第23話 ヴェルディグリの朝
文字数 2,136文字
メルリアは、都市ヴェルディグリで初めての朝を迎えた。
普段よりゆっくりと朝食をとった後、宿の中でのんびりと時間を潰す。時計の針が九時四十分を指し示すと、宿を飛び出し、中央図書館へ向かった。開館とほぼ同時に入館できることを目指して。
ここまで張り切っているのには理由がある。
あの後、メルリアはまっすぐにヴェルディグリ中央図書館へ向かった。しかし、メルリアはヴェルディグリに来るのが初めてだ。案内板を見落とし、いつの間にか大通りから外れていた。どうやらこの道ではないらしい。そう気づいたのは、住宅街の半ばまで入り込んだ時だった。
図書館にたどり着いたのは午後六時五十分。中央図書館は午後七時までしか開いていない。司書の男に「もう閉まるから帰ってください」と冷たく突き放され、宿に戻らざるを得なかったのだ。
昨日は外しか見ることができなかったけれど、今日は一日中いられる! メルリアは期待を胸に、昨日クライヴと別れた中央広場までやってきた。噴水の周囲には、三脚ほどベンチが設置されている。椅子に腰掛け、噴水の水を眺めるお年寄りに、噴水の水に触れようとする子ども、それを止める母親。のどかに過ごす人々を横目に、メルリアは改めて案内板を確認した。日暮れ時に見る景色と朝見る景色は異なる。昨日の出来事を繰り返さないためにも、念入りに。メルリアは周囲に気を配りながら、中央図書館を目指した。
ヴェルディグリ中央図書館——そこは、二十四万冊余りの本が貯蔵される、ヴィリディアン国最大の図書館である。中央にぽっかり空いたホールを囲うように、焦げ茶色の本棚が円を描くように配置されている。一階も二階も同じレイアウトだ。本棚によっては、メルリアの身長では頑張って手を伸ばしても届かないような高さの棚がいくつも存在していた。
まるで本の世界に吸い込まれるようだ。メルリアは入り口でしばらく立ち止まってしまう。そんな彼女の横を、男が鬱陶しそうに通り過ぎていく。男の舌打ちを耳にすると、メルリアは慌てて歩き出した。
濃い赤のカーペットを進むメルリアは、音のない空間を歩いた。不思議な感覚だった。まるで、教会の礼拝堂にいるかのようで、身が引き締まる。人が声をひそめて話す音は、別の利用者が本を戻す音にかき消され、メルリアの耳に言葉としては届かない。本棚の本を取り出すのと同じように、時計の秒針が刻むように、それらは雑音でしかなかった。
図書の案内を見つけると、案内板に目を通す。専門書、経済書、歴史書、世界の本、小説、絵本、童話——図鑑。それが視界に入ると、メルリアの表情が明るく変わった。メルリアは地図を凝視する。配置図を記憶するためだ。図鑑は二階、小説の棚の近く。歴史書の隣。頭の中で復唱し、階段を探して歩き始める。
棚から花の図鑑を見つけると、メルリアは一つ息を吐いた。なるべく音を立てないように配慮した、細く小さいため息だ。本にゆっくりと手をかけ、本棚から引き抜いていく。本棚にぽっかりとした空白ができると、メルリアの両手にずっしりとした重みがのしかかった。五百ページを軽く超えるその重さに息をつく。メルリアは図鑑を抱えながら、濃い緑色の表紙をじっと見つめた。きちんとした図鑑を見るのも、手に取るのも初めてのことだった。祖母の家にあった本は、どれも大人向けの難しい本ばかり。子供であったメルリアが理解できる本は、二十にも満たなかった。
図鑑がここまで重たいものだったなんて——メルリアは驚く。それと同時に、両手に感じる重さに確かな期待を覚えていた。ここまで分厚い本の中には、どれだけの情報が詰まっているんだろう。楽しみで仕方がなかった。
メルリアは読書スペースの机の上に図鑑をゆっくりと置くと、椅子に腰掛けた。
己の手が震えていることに気づき、メルリアは本を開く前に一つ深呼吸をする。しかし、それだけでは収まらず、心臓の鼓動は相変わらず早いままだ。メルリアは一つ息をのみ、分厚い本の薄いページを開いた。
飛び込んできた図鑑のページに、メルリアはあっと口を開く。喉の奥から無意識に声が漏れ、急いで口を閉ざした。周囲を見回すが、あたりに人はいない。ほっと胸をなで下ろし、メルリアは食い入るように本の中を見つめた。
大きく印刷された花の名前の隣には、ページの四分の一のスペースをとっている花の絵があった。繊細なタッチで、一枚一枚の花弁や葉脈がくっきりと描かれている。メルリアはその細やかな絵に目を奪われていた。まるで本の中に本物の花が咲いているように見えたからだ。
ふと、祖母の好きだった花のことを思い出す。メルリアは一枚一枚丁寧にページをめくり、バラのページを開いた。飛び込んできた絵の奥に、ロバータが白い薔薇を手に笑う姿を重ね合わせる。この図鑑に色はない。しかし紙の色の白は確かにそこにある。メルリアは唇をぎゅっと結ぶと、もう一度本の表紙を見つめる。
……絶対、私が生きているうちに探し出すから。おばあちゃん、待っててね。
記憶と違っていても構わない。まずは図鑑に載っている花の特徴や色をすべて確認するところからだ。
