第81話 魔女の村を去る
文字数 2,997文字
翌日。太陽がちょうど空の真上で輝く頃。村を隔てる木製の扉を背に、メルリアとクライヴは立っていた。
太陽を曖昧に遮る木漏れ日は眩しく、森の外では快晴が広がっている事を証明していた。空は青く、木々はくっきりとした緑色。土に浮かぶ影は曖昧な輪郭で度々形を変える。その色彩豊かな空の下、森の湿気を含む風はどこか心地よい。
風で乱れた前髪を耳にかけながら、メルリアはリタに頭を下げた。
「リタさん、いろいろお話しできて楽しかったよ。ありがとう」
「うん、私もー。ミスルトーって年上ばっかだからさ、若い人と話せるのって新鮮だったよ」
にこにこといつもと変わらぬ表情を浮かべながら、リタはメルリアの手をぎゅっと握った。メルリアもそれに答えるように手を握り、同じように笑顔で応える。何気ない会話のように、それだけがわずかな時間続いた。
十分に堪能した後、リタはふわりとその手を離して、クライヴを見る。彼は時折森の奥を見つめながら、眉間に皺を寄せて難しい顔をしていた。その表情に気づかないふりをして、声色を変えずに呼びかける。
「クライヴ、頑張ってねー。離れてても応援してるからさー」
「あ、ああ……」
クライヴは苦笑を浮かべると、森の奥へもう一度視線を向けた。人の気配がないことを確認すると、隣に立つメルリアの様子を窺う。今度こそ守らなければならない。この先、何かあったとしても――たとえ、答えにたどり着けなかったとしても。決意を固めるように右手をきつく握りしめる。すると、右腕を引っ張られた感覚がした。そちらへ向くと、リタがにっと笑みを浮かべていた。わざとらしくメルリアに視線を向けると、ひとつウインクを作ってみせる。
「……うまくいくといいねぇ」
小声でそうささやくと、リタはすっと距離を取った。そして、何事もなかったかのようにいつも通りの笑顔を浮かべる。
「っ――!」
クライヴが驚きに声を上げようとすると、リタは人差し指を唇に当てた。
メルリアに気づかれるわけにはいかない。自分にだけ聞こえる鼓動の早さをなんとか鎮めようと、左胸に手を押しつける。それを押し返すように、心臓は激しく脈打っていた。
彼の様子をにまにま見つめていたリタだったが、ふと森を抜ける風の温度が変わったと気づく。木々の合間を縫って羽ばたく小鳥が、もの言いたげに高く長く鳴いた。
「……ん?」
「どうしたの?」
リタは思わず首をかしげる。やがて、へにゃりと笑って手を上下に振った。
「森がちょっとねえ。そろそろかなーって思ってさあ」
エルフは、風の音や木々のざわめき、鳥の鳴き声や周囲の温度から、肌で何らかの変化や警告を感じ取れる能力がある。森と共に共に生きてきたエルフならではの勘のようなものだ。
メルリアは周囲を見回す。リタの聞こえている声に、少しでも近づきたかった。道の先から来る人影はない。足音らしいものも聞こえない。風に木々がざわめく音と、夏の強い日差しが何気なく分かる程度。空を見上げても、昨晩のように枝に留まる何かが見えるわけでもない。特に変化は感じなかった。寂しげにひとつため息をつくが、彼女の隣に立つリタはうんうんと何度かうなずいている。
「すごいね……。やっぱり私には全然分からないな」
「まー、私は一応エルフの端くれだからねえ」
リタはただ淡々と事実を伝えると、くわっと大きく口を開いた。大きな欠伸を一つ漏らすと眠たげに目を擦る。涙で人差し指がするりと滑った。
やがて風が収まると、森の奥から人影が二つこちらへ向かってくる。姿形がはっきり見えずとも、三人にはそれだけで誰か理解できる。その身長差はあまりにも極端だったからだ。やたら背が高い方がシャムロック、そこそこ背が低い方がアラキナだ。やがて、アラキナが立ち止まる。何やら言葉を交わした後、再び歩き出した。
二人の姿がはっきりと確認できるほど近づいた時、メルリアは何度か短い瞬きを繰り返した。背の高い方はシャムロックなのだろうが、それだと断言できない。なぜなら、彼は全身を覆い隠すような黒く長い外套を羽織っていたからだ。さらに、目元をすっぽりと隠すフードを身につけているせいで、顔の輪郭が分からない。男はフードに手をかけると、それを首の後ろへと追いやった。その姿を見て安堵する。フードの影から現れたのは、どこか橙色の混じった金髪に深紅の瞳。木漏れ陽に触れる金髪は、光を受けて白く光る。間違いなくシャムロックの姿だった。
「待たせてしまってすまなかったな」
「いえ、大丈夫です」
メルリアは微笑んで返すと、シャムロックの姿をまじまじと見つめた。昼間出歩くには目立ちすぎるであろう真っ黒な外套は、体のラインを隠すようなゆったりとしたものだった。腕や足下周りには金色の装飾が施されている。端から背中側へ続くような模様はとても複雑だ。こちらから見ることができないが、恐らく背中にも何かが描かれているのだろう。
