、あの街に住んでるんだ、だから二人で行けたら楽しいかと思うんだけ、ど……」
提案が次第に弱々しく、声も小さく頼りなく変わっていく。言葉が詰まり、視線が泳いだ。
クライヴは、頭の片隅で
「いいの?」
口の端が妙な軌道を描いて上がりそうになるのを必死に抑えて、クライヴはうなずく。
「グローカスはまだ行ったことないんだ。楽しみにしてるね!」
曇りのない真っ直ぐな笑顔に言葉が全て飲み込まれそうになるが、クライヴはそれをなんとか乗り越え、拙いながらも一つ言葉を返した。
「俺も、楽しみにしてるよ」
その声は随分と肩の力が入った固いものであったが、メルリアは気づかない。
また楽しみが一つ増えたと指折り数えながら、静かに目を閉じる。それを胸に押し当てながら、メルリアは微笑んだ。シャムロックが知るというあの花の話――それが終わったら、クライヴと共にグローカスを見て回る。そうしたら、また手がかりを求めて旅に出るのだろう。それに、グローカスは花の街だという。もしかしたら、街を回っているうちにも、意外なヒントが転がっているかもしれない。
――待っててね、おばあちゃん。
メルリアは大好きな祖母の顔を思い浮かべながら、ゆっくりと目を開く。すっかり冷め切った紅茶を啜ると、舌先に来る苦みの後に、溶けきらなかった砂糖の甘さが残った。