第59話 クライヴとハル1
文字数 2,630文字
二人の姿を見送った後、クライヴは一つ息を吐いた。
これからどう話すべきかを考えていたのである。
まずはハルを知ることから。それと、人と接することについて、本人の意識を聞いた方がいいだろう。いいや、そもそもまずは起こすところからか。クライヴが意を決して振り返ると、微動だにしなかったハルがぬるりと起き上がった。頭は垂れたままで、腕をぶらぶらと左右に揺らすその様は、まるで本の世界に登場するミイラのようだった。クライヴの喉の奥で妙な音が鳴る。声は出さず、動揺をそのまま飲み込んだ。
ハルはそのままミイラのごとき動きで、クライヴに一歩一歩近づいてくる。
恐ろしさに似た感情を押し殺し、クライヴは極めて明るい声を作った。
「は、ハル? 気がついたのか」
裏返ったクライヴの声を聞くと、ハルはおもむろに顔を上げた。緑色の瞳が這い上がるようにクライヴを捉える。泥や土で、彼の白い肌が所々汚れていた。ミイラと言うより土から還った不死者に近いだろうか――などとクライヴが頭の片隅で考えていると、白く細い腕がクライヴに伸び、そのまま胸ぐらを弱々しく掴む。すっと静かに息を吸うと、ハルは顔を上げた。
「なんでッ! またッ! リタさんと親しげにッ!!」
そのままハルは手を上下に揺するが、クライヴの上体が動くことはない。ただ服の繊維が伸びたり縮んだりを繰り返すのみだ。力と筋肉の差が歴然としている。
「お、おい、落ち着けって」
胸ぐらをつかまれているということにすら気づかないクライヴは、どうどうとハルをなだめる。
ハルは手のひらに力を込めると、うつむいた。肩が上下に前後し、嗚咽を漏らす。頬に流れ落ちた涙を自分で拭うと、手の甲が茶色く汚れた。
クライヴはその隙にハルを引き剥がし、一歩後退して適切な距離をとる。
「うぅぅ……」
改めてハルが顔を上げると、彼は情けない表情で涙を浮かべていた。口は半開きであるし、目も半分閉じている。土に汚れた顔や衣服がみすぼらしい。言葉にならない声を漏らしながら、彼は鼻をすすった。
クライヴは一つ咳払いすると、未だ落ち着きを取り戻さないハルに言う。
「ハルにとって、リタってなんなんだ?」
「り、リタさんッ!」
リタという言葉を聞いた途端、ハルの動きがピタリと止まる。悲しみに歪んでいた表情が一転し、かあっと頬が紅潮した。しかしそれも一瞬のことで、次の瞬間にはぐいっと身を乗り出してくる。クライヴの体にハルの軽い体重が寄りかかる。
「リタさんは素晴らしい人です! 誰に対しても優しくて、分け隔てなく接してくださって!」
ハルの瞳は周囲の光を全て取り込まんと煌々と輝いていた。内から湧き上がる崇敬の念と、どくどくと高鳴る鼓動に任せて、彼はさらに言葉を続けていく。
「本国にいらっしゃった時からそうだったのですが、久しぶりに見えてもそれは全く変わらず……! 心と度量と器の広い方だと思いますっ! 魔力もすごく高いですし様々な魔法を知ってますし詠唱速度もとても速いですし」
ハルはクライヴと少し距離をとり、腕を大げさに天へと伸ばす。その先には森の奥、かすかに見える青空へと繋がっているかのようだ。青空に手をすかすハルの表情は極めて明るい。
人が変わったように饒舌なハルに、クライヴは圧倒されていた。どうにかして落ち着かせた方がいいのだろうが、その術が思いつかなかった。
クライヴは幼い頃から親戚や近所の子供の面倒をよく見ていた。だから、自分より若い外見であるハルの面倒は問題なく見れると思っていたのだ。しかし、現実はクライヴが思ったようにうまくはいかない。クライヴはこういうタイプの人種と関わるのは生まれて初めてのことだし、そもそもハルはクライヴよりも年上だ。エルフは長命な種族である。
「――というわけで、ご理解いただけましたか?!」
天を仰いでいたハルが、突然こちらに向き直る。その言葉にクライヴははっと我に返った。矢継ぎ早にあれこれ情報を叩きつけられ、頭が混乱していたのだ。ギラギラに光る目を見て、クライヴは苦笑した。曖昧にうなずくと、ハルが一歩距離を詰めてくる。
クライヴは悩んだ。これからどうするべきか。質問の意図は正しく伝わらなかったようだし、自分が求めている答えも得られなかった。だとすれば、単刀直入に聞くべきだろう。