メルリアは丁寧に図鑑を読み込んでいった。
必ず手がかりを見つけると信じて。
普段よりゆっくりと朝食をとった後、宿の中でのんびりと時間を潰す。時計の針が九時四十分を指し示すと、宿を飛び出し、中央図書館へ向かった。開館とほぼ同時に入館できることを目指して。
ここまで張り切っているのには理由がある。
あの後、メルリアはまっすぐにヴェルディグリ中央図書館へ向かった。しかし、メルリアはヴェルディグリに来るのが初めてだ。案内板を見落とし、いつの間にか大通りから外れていた。どうやらこの道ではないらしい。そう気づいたのは、住宅街の半ばまで入り込んだ時だった。
図書館にたどり着いたのは午後六時五十分。中央図書館は午後七時までしか開いていない。司書の男に「もう閉まるから帰ってください」と冷たく突き放され、宿に戻らざるを得なかったのだ。
昨日は外しか見ることができなかったけれど、今日は一日中いられる! メルリアは期待を胸に、昨日クライヴと別れた中央広場までやってきた。噴水の周囲には、三脚ほどベンチが設置されている。椅子に腰掛け、噴水の水を眺めるお年寄りに、噴水の水に触れようとする子ども、それを止める母親。のどかに過ごす人々を横目に、メルリアは改めて案内板を確認した。日暮れ時に見る景色と朝見る景色は異なる。昨日の出来事を繰り返さないためにも、念入りに。メルリアは周囲に気を配りながら、中央図書館を目指した。
ヴェルディグリ中央図書館——そこは、二十四万冊余りの本が貯蔵される、ヴィリディアン国最大の図書館である。中央にぽっかり空いたホールを囲うように、焦げ茶色の本棚が円を描くように配置されている。一階も二階も同じレイアウトだ。本棚によっては、メルリアの身長では頑張って手を伸ばしても届かないような高さの棚がいくつも存在していた。
まるで本の世界に吸い込まれるようだ。メルリアは入り口でしばらく立ち止まってしまう。そんな彼女の横を、男が鬱陶しそうに通り過ぎていく。男の舌打ちを耳にすると、メルリアは慌てて歩き出した。
濃い赤のカーペットを進むメルリアは、音のない空間を歩いた。不思議な感覚だった。まるで、教会の礼拝堂にいるかのようで、身が引き締まる。人が声をひそめて話す音は、別の利用者が本を戻す音にかき消され、メルリアの耳に言葉としては届かない。本棚の本を取り出すのと同じように、時計の秒針が刻むように、それらは雑音でしかなかった。
図書の案内を見つけると、案内板に目を通す。専門書、経済書、歴史書、世界の本、小説、絵本、童話——図鑑。それが視界に入ると、メルリアの表情が明るく変わった。メルリアは地図を凝視する。配置図を記憶するためだ。図鑑は二階、小説の棚の近く。歴史書の隣。頭の中で復唱し、階段を探して歩き始める。
棚から花の図鑑を見つけると、メルリアは一つ息を吐いた。なるべく音を立てないように配慮した、細く小さいため息だ。本にゆっくりと手をかけ、本棚から引き抜いていく。本棚にぽっかりとした空白ができると、メルリアの両手にずっしりとした重みがのしかかった。五百ページを軽く超えるその重さに息をつく。メルリアは図鑑を抱えながら、濃い緑色の表紙をじっと見つめた。きちんとした図鑑を見るのも、手に取るのも初めてのことだった。祖母の家にあった本は、どれも大人向けの難しい本ばかり。子供であったメルリアが理解できる本は、二十にも満たなかった。
図鑑がここまで重たいものだったなんて——メルリアは驚く。それと同時に、両手に感じる重さに確かな期待を覚えていた。ここまで分厚い本の中には、どれだけの情報が詰まっているんだろう。楽しみで仕方がなかった。
メルリアは読書スペースの机の上に図鑑をゆっくりと置くと、椅子に腰掛けた。
己の手が震えていることに気づき、メルリアは本を開く前に一つ深呼吸をする。しかし、それだけでは収まらず、心臓の鼓動は相変わらず早いままだ。メルリアは一つ息をのみ、分厚い本の薄いページを開いた。
飛び込んできた図鑑のページに、メルリアはあっと口を開く。喉の奥から無意識に声が漏れ、急いで口を閉ざした。周囲を見回すが、あたりに人はいない。ほっと胸をなで下ろし、メルリアは食い入るように本の中を見つめた。
大きく印刷された花の名前の隣には、ページの四分の一のスペースをとっている花の絵があった。繊細なタッチで、一枚一枚の花弁や葉脈がくっきりと描かれている。メルリアはその細やかな絵に目を奪われていた。まるで本の中に本物の花が咲いているように見えたからだ。
ふと、祖母の好きだった花のことを思い出す。メルリアは一枚一枚丁寧にページをめくり、バラのページを開いた。飛び込んできた絵の奥に、ロバータが白い薔薇を手に笑う姿を重ね合わせる。この図鑑に色はない。しかし紙の色の白は確かにそこにある。メルリアは唇をぎゅっと結ぶと、もう一度本の表紙を見つめる。
……絶対、私が生きているうちに探し出すから。おばあちゃん、待っててね。
記憶と違っていても構わない。まずは図鑑に載っている花の特徴や色をすべて確認するところからだ。
メルリアは丁寧に図鑑を読み込んでいった。
必ず手がかりを見つけると信じて。