第56話 そこは魔女の村4
文字数 2,940文字
空になった皿がテーブルの端に積み上げられる。その山を見つめながら、クライヴは呆然と目を閉じた。
色のキツイ料理の数々は、どれも自分の認識を疑うほど美味だった。
黄色のスープからは夏のカレーに似た味がしたし、目玉を思わせる芋の塊は今まで食べたことのないモチモチとした食感が面白い。皮独特の若干の苦みも彼の好きな味だった。キュウリのサンドイッチはパンの焼き加減がサクサクと香ばしく、見た目通り美味だった。問題のお化けリンゴは、その青々と毒々しい見た目からは想像もできないくらいの普通の味だ。リンゴ自体の薄味を、周囲のキャラメルがうまく補っていた。
「ほいっと、食後のお飲み物、どーぞ」
ガラス製の透明なティーカップに、リタが透明な液体を注いでいく。仕上げにとちぎったバジルの葉をさらさらと浮かべた後、クライヴに差し出した。ふわりとレモンの香りが漂う。狭いグラスの中で静かに揺れるそれは、まるで湖に浮かぶ睡蓮の葉のようだ。
……まともな色彩のものが出てきた。クライヴは安堵し、ティーカップに口をつける。鼻を抜ける柑橘の香りの後、わずかにベリーのような甘酸っぱい味が舌に残った。
「リタ。メルリアは起きてたか?」
その問いかけに、リタは首を横に振った。
「ううん。さっき見に行ったけど……。あの子、ずっと寝てるねえ」
リタは再びティーカップに口をつけ、手前のツリーハウスに視線を向けた。扉が開く様子がないと判断すると、ティーポットから二杯目を注ぐ。注ぎ口から潰れたブルーベリーが顔を出すと、リタはへにゃっと気の抜けた笑みを浮かべた。
……メルリア、まだ起きてないのか。クライヴは両眉を寄せた。透明なティーカップはテーブルの柔らかな木目の焦げ茶を、水のような甘い液体は森の裂け目の青を映し出す。穏やかに吹く風が、その中に散るバジルの葉を揺らした。
リタはティーカップをゆっくり傾け、底に溜まったブルーベリーをカップの中で転がす。それを見つめながら、ぽつりとつぶやいた。
「これは私の直感だけどさ。あの子、起きたくないんじゃないかなあ」
「え……」
クライヴは思わず顔を上げた。
しかし、リタはカップの底を見つめたままだ。彼女はクライヴのつぶやきを聞いていたが、気づかないふりをした。透明なティーカップの中に、先ほどまでの記憶が透けるように蘇る。
昨晩は酷くうなされていたし、体温も高く汗もかいていた。それに対して、翌朝はただただ静かに眠っていたし、表情は苦痛の色は見えない。呼吸も安定している。今朝のメルリアは落ち着いていた。目を覚まさないことが不思議なほどに。
リタはようやく顔を上げると、まじまじとこちらを見つめるクライヴを見て、へにゃりと笑った。
「まー、私も朝は苦手だし、起きたくないねえ。ずっとベッドでゴロゴロできたらいいよねえ。幸せだよねえ」
リタはのほほんと笑う。その表情は平和そのものであり、ゆっくりとした口調は周囲を和ませる。
しかし、クライヴはそうはいかなかった。険しい顔つきで、固く握りしめた自身の両手を見つめる。思い出すのは昨日――魔獣に襲われた時のことだ。魔獣に気づいたメルリアの表情をはっきりと覚えている。目を丸く見開き、口の端がわずかに震えていた。クライヴ自身がメルリアを庇った瞬間も、彼女の表情は固まったままだった。
起きたくないってどういうことだ? クライヴは首をひねる。直前に見たものが関係しているとしても、それだけでは腑に落ちない。そもそもメルリアが寝坊するというイメージがなかった。シーバからヴェルディグリへ共に向かう間、彼女は必ず約束の時間を守った。それも十分前に。私生活においてだらしない方ではないだろう――。
「魔獣に遭遇したショックで寝込むって話は珍しくないからねえ。まあ私、あの子と話したことないからよく分かんないけど。クライヴ、心当たりない?」
その言葉に、クライヴは考え込む。メルリアは祖母と約束した花を探している。それは不思議な花らしく、この間は詳しく聞かなかった。だから分からない――そこまで思い至ると、はっとする。思えば、喋るのは自分ばかりだった。メルリアは尋ねれば基本的には答えるが、あまり自分のことを話さず、クライヴのことを尋ねてばかり。年も分からないし、祖母以外の家族のことも知らないし、好きなものも趣味も分からない。クライヴは唇を噛んだ。
――思えば俺は、メルリアのことを何も知らないのだ。
クライヴは頭を振ると、ため息をついた。
「そっか……でも、そろそろ起こさないとまずいよね。あの子、なーんにも食べてないんだからさ」
メルリアがヴェルディグリを出たのは朝。魔獣に襲われたのはちょうど昼頃だ。つまり、あれから丸一日食事をとっていない事になる。