「早ぅ被らんか」
老婆は男に非難の目を向けると、手にした杖を横に振った。すると、外套に施された金の刺繍が淡く光る。外したはずのフードがシャムロックの顔を再び覆い隠した。まるで、それが自らの意志を持っているかのように。
「魔法具……?」
クライヴがつぶやくと、アラキナがにたぁと満面の笑みを浮かべた。お世辞にも綺麗な表情とは言いがたく、あまり見たくはない嫌な笑顔だ。老婆は足早にこちらへ駆け寄ると、顔を上げて再びにんまり笑顔を浮かべる。本能的な恐怖のせいだろう、咄嗟に一歩後退して距離を取った。
「儂渾身の一作じゃぁ……! ヒョッ、ヒョッヒョッ」
普段の重々しい物言いと、喉のどの辺りから出しているか分からない小鳥のような高い声。不気味な笑い声にクライヴの目が点になるなり、老婆はまた満足げに笑う。一通り満足してから、杖を適当に上下左右に振ってリタの隣に立つ。
「アラキナさん、他人を実験台にするのはやめてよね。シャムロックさんがいい人だからってさ」
腕を組みながら、今回ばかりは怒ったぞと言わんばかりに強い口調でリタは責める。しかし、アラキナはやはりどこ吹く風といった様子だった。無駄に達者な口笛が森の木々に反響していく。それは心地のよい穏やかな風となって返ってきた。
その風を肌で感じながら、シャムロックは何も言わずに首を振り、エルフの村に背を向ける。
「日暮れには宿に着きたい。そろそろ行こうか」
「はい!」
「……ああ」
笑顔でうなずくメルリアと、慎重に答えるクライヴ。そんな彼らに応じるように、木製の扉が古びた音を立てた。細かい木の破片を周囲に散らしながら、村の出入り口がゆっくり開いていく。その様はまるで王城を守る鉄扉のごとく重々しい。
シャムロックはエルフ二人に頭を下げると、そのまま外へ歩いて行く。
「それじゃあ、ありがとうございました!」
その様子を見て、メルリアは慌てて二人へ頭を下げた。
「本当に世話になった、ありがとう」
メルリアに続いて、クライヴも感謝を告げる。
空いた距離を埋めるように、二人は早々にシャムロックを追った。
「またね~」
「ヒャ、ヒャ、ヒャッヒャ……」
リタの伸びやかな声と、アラキナの奇妙な笑い声――恐らく別れの挨拶なのだろう、メルリアは手を振る事を返事の代わりにした。
それから魔女の村の扉が閉ざされたのは、三人が「私有地」の看板を通り抜けた後のことである。
太陽を曖昧に遮る木漏れ日は眩しく、森の外では快晴が広がっている事を証明していた。空は青く、木々はくっきりとした緑色。土に浮かぶ影は曖昧な輪郭で度々形を変える。その色彩豊かな空の下、森の湿気を含む風はどこか心地よい。
風で乱れた前髪を耳にかけながら、メルリアはリタに頭を下げた。
「リタさん、いろいろお話しできて楽しかったよ。ありがとう」
「うん、私もー。ミスルトーって年上ばっかだからさ、若い人と話せるのって新鮮だったよ」
にこにこといつもと変わらぬ表情を浮かべながら、リタはメルリアの手をぎゅっと握った。メルリアもそれに答えるように手を握り、同じように笑顔で応える。何気ない会話のように、それだけがわずかな時間続いた。
十分に堪能した後、リタはふわりとその手を離して、クライヴを見る。彼は時折森の奥を見つめながら、眉間に皺を寄せて難しい顔をしていた。その表情に気づかないふりをして、声色を変えずに呼びかける。
「クライヴ、頑張ってねー。離れてても応援してるからさー」
「あ、ああ……」
クライヴは苦笑を浮かべると、森の奥へもう一度視線を向けた。人の気配がないことを確認すると、隣に立つメルリアの様子を窺う。今度こそ守らなければならない。この先、何かあったとしても――たとえ、答えにたどり着けなかったとしても。決意を固めるように右手をきつく握りしめる。すると、右腕を引っ張られた感覚がした。そちらへ向くと、リタがにっと笑みを浮かべていた。わざとらしくメルリアに視線を向けると、ひとつウインクを作ってみせる。
「……うまくいくといいねぇ」
小声でそうささやくと、リタはすっと距離を取った。そして、何事もなかったかのようにいつも通りの笑顔を浮かべる。
「っ――!」
クライヴが驚きに声を上げようとすると、リタは人差し指を唇に当てた。
メルリアに気づかれるわけにはいかない。自分にだけ聞こえる鼓動の早さをなんとか鎮めようと、左胸に手を押しつける。それを押し返すように、心臓は激しく脈打っていた。
彼の様子をにまにま見つめていたリタだったが、ふと森を抜ける風の温度が変わったと気づく。木々の合間を縫って羽ばたく小鳥が、もの言いたげに高く長く鳴いた。
「……ん?」
「どうしたの?」
リタは思わず首をかしげる。やがて、へにゃりと笑って手を上下に振った。
