第80話 酒宴の傍らで
文字数 3,554文字
たき火の炎が、集まったエルフ達を歓迎するかのように燃えさかっていた。
アラキナの号令により、いつの間にやら広場にはエルフが集まっていた。その中には、メルリアやクライヴ達が初めて見る顔も少なくはない。
「酒じゃ酒! 宴にするぞい!」
「あークソッ、こうなったら飲んでやる!」
「ちょっとちょっと、寝酒は体に悪いよー」
アラキナはまるで王族が人を扱き下ろすかのように杖を振るう。魔力の含んだその一振りによって、老婆はワインボトルを貯蔵庫から転移させた。五十年物の赤ワイン、フルボディ。アルコール度数およそ十五度。麦酒を呷る前のようにワイングラスを天に掲げると、それに同調したエルフが感嘆の声を上げた。
――ザックの一言によって、広場には十人ほどのエルフが顔を出してしまった。唐突に始まってしまった酒宴は夜明けまで続くだろう。
シャムロックは傍らに立つ二人の様子を窺う。呆然と立ち尽くす彼らは呆気にとられていた。とても話ができる状況ではない。いつの間にか広場にはテーブルが用意され、どこにあったか色とりどりの酒の肴が並ぶ。その喧噪を耳に、シャムロックは諦念のため息をついた。
「メルリア、クライヴ」
その言葉に二人は顔を上げる。一方は困ったように、もう一方は我に返ったように。
「きちんと話をしたかったが、どうも間が悪いようだな。こちらもあまり長居はできない」
メルリアは胸の前で手を握り、不安そうに彼の様子を窺う。対して、クライヴは強い視線で彼の赤い瞳を見つめ返す。両者とも口を挟まない。三人とエルフの間に見えない壁があるように、その黙然はこの場からすれば異質だった。
「俺の住んでいる場所――、夜半の屋敷に来ないか。そこできちんと話をしたい」
その言葉に、二人は目を丸くする。
数刻だけ間を置いて、メルリアが一歩前に出た。
「嬉しいです! 私、次はそちらに伺う予定で……!」
先に表情が変わったのはメルリアだった。満面の笑みを浮かべ声を弾ませる。
これでやっと旅が再開できる――その提案が胸の奥にじんわり染み入った。シャムロックに誘われるのはこれで二度目だ。一度目はせっかくの誘いを拭い難くも断った。だからこそ、今回差し伸べてくれた手を取れる喜びを感じていた。ネフリティスの言葉通りなら、夜半の屋敷へ向かえば祖母との約束に近づくし、今度こそエルヴィーラにも会える。曾祖父の話もしてくれるなら、自分の知らない祖母の話も聞けるかもしれない。何気ない会話から新しいきっかけが得られるかもしれない。それが楽しみで仕方なかった。
シャムロックはメルリアに微笑で返した後、表情を引き締める。
「クライヴはどうする?」
その言葉に、クライヴはゆっくりと顔を上げる。返事の代わりに曖昧に笑うと、どうするべきか口を閉ざす。驚きから困惑へと変化した表情は明るいものではない。
返事を待つシャムロックの瞳はなおも赤いが、たき火や自然の炎の赤とはどこか違う。深紅のそれは濃く深く、どこか冷たい印象を与える色でもあった。
クライヴの視線が迷い泳ぐ。彼の背後ではエルフ達がこぞって宴を始めていた。理由や名目は特にない。用意した椅子にはそれぞれのエルフが陣取っていたが、ぽっかりと一つだけ空いた席があった。来客が決まっているように、そこにはすでに酒の注がれたグラスが一つ用意されている。談笑と共に酒を飲み、時折つまみに手を出す様はどう見ても宴会のそれで、真面目な話をする空気には適さないだろう。今ではいけないのかと尋ねる気にはならなかった。
それに……。自然と視線がメルリアへ向く。彼女は誘いを迷いなく受け入れた。それどころか次はそこに向かう予定だとも言っている。心の底からこの男を信頼しているのだろう。であれば、自分が何を言っても無意味だ。この先、何があるか分からないけれど、分からないのならば……。一つ息をのむと、意を決して顔を上げる。
「分かった。俺も行く」
その言葉は力強くはっきりと響いた。
このままメルリアを一人で行かせるわけにはいかない――。かつて街道で出会った御者に向けたものと同じ感情を抱いていた。しかし今は、その決意に付随する感情も思いの深さも違う。
「……そうか」
金色の瞳に向けられた決意を受け取ると、シャムロックは静かに目を伏せた。