にじり寄ってくるハルに、クライヴは慌てて口を開く。
「ハルって、リタとちゃんと話せてないみたいだろ? リタのこと、どう思ってるんだ?」
「……もう一度説明した方がいいですか?」
眉間にしわを寄せ、ハルは苦虫を噛み潰したような、明らかな嫌忌の表情を浮かべた。話を分かっていないと思われたのだろう、クライヴは彼の態度を見て、はっきりと否定する。
「そうじゃなくてさ……こう、シンプルでいいんだ。年上の人だから緊張するとか、ちょっと怖いと思ってるとか、はっきり言って苦手とか好きとか――」
「そっ、そんな畏れ多い、こと!」
ハルは思い切り裏返った声で否定すると、わっ、と両手で顔を覆った。先ほどまでのハルとは異なり、背中を丸めて小刻みに震えている。指の間から見える肌は完全に真っ赤に染まっている。よほど鈍い人物でなければ、顔に書いてある答えがはっきりと読み取れるであろう。
クライヴもそこまで鈍くはない。丸い背中に目をやった後、広場にできたハルの跡を見た。今までのハルから考えれば、さっきのあれは、「好きな人の目の前で好きな人の話をしていました」と本人に言ったようなものだ。悪いことをしてしまっただろうかとクライヴは息をつく。
ハルは己の顔を擦る。手のひらについた土汚れを漠然と眺めながら、やがて無表情でつぶやく。
「リタさん、神子様じゃなかったから結婚できるのか……」
クライヴはその言葉に振り返る。何やらぼそぼそとつぶやいていたせいで、そのつぶやきはクライヴの耳には届かなかった。
どうした、と手を伸ばしたその時、ハルは森の空に向けて拳を振り上げる。咄嗟にクライヴは指しだした手を引っ込めた。
「いける……!」
腹の底から絞り出したような低い声で呻くと、ハルは振り上げた拳をクライヴの右肩にずしんと乗せた。肩の骨が重みと衝撃で軽く痺れた。
「ぼくに会話を教えてください!」
ハルの目は希望の光に満ちあふれていた。
「お、おう……?」
話がおかしな方向に転がっていく。曖昧にうなずいたクライヴの口の端が、笑みを作るべきか否かの迷いでピクピクと震えていた。
これからどう話すべきかを考えていたのである。
まずはハルを知ることから。それと、人と接することについて、本人の意識を聞いた方がいいだろう。いいや、そもそもまずは起こすところからか。クライヴが意を決して振り返ると、微動だにしなかったハルがぬるりと起き上がった。頭は垂れたままで、腕をぶらぶらと左右に揺らすその様は、まるで本の世界に登場するミイラのようだった。クライヴの喉の奥で妙な音が鳴る。声は出さず、動揺をそのまま飲み込んだ。
ハルはそのままミイラのごとき動きで、クライヴに一歩一歩近づいてくる。
恐ろしさに似た感情を押し殺し、クライヴは極めて明るい声を作った。
「は、ハル? 気がついたのか」
裏返ったクライヴの声を聞くと、ハルはおもむろに顔を上げた。緑色の瞳が這い上がるようにクライヴを捉える。泥や土で、彼の白い肌が所々汚れていた。ミイラと言うより土から還った不死者に近いだろうか――などとクライヴが頭の片隅で考えていると、白く細い腕がクライヴに伸び、そのまま胸ぐらを弱々しく掴む。すっと静かに息を吸うと、ハルは顔を上げた。
「なんでッ! またッ! リタさんと親しげにッ!!」
そのままハルは手を上下に揺するが、クライヴの上体が動くことはない。ただ服の繊維が伸びたり縮んだりを繰り返すのみだ。力と筋肉の差が歴然としている。
「お、おい、落ち着けって」
胸ぐらをつかまれているということにすら気づかないクライヴは、どうどうとハルをなだめる。
ハルは手のひらに力を込めると、うつむいた。肩が上下に前後し、嗚咽を漏らす。頬に流れ落ちた涙を自分で拭うと、手の甲が茶色く汚れた。
クライヴはその隙にハルを引き剥がし、一歩後退して適切な距離をとる。
「うぅぅ……」
改めてハルが顔を上げると、彼は情けない表情で涙を浮かべていた。口は半開きであるし、目も半分閉じている。土に汚れた顔や衣服がみすぼらしい。言葉にならない声を漏らしながら、彼は鼻をすすった。
クライヴは一つ咳払いすると、未だ落ち着きを取り戻さないハルに言う。
