第98話-2 二人の朝焼けに

文字数 4,538文字

「そろそろ戻ろうと思うけど、メルはどうする?」
 待ってと追い求めるようにメルリアは手を伸ばす。それに気づいたクライヴは足を止めた。
「クライヴさんともうちょっと話していたい……な、なんて、困るよね」
 メルリアはクライヴから視線をそらし苦笑する。とっさに上げた手が、顔の周りを右往左往した。理由はよく分からなかったが、とにかく彼の顔を見ていられなくなった。話していたいのに目をそらすなんて、とても矛盾している。それは分かっていた。おかしいとは思うが、まともな答えが出てこない。
「大丈夫だ。……だけど、そうだな」
 夜半の屋敷はただただ静かだ。風は湿気をはらみつつも穏やかで、土や草の匂いをバルコニーにまで運んでくる。一日の始まりをそっと彩るように。月満草は全て眠りにつき、どこかへ飛び去った小鳥が、音を立てずに屋根へと降り立った。
 人の気配はない。バルコニーに立つ二人以外は。
 木々の間を差す暖かな光が、ようやく夜半の屋敷に顔を出す。やがて、それがクライヴの背や頬を静かに照らした。
「メル、聞いてくれるか」
 ごくりと喉を鳴らし、彼はいつになく真剣な声色で切り出した。
 一言一句はっきりと口にした言葉を耳に、メルリアは深い呼吸を何度か繰り返した。落ち着かぬ心臓を落ち着けるためだ。自分のよく分からない事情に構っている場合ではないと判断したのだ。背の後ろで手を組むと、ゆっくりと彼に向かい合う。耳で判断したとおり、クライヴは真剣な表情でこちらを見つめている。言うことの聞かぬ心臓の鼓動をなんとか平常心にまで押さえつけ、返事の代わりに一つうなずいた。
「……昨晩、メルリアが『出会えたのが俺でよかった』って言ってくれただろ」
「……うん」
「その後、俺は『傍にいてくれたのがメルリアでよかったと思ってる』って言ったよな」
 その言葉に、メルリアはぎこちなくうなずいた。冷静に話を聞こうとじっとしていたが、次第に鼓動が乱れていく。あれだけ嬉しいことを言ってくれたのだ、忘れられるはずがない――。背の後ろで組んだ手を、落ち着かない様子で擦り合わせた。真剣な話をしているというのに、なぜだか心臓がうるさい。自分がおかしいのは、あの時からだったような気がする。深く考えようとして、けれどその思考をすぐに止めた。クライヴの話を聞いている最中だったから。これはもしかしたら、昨晩聞いた「言いたかった話の続き」なのかもしれない。それならば、そんなことに構っている場合ではない。ずれた靴をはき直すそぶりをして、なんとか気分を落ち着けようと試みる。あまり効果はなかった。
 クライヴはそんなメルリアに気づかず、鼓動を落ち着けようと大げさに息を吐いた。音を立てぬようゆっくりと。そして、小さく咳払いを零した。口に当てた手がわずかに震える。その震えが収まらぬまま、再び彼女を見据える。
「その気持ちは本当だ。一晩経って、その気持ちが強くなった。だから、これからも俺の傍にいてほしい」
 メルリアは目を見張る。何度か瞬きを繰り返したまま言葉を失った。その場に立ち尽くし、微動だにしない。驚きに似た表情をしているが、眉尻がつり上がることもなく下がることもない。否定とは言い切れないが、肯定にはとても取れない様子だった。
 彼女は言葉の真意を測りかねていた。その先に意味があることだけは分かる。ただ、それがどういう意図なのか――それは分からなかった。
 微妙な間と空白。困惑したままのメルリアは動かず、逆にクライヴの固い決意が揺らぐ。しかしここで引いてははならぬと、彼は一歩前へ足を踏み出した。気合いを入れ直そうと握りこぶしを作ったが、その力をすぐに抜く。メルリアとの距離を詰めるべく、一歩一歩確実に歩を進める。バルコニーに、呆気にとられたメルリアの胸の奥に、その音だけが響いた。やがて立ち止まると、両手でメルリアの肩に触れた。そのままメルリアの青い瞳をのぞき込む。
 真面目な表情で詰め寄られては、目をそらすことなどできるはずもない。メルリアはクライヴの表情を真正面から受け止めると、わずかに息をのんだ。
 二人の心臓が早鐘を打つ。そのどちらとも、緊張と不安がそうさせていた。混じる感情や思惑は違えども。再び沈黙が訪れる。それは彼らにとって、ほんのわずかな時間にも、永遠に近く長いような時間にも感じられた。
 フッと強く吹き抜けた風がひとつ。それにより、窓が音を立てて揺れた。クライヴの耳は瞬時にその音を拾う。昨日の出来事のせいで、周囲の音に敏感になっていたのだ。繰り返すわけにはいかないと、早急に口を開いた。
「俺は、メルリアが好きだ」
 クライヴは唇を固く閉ざす。メルリアの両肩を支える手が小刻みに震えていた。
 その告白は、一言一句間違いなくメルリアの耳に届いた。一度しか口にしていないそれが、彼女の頭に反響する。真剣な表情も、少し早いけれどはっきりとした言葉も、胸の内から絞り出すような声も。そうして、言葉の意味が胸の内に落ちる。ずいぶんと遅れてその意味を理解した。思わず肩に力が入る。鼓動が激しく変わる。今まで感じたことのないくらいに。全く収まる気配がない。心臓の鼓動が肩まで到達しそうだと感じた。初めて、メルリアは自分からクライヴの視線をそらした。緩く開いていた唇に蓋をするよう閉ざし、逸らした視界の先で瞬きを繰り返す。顔が熱い。体が熱い。心臓がうるさい。意味が分からなかった。