「森がちょっとねえ。そろそろかなーって思ってさあ」
エルフは、風の音や木々のざわめき、鳥の鳴き声や周囲の温度から、肌で何らかの変化や警告を感じ取れる能力がある。森と共に共に生きてきたエルフならではの勘のようなものだ。
メルリアは周囲を見回す。リタの聞こえている声に、少しでも近づきたかった。道の先から来る人影はない。足音らしいものも聞こえない。風に木々がざわめく音と、夏の強い日差しが何気なく分かる程度。空を見上げても、昨晩のように枝に留まる何かが見えるわけでもない。特に変化は感じなかった。寂しげにひとつため息をつくが、彼女の隣に立つリタはうんうんと何度かうなずいている。
「すごいね……。やっぱり私には全然分からないな」
「まー、私は一応エルフの端くれだからねえ」
リタはただ淡々と事実を伝えると、くわっと大きく口を開いた。大きな欠伸を一つ漏らすと眠たげに目を擦る。涙で人差し指がするりと滑った。
やがて風が収まると、森の奥から人影が二つこちらへ向かってくる。姿形がはっきり見えずとも、三人にはそれだけで誰か理解できる。その身長差はあまりにも極端だったからだ。やたら背が高い方がシャムロック、そこそこ背が低い方がアラキナだ。やがて、アラキナが立ち止まる。何やら言葉を交わした後、再び歩き出した。
二人の姿がはっきりと確認できるほど近づいた時、メルリアは何度か短い瞬きを繰り返した。背の高い方はシャムロックなのだろうが、それだと断言できない。なぜなら、彼は全身を覆い隠すような黒く長い外套を羽織っていたからだ。さらに、目元をすっぽりと隠すフードを身につけているせいで、顔の輪郭が分からない。男はフードに手をかけると、それを首の後ろへと追いやった。その姿を見て安堵する。フードの影から現れたのは、どこか橙色の混じった金髪に深紅の瞳。木漏れ陽に触れる金髪は、光を受けて白く光る。間違いなくシャムロックの姿だった。
「待たせてしまってすまなかったな」
「いえ、大丈夫です」
メルリアは微笑んで返すと、シャムロックの姿をまじまじと見つめた。昼間出歩くには目立ちすぎるであろう真っ黒な外套は、体のラインを隠すようなゆったりとしたものだった。腕や足下周りには金色の装飾が施されている。端から背中側へ続くような模様はとても複雑だ。こちらから見ることができないが、恐らく背中にも何かが描かれているのだろう。
「早ぅ被らんか」
老婆は男に非難の目を向けると、手にした杖を横に振った。すると、外套に施された金の刺繍が淡く光る。外したはずのフードがシャムロックの顔を再び覆い隠した。まるで、それが自らの意志を持っているかのように。
「魔法具……?」
クライヴがつぶやくと、アラキナがにたぁと満面の笑みを浮かべた。お世辞にも綺麗な表情とは言いがたく、あまり見たくはない嫌な笑顔だ。老婆は足早にこちらへ駆け寄ると、顔を上げて再びにんまり笑顔を浮かべる。本能的な恐怖のせいだろう、咄嗟に一歩後退して距離を取った。
「儂渾身の一作じゃぁ……! ヒョッ、ヒョッヒョッ」
普段の重々しい物言いと、喉のどの辺りから出しているか分からない小鳥のような高い声。不気味な笑い声にクライヴの目が点になるなり、老婆はまた満足げに笑う。一通り満足してから、杖を適当に上下左右に振ってリタの隣に立つ。
「アラキナさん、他人を実験台にするのはやめてよね。シャムロックさんがいい人だからってさ」
腕を組みながら、今回ばかりは怒ったぞと言わんばかりに強い口調でリタは責める。しかし、アラキナはやはりどこ吹く風といった様子だった。無駄に達者な口笛が森の木々に反響していく。それは心地のよい穏やかな風となって返ってきた。
その風を肌で感じながら、シャムロックは何も言わずに首を振り、エルフの村に背を向ける。
「日暮れには宿に着きたい。そろそろ行こうか」
「はい!」
「……ああ」
笑顔でうなずくメルリアと、慎重に答えるクライヴ。そんな彼らに応じるように、木製の扉が古びた音を立てた。細かい木の破片を周囲に散らしながら、村の出入り口がゆっくり開いていく。その様はまるで王城を守る鉄扉のごとく重々しい。
シャムロックはエルフ二人に頭を下げると、そのまま外へ歩いて行く。
「それじゃあ、ありがとうございました!」
その様子を見て、メルリアは慌てて二人へ頭を下げた。
「本当に世話になった、ありがとう」
メルリアに続いて、クライヴも感謝を告げる。
空いた距離を埋めるように、二人は早々にシャムロックを追った。
「またね~」
「ヒャ、ヒャ、ヒャッヒャ……」
リタの伸びやかな声と、アラキナの奇妙な笑い声――恐らく別れの挨拶なのだろう、メルリアは手を振る事を返事の代わりにした。
それから魔女の村の扉が閉ざされたのは、三人が「私有地」の看板を通り抜けた後のことである。