クライヴは顔を上げ、先ほどリタが見ていたツリーハウスに視線を向ける。扉は固く閉ざされたまま、やはり開かれる気配はない。階段から枯れ葉がコロコロと転がり落ちるだけだ。広場から見える範囲全てのツリーハウスの扉を確認したが、どれも変わった様子はない。クライヴは目を伏せた。
パチン、と、指が鳴る。
「儂が気付け薬を作ってやるかのぅ!」
今までだんまりと二人を窺っていたアラキナが、ぬっと椅子から立ち上がった。場に似合わぬ満面の笑みを浮かべると、乾いた音を響かせ手を叩く。その途端、底の深い黒い鍋が突然机の上に現れた。
「リタ、あの木からフィグフィルを取ってこい」
「やーめなさいって!」
リタは珍しく声を荒立てると、アラキナの背中を無遠慮に叩いた。非難するような視線を向けてから、肩を落とす。
クライヴには聞き慣れない単語だった。文脈から察するに植物なのだろうとは分かるが……。二人の様子を真剣に窺う。その強い視線に気づいたリタは、肩をすくめてため息をついた。
「端的に説明すると、惚れ薬の材料」
クライヴが目を見開くと、それを待っていたとばかりにアラキナがケラケラ笑った。
「そういう事言ってる場合じゃ……!」
クライヴの顔がかっと熱くなる。思わず声を尖らせそうになったが、感情を出し切る前に言葉を飲み込むことでやり過ごした。次第にその熱が沈黙と共に引いていく。ここで怒ったところで何の解決にもならないし、これではただの八つ当たりだ――。やり場のない感情を吐き出すように、クライヴは荒っぽいため息をついた。
「はーヤレヤレ。あの男に似て冗談が通じぬヤツじゃ」
「今回のはアラキナさんが悪いと思うよ」
反省する様子など一切見せず、キョキョキョと鳥のさえずりそっくりな奇妙な音で笑った後、アラキナは再び手を叩く。すると、テーブルの上に鎮座していた黒い鍋が瞬時に消えた。アラキナは憑き物が落ちたように無表情になると、椅子を押した。
「後はリタに任せるわい」
「はいはい」
アラキナはティーカップをテーブルの端によけると、ツリーハウスの間を通り、森の奥へと消えていった。黒いローブが森の影に紛れ、あっという間にその姿が消える。
それを確認すると、クライヴは大きく息を吐いた。気づかぬうちに肩が凝っていたようだ。凝りをほぐすように、右肩を、そして左肩をゆっくりと動かす。肩甲骨辺りが引っ張られたようにずしんと重く痛んだ。
色のキツイ料理の数々は、どれも自分の認識を疑うほど美味だった。
黄色のスープからは夏のカレーに似た味がしたし、目玉を思わせる芋の塊は今まで食べたことのないモチモチとした食感が面白い。皮独特の若干の苦みも彼の好きな味だった。キュウリのサンドイッチはパンの焼き加減がサクサクと香ばしく、見た目通り美味だった。問題のお化けリンゴは、その青々と毒々しい見た目からは想像もできないくらいの普通の味だ。リンゴ自体の薄味を、周囲のキャラメルがうまく補っていた。
「ほいっと、食後のお飲み物、どーぞ」
ガラス製の透明なティーカップに、リタが透明な液体を注いでいく。仕上げにとちぎったバジルの葉をさらさらと浮かべた後、クライヴに差し出した。ふわりとレモンの香りが漂う。狭いグラスの中で静かに揺れるそれは、まるで湖に浮かぶ睡蓮の葉のようだ。
……まともな色彩のものが出てきた。クライヴは安堵し、ティーカップに口をつける。鼻を抜ける柑橘の香りの後、わずかにベリーのような甘酸っぱい味が舌に残った。
「リタ。メルリアは起きてたか?」
その問いかけに、リタは首を横に振った。
「ううん。さっき見に行ったけど……。あの子、ずっと寝てるねえ」
リタは再びティーカップに口をつけ、手前のツリーハウスに視線を向けた。扉が開く様子がないと判断すると、ティーポットから二杯目を注ぐ。注ぎ口から潰れたブルーベリーが顔を出すと、リタはへにゃっと気の抜けた笑みを浮かべた。
……メルリア、まだ起きてないのか。クライヴは両眉を寄せた。透明なティーカップはテーブルの柔らかな木目の焦げ茶を、水のような甘い液体は森の裂け目の青を映し出す。穏やかに吹く風が、その中に散るバジルの葉を揺らした。
リタはティーカップをゆっくり傾け、底に溜まったブルーベリーをカップの中で転がす。それを見つめながら、ぽつりとつぶやいた。
「これは私の直感だけどさ。あの子、起きたくないんじゃないかなあ」
「え……」
クライヴは思わず顔を上げた。
しかし、リタはカップの底を見つめたままだ。彼女はクライヴのつぶやきを聞いていたが、気づかないふりをした。透明なティーカップの中に、先ほどまでの記憶が透けるように蘇る。