「また一緒に歩けるね」
メルリアがクライヴへと振り向く。背中の後ろで手を組み、微笑みかけた。その笑顔は無意識故の純粋なものだ。
「そ、そうだな」
シャムロックがいるとはいえ、また二人で過ごす時間が増えることになる――全く意識していなかった部分を意識させられ、妙な照れくささと居心地の悪さを感じ、クライヴの表情が強ばった。落ち着かない様子で手を揉みながら息を吐く。鼓動は乱れたままだ。
「……さて、と」
シャムロックは二人に背を向けると、懐から小ぶりな笛を取り出した。森の闇に向けて、短く低い音が響いた。その音はぼんやりと広がるように溶けていく。やがて、暗闇から一つの影が飛んできた。それは近くの枝に降り立つと翼を繕うと、はらりと何かを落とした。
クライヴとメルリアはその影をじっと見つめる。どうやら大形の鳥らしいと理解はできたが、それが何なのかは分からない。それが頭を上げると、鋭いくちばしがわずかに漏れる月の光を反射した。
「鴉……?」
鳴き声こそ知らないものの、長いくちばしと漆黒の色は、よく見たことのある鳥に似ている。メルリアが思わず口にすると、シャムロックは頷いた。
「あれは乙夜鴉 という。夜行性の鴉だ」
「初めて見ました……」
メルリアは暗闇の中目をこらし、乙夜鴉と呼ばれた鳥の影をじっと見つめた。くちばし以外の部分はやはり森の闇に紛れてよく分からない。少しでもその姿を識別しようと、頭を左右に振ったり体を揺らしたりつま先立ちしてみたり。くちばしは自分のよく知る鴉と似ているみたい。羽の感じはどうなんだろう、色はやっぱり真っ黒だったりするのかな。鳴き声は同じなのだろうか、と興味深くその黒を見つめていた。
それを横目に、シャムロックは乙夜鴉が落とした荷物を拾い上げる。手のひらに収まるほど小さな鞄には一通の手紙が入っていた。四つ折りにしただけの簡単なそれを広げると、月夜に透かして文字を読む。黒いインクではっきりと書かれた文字を見るなり、表情が強ばっていく。その表情のまま、影が止まる枝を見上げて苦笑した。
「……怒っていたか?」
乙夜鴉は頷くようにくちばしを上下すると、同意のような鳴き声を漏らす。普通の鴉よりもずっと低く渋い声だった。
さてどうするべきかとシャムロックが顎に手を当てると、メルリアと目が合う。その目は好奇心で満ちていた。
「シャムロックさん、動物と会話ができるんですか?」
「どうだろうな……。正しく受け取れているか定かではないが、恐らくこちらの言葉は理解できているだろう。本来、鴉はとても賢い生き物だから」
言いながら背後に視線を向けると、同意のように乙夜鴉が低く鳴く。
まるで「そうだろう」と自賛しているように聞こえて、メルリアはくすりと笑った。すごいなあと称賛の意を抱き、シャムロックを、そして乙夜鴉のいるであろう闇に目を向ける。暗闇に目が慣れてもその姿を捉えることができない。それほどまでに森に溶け込んでいた。
「俺は屋敷へ手紙を書いてから休むことにする。二人も早く休んだ方がいい」
「はい、おやすみなさい」
メルリアは二人に挨拶を済ませると、広場をぐるりと迂回して、自分の借りるツリーハウスへと戻っていった。
クライヴはその間全く動かず、歩き続けるメルリアの背中に視線を送る。頭の中で考えているのは、彼女とは直接関係がないことだった。その姿が建物に消えた後も、扉の木目をただ見つめている。
「すまないな。俺が答えると言い出したにも拘わらず、随分と先延ばしになってしまった」
「……いや」
シャムロックの言葉を受け止めぬような空返事をひとつすると、広場の奥を見る。そこには、なおも続く宴模様が広がっていた。そのまま、その宴模様をぼんやりと見つめた。
「夜半の屋敷って、グローカスの外れの保護区だったよな」
「そうだ。知っているのか?」
「話だけ。あの辺りで遊ぶなって、子供の頃よく注意されてたから」
会話の本題はそこではない。お互いそれに気づきつつも、問うことはしなかった。
宴に華やぐエルフの面々の風景が滲んでいく。クライヴは何度か瞬きをして、目の焦点を正しく合わせた後、それらすべてから背を向けた。
「俺ももう休む」
「ああ、おやすみ」
クライヴは一度足を止める。しかし、何でもないと頭を振ってからまた足を進めた。それ以降は振り返らなかった。