 でも、この鼓動に似た早さを知っている。どこで。記憶をたぐり寄せ、目を閉じる。最近の記憶だったことが幸いし、ずっと早く答えにたどり着いた。昨晩だ。昨晩、クライヴと話していた時。それこそ、先ほど聞いた「」の言葉を初めて聞いた瞬間によく似ている。あの後別れた後に、クライヴのことを考えた。その時も今と似た感覚だった。
 ゆっくり目を開く。石畳の灰色がとても眩しく感じる。思わず目を細めた。すると、肩に触れていたクライヴの右手が、滑り落ちるように離れていく。その手は、宙をわずかな時間さ迷った。
「……嫌、だったか?」
「そんなこと――!」
 メルリアは顔を上げる。苦笑交じりのそれを打ち消すほど、大きな声を上げながら。そのままの勢いで、一歩前へ足を踏み出した。すると、彼女は突如バランスを崩し、正面へ倒れ込んだ。咄嗟にクライヴは手を伸ばし、彼女の体を支える。
 近い、どころの話ではない。意図せぬ事故である。
 事故の最中、メルリアは左耳でクライヴの心臓の音を聞いた。自分の鼓動よりも早いそれを三度ほど聞くと、慌てて体を離した。そのまま一歩後退し、先ほどと同じ距離を取る。
「ご、ごめんなさい! へ、変な意味じゃなくって」
「分かってる、大丈夫だ、分かってる……!」
 とっさに頭を下げて謝るメルリアと、彼女から視線をそらし、右手で口元を押さえるクライヴ。何も言う必要はないとばかりに制した。
 何度も頭を下げるメルリアの顔も、大丈夫だと口の中で繰り返すクライヴの顔も、同じように真っ赤に染まっている。
 やがて、メルリアは大きく息を吐く。何か言わなくてはならない。それは分かっていた。けれど顔の熱は引かない。このままでは、心臓の鼓動が音になって外に出てしまうかもしれない。普段よりもずいぶん熱っぽい息を漏らし、自分の胸に手を置く。やはり信じられないくらい早い。だけど、先ほど聞いたクライヴの心臓の音よりは落ち着いている気がした。大丈夫、大丈夫と何度か繰り返して、メルリアは顔を上げる。
「私、誰かを好きになったことも、誰かに好きって言ってもらえたこともなくって……。だから、どうしたらいいのか分からなくて」
 メルリアに生まれた余裕は些細なものだ。だからこそ、ゆっくり口を動かす。声は弱々しく、言葉の端々が震えていた。
 メルリアの育ったベラミントは、田舎の農村である。村に住む人間は大人ばかり。彼女と同じ年の子供はいなかった。ロバータが他界し、エプリ食堂で働くことになった後でも変わらなかった。人として憧れる人物はいても、憧れとしての好きという気持ちを抱いても、他人を異性として見る機会はなかったのだ。
「でも、クライヴさんにそう……言ってもらえて、嬉しかった」
 好きだと言ってもらえて。言うはずだった二文字は、唇が震えてしまって音にはならなかった。
 メルリアは俯く。自分の心の内を探るように、胸に置いた手を握りしめた。そう、嫌だとは思わなかった。嫌だったかと尋ねられて、咄嗟に否定するくらいには。けれど、嬉しかったと片付けるには何か違った。
 好きってなんだろう。どういうことなんだろう。
 どう答えればいいのか。どうするべきなのか――真面目な彼に返す言葉が見当たらないのは心苦しい。逡巡していると、先ほど聞いたクライヴの声が脳裏を過る。傍にいて欲しい――その声が。
 クライヴがもし遠くへ行ってしまったら? 今までのように過ごす時間がなくなってしまうとしたら? 困惑する鼓動に、明らかに不快の色が混じった。ぞくりと背筋に走る悪寒に似た感覚がある。一つ息をのむと、浮かんだ風景を拒絶するように頭を振った。そして、ゆっくりと顔を上げる。そこには、こちらの返事を待つクライヴの姿。その姿に安堵した。
 ……大丈夫。いてくれている。と。
「昨日ね、クライヴさんに『おやすみなさい』って言えなかったのが、すごく寂しかったんだ。ミスルトーではずっと言ってたし、聞いてたから」
 こちらを見るクライヴの表情は、真剣なようで、どこか恐れの色もある。しかし口を挟むことはしなかった。
「クライヴさんに出会えて、本当によかった。一緒に旅ができて、とっても嬉しかった。クライヴさんと一緒にいられる日常が続くとしたら、それはとっても幸せな事だって思う」
 メルリアは目を伏せたが、やがて顔を上げた。そこには、穏やかな笑みをたたえている。
「私も、クライヴさんの傍にずっといたい」
 それを口にした途端、『好き』の意味が腑に落ちた。胸の奥にあったつかえが消えて、そこに染み入るような温かさが生まれる。
 ――好きって、こういうことなんだ。
 その熱を抱いたまま、メルリアはクライヴの左手を両手で包んだ。その力は弱々しい。あの日と同じように触れようとしたが、手にうまく力が入らなかった。数刻前であったならば、難なくできただろう。
 普段よりも数拍遅れて、メルリアはその手の温度に気づく。彼の指先はずいぶんと冷たいし、わずかに震えていた。疑問に首をかしげた途端、二人の視線が合う。
「その……これからは、俺と付き合うって事で、いいのか?」
「お、お付き合いっ!」
 その言葉を聞くやいなや、メルリアはびくりと震えた。過剰なほどに両肩に力を入れて縮こまる。彼の眉尻がわずかに下がるのを見かねると、慌てて首を縦に振った。思わず手を離しそうになって、咄嗟にその手に力を入れる。
「大丈夫……、嬉しい」
 緊張と脱力が混じったような曖昧な表情で笑うと、クライヴもぎこちない笑みを浮かべた。そうして、彼女の手に自分の右手を重ね合わせる。