「ハルにとって、リタってなんなんだ?」
「り、リタさんッ!」
リタという言葉を聞いた途端、ハルの動きがピタリと止まる。悲しみに歪んでいた表情が一転し、かあっと頬が紅潮した。しかしそれも一瞬のことで、次の瞬間にはぐいっと身を乗り出してくる。クライヴの体にハルの軽い体重が寄りかかる。
「リタさんは素晴らしい人です! 誰に対しても優しくて、分け隔てなく接してくださって!」
ハルの瞳は周囲の光を全て取り込まんと煌々と輝いていた。内から湧き上がる崇敬の念と、どくどくと高鳴る鼓動に任せて、彼はさらに言葉を続けていく。
「本国にいらっしゃった時からそうだったのですが、久しぶりに見えてもそれは全く変わらず……! 心と度量と器の広い方だと思いますっ! 魔力もすごく高いですし様々な魔法を知ってますし詠唱速度もとても速いですし」
ハルはクライヴと少し距離をとり、腕を大げさに天へと伸ばす。その先には森の奥、かすかに見える青空へと繋がっているかのようだ。青空に手をすかすハルの表情は極めて明るい。
人が変わったように饒舌なハルに、クライヴは圧倒されていた。どうにかして落ち着かせた方がいいのだろうが、その術が思いつかなかった。
クライヴは幼い頃から親戚や近所の子供の面倒をよく見ていた。だから、自分より若い外見であるハルの面倒は問題なく見れると思っていたのだ。しかし、現実はクライヴが思ったようにうまくはいかない。クライヴはこういうタイプの人種と関わるのは生まれて初めてのことだし、そもそもハルはクライヴよりも年上だ。エルフは長命な種族である。
「――というわけで、ご理解いただけましたか?!」
天を仰いでいたハルが、突然こちらに向き直る。その言葉にクライヴははっと我に返った。矢継ぎ早にあれこれ情報を叩きつけられ、頭が混乱していたのだ。ギラギラに光る目を見て、クライヴは苦笑した。曖昧にうなずくと、ハルが一歩距離を詰めてくる。
クライヴは悩んだ。これからどうするべきか。質問の意図は正しく伝わらなかったようだし、自分が求めている答えも得られなかった。だとすれば、単刀直入に聞くべきだろう。
にじり寄ってくるハルに、クライヴは慌てて口を開く。
「ハルって、リタとちゃんと話せてないみたいだろ? リタのこと、どう思ってるんだ?」
「……もう一度説明した方がいいですか?」
眉間にしわを寄せ、ハルは苦虫を噛み潰したような、明らかな嫌忌の表情を浮かべた。話を分かっていないと思われたのだろう、クライヴは彼の態度を見て、はっきりと否定する。
「そうじゃなくてさ……こう、シンプルでいいんだ。年上の人だから緊張するとか、ちょっと怖いと思ってるとか、はっきり言って苦手とか好きとか――」
「そっ、そんな畏れ多い、こと!」
ハルは思い切り裏返った声で否定すると、わっ、と両手で顔を覆った。先ほどまでのハルとは異なり、背中を丸めて小刻みに震えている。指の間から見える肌は完全に真っ赤に染まっている。よほど鈍い人物でなければ、顔に書いてある答えがはっきりと読み取れるであろう。
クライヴもそこまで鈍くはない。丸い背中に目をやった後、広場にできたハルの跡を見た。今までのハルから考えれば、さっきのあれは、「好きな人の目の前で好きな人の話をしていました」と本人に言ったようなものだ。悪いことをしてしまっただろうかとクライヴは息をつく。
ハルは己の顔を擦る。手のひらについた土汚れを漠然と眺めながら、やがて無表情でつぶやく。
「リタさん、神子様じゃなかったから結婚できるのか……」
クライヴはその言葉に振り返る。何やらぼそぼそとつぶやいていたせいで、そのつぶやきはクライヴの耳には届かなかった。
どうした、と手を伸ばしたその時、ハルは森の空に向けて拳を振り上げる。咄嗟にクライヴは指しだした手を引っ込めた。
「いける……!」
腹の底から絞り出したような低い声で呻くと、ハルは振り上げた拳をクライヴの右肩にずしんと乗せた。肩の骨が重みと衝撃で軽く痺れた。
「ぼくに会話を教えてください!」
ハルの目は希望の光に満ちあふれていた。
「お、おう……?」
話がおかしな方向に転がっていく。曖昧にうなずいたクライヴの口の端が、笑みを作るべきか否かの迷いでピクピクと震えていた。