森の夜は次第に深く、旅立ちへと時が進んでゆく。
アラキナの号令により、いつの間にやら広場にはエルフが集まっていた。その中には、メルリアやクライヴ達が初めて見る顔も少なくはない。
「酒じゃ酒! 宴にするぞい!」
「あークソッ、こうなったら飲んでやる!」
「ちょっとちょっと、寝酒は体に悪いよー」
アラキナはまるで王族が人を扱き下ろすかのように杖を振るう。魔力の含んだその一振りによって、老婆はワインボトルを貯蔵庫から転移させた。五十年物の赤ワイン、フルボディ。アルコール度数およそ十五度。麦酒を呷る前のようにワイングラスを天に掲げると、それに同調したエルフが感嘆の声を上げた。
――ザックの一言によって、広場には十人ほどのエルフが顔を出してしまった。唐突に始まってしまった酒宴は夜明けまで続くだろう。
シャムロックは傍らに立つ二人の様子を窺う。呆然と立ち尽くす彼らは呆気にとられていた。とても話ができる状況ではない。いつの間にか広場にはテーブルが用意され、どこにあったか色とりどりの酒の肴が並ぶ。その喧噪を耳に、シャムロックは諦念のため息をついた。
「メルリア、クライヴ」
その言葉に二人は顔を上げる。一方は困ったように、もう一方は我に返ったように。
「きちんと話をしたかったが、どうも間が悪いようだな。こちらもあまり長居はできない」
メルリアは胸の前で手を握り、不安そうに彼の様子を窺う。対して、クライヴは強い視線で彼の赤い瞳を見つめ返す。両者とも口を挟まない。三人とエルフの間に見えない壁があるように、その黙然はこの場からすれば異質だった。
「俺の住んでいる場所――、夜半の屋敷に来ないか。そこできちんと話をしたい」
その言葉に、二人は目を丸くする。
数刻だけ間を置いて、メルリアが一歩前に出た。
「嬉しいです! 私、次はそちらに伺う予定で……!」
先に表情が変わったのはメルリアだった。満面の笑みを浮かべ声を弾ませる。
これでやっと旅が再開できる――その提案が胸の奥にじんわり染み入った。シャムロックに誘われるのはこれで二度目だ。一度目はせっかくの誘いを拭い難くも断った。だからこそ、今回差し伸べてくれた手を取れる喜びを感じていた。ネフリティスの言葉通りなら、夜半の屋敷へ向かえば祖母との約束に近づくし、今度こそエルヴィーラにも会える。曾祖父の話もしてくれるなら、自分の知らない祖母の話も聞けるかもしれない。何気ない会話から新しいきっかけが得られるかもしれない。それが楽しみで仕方なかった。
シャムロックはメルリアに微笑で返した後、表情を引き締める。
「クライヴはどうする?」
その言葉に、クライヴはゆっくりと顔を上げる。返事の代わりに曖昧に笑うと、どうするべきか口を閉ざす。驚きから困惑へと変化した表情は明るいものではない。
返事を待つシャムロックの瞳はなおも赤いが、たき火や自然の炎の赤とはどこか違う。深紅のそれは濃く深く、どこか冷たい印象を与える色でもあった。
クライヴの視線が迷い泳ぐ。彼の背後ではエルフ達がこぞって宴を始めていた。理由や名目は特にない。用意した椅子にはそれぞれのエルフが陣取っていたが、ぽっかりと一つだけ空いた席があった。来客が決まっているように、そこにはすでに酒の注がれたグラスが一つ用意されている。談笑と共に酒を飲み、時折つまみに手を出す様はどう見ても宴会のそれで、真面目な話をする空気には適さないだろう。今ではいけないのかと尋ねる気にはならなかった。
それに……。自然と視線がメルリアへ向く。彼女は誘いを迷いなく受け入れた。それどころか次はそこに向かう予定だとも言っている。心の底からこの男を信頼しているのだろう。であれば、自分が何を言っても無意味だ。この先、何があるか分からないけれど、分からないのならば……。一つ息をのむと、意を決して顔を上げる。
「分かった。俺も行く」
その言葉は力強くはっきりと響いた。
このままメルリアを一人で行かせるわけにはいかない――。かつて街道で出会った御者に向けたものと同じ感情を抱いていた。しかし今は、その決意に付随する感情も思いの深さも違う。
「……そうか」
金色の瞳に向けられた決意を受け取ると、シャムロックは静かに目を伏せた。
「また一緒に歩けるね」