昨晩は酷くうなされていたし、体温も高く汗もかいていた。それに対して、翌朝はただただ静かに眠っていたし、表情は苦痛の色は見えない。呼吸も安定している。今朝のメルリアは落ち着いていた。目を覚まさないことが不思議なほどに。
リタはようやく顔を上げると、まじまじとこちらを見つめるクライヴを見て、へにゃりと笑った。
「まー、私も朝は苦手だし、起きたくないねえ。ずっとベッドでゴロゴロできたらいいよねえ。幸せだよねえ」
リタはのほほんと笑う。その表情は平和そのものであり、ゆっくりとした口調は周囲を和ませる。
しかし、クライヴはそうはいかなかった。険しい顔つきで、固く握りしめた自身の両手を見つめる。思い出すのは昨日――魔獣に襲われた時のことだ。魔獣に気づいたメルリアの表情をはっきりと覚えている。目を丸く見開き、口の端がわずかに震えていた。クライヴ自身がメルリアを庇った瞬間も、彼女の表情は固まったままだった。
起きたくないってどういうことだ? クライヴは首をひねる。直前に見たものが関係しているとしても、それだけでは腑に落ちない。そもそもメルリアが寝坊するというイメージがなかった。シーバからヴェルディグリへ共に向かう間、彼女は必ず約束の時間を守った。それも十分前に。私生活においてだらしない方ではないだろう――。
「魔獣に遭遇したショックで寝込むって話は珍しくないからねえ。まあ私、あの子と話したことないからよく分かんないけど。クライヴ、心当たりない?」
その言葉に、クライヴは考え込む。メルリアは祖母と約束した花を探している。それは不思議な花らしく、この間は詳しく聞かなかった。だから分からない――そこまで思い至ると、はっとする。思えば、喋るのは自分ばかりだった。メルリアは尋ねれば基本的には答えるが、あまり自分のことを話さず、クライヴのことを尋ねてばかり。年も分からないし、祖母以外の家族のことも知らないし、好きなものも趣味も分からない。クライヴは唇を噛んだ。
――思えば俺は、メルリアのことを何も知らないのだ。
クライヴは頭を振ると、ため息をついた。
「そっか……でも、そろそろ起こさないとまずいよね。あの子、なーんにも食べてないんだからさ」
メルリアがヴェルディグリを出たのは朝。魔獣に襲われたのはちょうど昼頃だ。つまり、あれから丸一日食事をとっていない事になる。
クライヴは顔を上げ、先ほどリタが見ていたツリーハウスに視線を向ける。扉は固く閉ざされたまま、やはり開かれる気配はない。階段から枯れ葉がコロコロと転がり落ちるだけだ。広場から見える範囲全てのツリーハウスの扉を確認したが、どれも変わった様子はない。クライヴは目を伏せた。
パチン、と、指が鳴る。
「儂が気付け薬を作ってやるかのぅ!」
今までだんまりと二人を窺っていたアラキナが、ぬっと椅子から立ち上がった。場に似合わぬ満面の笑みを浮かべると、乾いた音を響かせ手を叩く。その途端、底の深い黒い鍋が突然机の上に現れた。
「リタ、あの木からフィグフィルを取ってこい」
「やーめなさいって!」
リタは珍しく声を荒立てると、アラキナの背中を無遠慮に叩いた。非難するような視線を向けてから、肩を落とす。
クライヴには聞き慣れない単語だった。文脈から察するに植物なのだろうとは分かるが……。二人の様子を真剣に窺う。その強い視線に気づいたリタは、肩をすくめてため息をついた。
「端的に説明すると、惚れ薬の材料」
クライヴが目を見開くと、それを待っていたとばかりにアラキナがケラケラ笑った。
「そういう事言ってる場合じゃ……!」
クライヴの顔がかっと熱くなる。思わず声を尖らせそうになったが、感情を出し切る前に言葉を飲み込むことでやり過ごした。次第にその熱が沈黙と共に引いていく。ここで怒ったところで何の解決にもならないし、これではただの八つ当たりだ――。やり場のない感情を吐き出すように、クライヴは荒っぽいため息をついた。
「はーヤレヤレ。あの男に似て冗談が通じぬヤツじゃ」
「今回のはアラキナさんが悪いと思うよ」
反省する様子など一切見せず、キョキョキョと鳥のさえずりそっくりな奇妙な音で笑った後、アラキナは再び手を叩く。すると、テーブルの上に鎮座していた黒い鍋が瞬時に消えた。アラキナは憑き物が落ちたように無表情になると、椅子を押した。
「後はリタに任せるわい」
「はいはい」
アラキナはティーカップをテーブルの端によけると、ツリーハウスの間を通り、森の奥へと消えていった。黒いローブが森の影に紛れ、あっという間にその姿が消える。
それを確認すると、クライヴは大きく息を吐いた。気づかぬうちに肩が凝っていたようだ。凝りをほぐすように、右肩を、そして左肩をゆっくりと動かす。肩甲骨辺りが引っ張られたようにずしんと重く痛んだ。