 穏やかな風が暖かい空気を運んでゆく。西の空の藍色は姿を消した。雲一つない朝の空に太陽が輝く。
 夜半の屋敷に朝が訪れた。
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登場人物紹介

◆登場人物一覧

┗並びは初登場順です。

┗こちらのアイコンは公式素材のみを使用しています。

メルリア・ベル


17歳。

お人好し。困っている人は放っておけない。

祖母との叶わなかった約束を果たすため、ヴィリディアンを旅することになる。

フィリス・コールズ


16歳。

曖昧な事が嫌いで無駄を嫌う。
シーバの街で、両親と共に「みさきの家」という飲食店を経営している。

クライヴ・ローウェル


22歳。

真面目。お人好しその2。

理由あって旅をしており、メルリアとよく会う。

ネフリティス


27歳(人間換算)

都市に工房を持つエルフの錬金術師。

多少ずぼらでサバサバしている。

イリス・ゾラ


21歳。

隣国ルーフスの魔術師。闇属性。

曲がったことが嫌い。

リタ・ランズ


16歳(人間換算)

魔女の村ミスルトーで暮らしているエルフ。
アラキナのストッパー兼村一番のしっかり者。

ウェンディ・アスター


不明(20代後半くらいに見える)

街道の外れの屋敷で働くメイド。

屋敷の中で一番力が強い。

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