メルリアがクライヴへと振り向く。背中の後ろで手を組み、微笑みかけた。その笑顔は無意識故の純粋なものだ。
「そ、そうだな」
シャムロックがいるとはいえ、また二人で過ごす時間が増えることになる――全く意識していなかった部分を意識させられ、妙な照れくささと居心地の悪さを感じ、クライヴの表情が強ばった。落ち着かない様子で手を揉みながら息を吐く。鼓動は乱れたままだ。
「……さて、と」
シャムロックは二人に背を向けると、懐から小ぶりな笛を取り出した。森の闇に向けて、短く低い音が響いた。その音はぼんやりと広がるように溶けていく。やがて、暗闇から一つの影が飛んできた。それは近くの枝に降り立つと翼を繕うと、はらりと何かを落とした。
クライヴとメルリアはその影をじっと見つめる。どうやら大形の鳥らしいと理解はできたが、それが何なのかは分からない。それが頭を上げると、鋭いくちばしがわずかに漏れる月の光を反射した。
「鴉……?」
鳴き声こそ知らないものの、長いくちばしと漆黒の色は、よく見たことのある鳥に似ている。メルリアが思わず口にすると、シャムロックは頷いた。
「あれは
「初めて見ました……」
メルリアは暗闇の中目をこらし、乙夜鴉と呼ばれた鳥の影をじっと見つめた。くちばし以外の部分はやはり森の闇に紛れてよく分からない。少しでもその姿を識別しようと、頭を左右に振ったり体を揺らしたりつま先立ちしてみたり。くちばしは自分のよく知る鴉と似ているみたい。羽の感じはどうなんだろう、色はやっぱり真っ黒だったりするのかな。鳴き声は同じなのだろうか、と興味深くその黒を見つめていた。
それを横目に、シャムロックは乙夜鴉が落とした荷物を拾い上げる。手のひらに収まるほど小さな鞄には一通の手紙が入っていた。四つ折りにしただけの簡単なそれを広げると、月夜に透かして文字を読む。黒いインクではっきりと書かれた文字を見るなり、表情が強ばっていく。その表情のまま、影が止まる枝を見上げて苦笑した。
「……怒っていたか?」
乙夜鴉は頷くようにくちばしを上下すると、同意のような鳴き声を漏らす。普通の鴉よりもずっと低く渋い声だった。
さてどうするべきかとシャムロックが顎に手を当てると、メルリアと目が合う。その目は好奇心で満ちていた。
「シャムロックさん、動物と会話ができるんですか?」
「どうだろうな……。正しく受け取れているか定かではないが、恐らくこちらの言葉は理解できているだろう。本来、鴉はとても賢い生き物だから」
言いながら背後に視線を向けると、同意のように乙夜鴉が低く鳴く。
まるで「そうだろう」と自賛しているように聞こえて、メルリアはくすりと笑った。すごいなあと称賛の意を抱き、シャムロックを、そして乙夜鴉のいるであろう闇に目を向ける。暗闇に目が慣れてもその姿を捉えることができない。それほどまでに森に溶け込んでいた。
「俺は屋敷へ手紙を書いてから休むことにする。二人も早く休んだ方がいい」
「はい、おやすみなさい」
メルリアは二人に挨拶を済ませると、広場をぐるりと迂回して、自分の借りるツリーハウスへと戻っていった。
クライヴはその間全く動かず、歩き続けるメルリアの背中に視線を送る。頭の中で考えているのは、彼女とは直接関係がないことだった。その姿が建物に消えた後も、扉の木目をただ見つめている。
「すまないな。俺が答えると言い出したにも拘わらず、随分と先延ばしになってしまった」
「……いや」
シャムロックの言葉を受け止めぬような空返事をひとつすると、広場の奥を見る。そこには、なおも続く宴模様が広がっていた。そのまま、その宴模様をぼんやりと見つめた。
「夜半の屋敷って、グローカスの外れの保護区だったよな」
「そうだ。知っているのか?」
「話だけ。あの辺りで遊ぶなって、子供の頃よく注意されてたから」
会話の本題はそこではない。お互いそれに気づきつつも、問うことはしなかった。
宴に華やぐエルフの面々の風景が滲んでいく。クライヴは何度か瞬きをして、目の焦点を正しく合わせた後、それらすべてから背を向けた。
「俺ももう休む」
「ああ、おやすみ」
クライヴは一度足を止める。しかし、何でもないと頭を振ってからまた足を進めた。それ以降は振り返らなかった。
森の夜は次第に深く、旅立ちへと時が進んでゆく。