第42話 最後の仕事1
文字数 3,213文字
メルリアがネフリティスの工房に戻ったのは、日が暮れてしばらく経ってからだった。
メルリアは扉をノックし声をかける。返ってくる声も音もない。ネフリティスが仕事に忙しい時はいつもこうだった。だから今日もそうなのだろう、とメルリアはゆっくり扉を開けた。相変わらず玄関は薄暗く、昨日訪れた左手の廊下からわずかに光が漏れるのみだ。
「……失礼します」
小さく呟いてから、工房に足を踏み入れた。
あの後、イリスとは店を出てすぐに別れた。久しぶりにヴェルディグリを探索するのだという。「変なのに絡まれるんじゃないわよ、次は助けられないからね」と念を押され、イリスはまだ空色が残るヴェルディグリの中へ消えていった。メルリアはというと、なるべく大きくて人通りの多い道を選びながら都市を回っていた。図書館の前まで足を運んだが、中を見ることはしなかった。御者の男が話していたヒガンザカという作家の小説も気にはなったが、本を読む気分ではなかった。そのまま図書館の正面を真っ直ぐ向かうと、噴水広場にたどり着く。行き交う人々、ベンチに座る人々の顔をつい目で追ってしまうが、そこに見知った人物はいない。黄昏の空を日暮れまで見届けた後、シャノワールで軽い夕飯を済ませる。この店を選んだのは無意識だった。
工房には相変わらず物音がない。ネフリティスは一人で仕事をしていた。声が聞こえないのはまだ分かるが――メルリアは周囲をぐるりと見回す。左手の通路からは光が漏れていた。右手には明かりが灯っておらず、暗闇が広がっている。夕飯はきちんと食べただろうか――ネフリティスを案じていると、カチリ、カチリ、と、時計の秒針らしい音が鳴った。
「まただ……」
メルリアは再び周囲を見回す。玄関に明かりがないせいで、足下以外はほとんど何も見えない。暗闇の中でなんとか目をこらす。ぼんやりとしか判別できないが、やはり壁には家具らしいものは見当たらなかった。
――それ、時の魔術の音よ。
昼間、イリスに聞いた言葉を思い出す。途端に耳に入る秒針の音が変わっていることに気づいた。カチリ、カチリという秒針に似た音自体はそのままに、音が大きく聞こえたり小さく聞こえたり、刻む音の速度が変わったり。
明らかに何かがおかしい。メルリアは急いで仕事場へと向かった。
「ただいま戻りました」
「入っていいぞ。遅かったな」
その言葉を合図に仕事場へ足を踏み入れると、彼女は相変わらず自分のペースで作業をしていた。アルコールランプでビーカーの桃色の液体を煮ながら、緑色の草をすり鉢で潰す。その様子は、さながら魔女の仕事場だ。
ここまで全力で走ったメルリアは、肩で大きな息を繰り返した。仕事中のネフリティスにも十分聞こえる息切れだったが、やはりそれでも彼女は振り返らなかった。ただただ淡々と手先を動かし、草を粉に変えていく。
「あの、聞きたいことが……」
ネフリティスの手が止まった。ぐつぐつと煮える液体にチラリと目を向けた後、一つため息をつく。
「お前、魔術が扱える人間をどう思う?」
メルリアは出かかっていた言葉を飲み込み、ネフリティスに答える。
「やっぱり、羨ましいなと思います」
答えは決まっていた。
自分にはその才能がないが、ある人にはある。魔獣を倒す強い魔術士。旅先で見つけた空を飛ぶ配達業の人。灯台祭で灯台に灯りをつけた顔見知りの人。エルフと人間の使うそれは性質が異なるらしいが、どちらにしてもメルリアにとっては憧れだった。
「人間の魔術は科学に近い。人間の魔力というのは、元素を集める力があるかどうかだ。我々の魔法とは似て非なる物だな」
「それは、把握しています」
「そうか」
メルリアに背を向けたまま、ネフリティスは作業を再開した。アルコールランプを消すと、ビーカーに煮えたぎっていた桃色の液体を、フラスコの中へゆっくり注いでいく。
「まぁ、限りなく近い事象を起こすこともあるから、よく混同されるんだが」
フラスコから細く長い湯気が立つ。ネフリティスは、周囲に溶け消えるそれを見つめていた。
「ここでその是非を問うつもりはないが……。私は、人間は魔術を扱えるべきではないと思う」
「え……」
その言葉に、メルリアは思わず目を丸くした。
人間は魔術が使える個体もいる、というのは常識だ。神話の世界でも、実在する最古の日記でも、人間は魔術を使っていた。才能や程度の差はあれど、それは当たり前に存在している。
ネフリティスはそれ以上何も言わず、仕事の手を進める。目の前のフラスコからはすっかり湯気が消えていた。それを見計らい、先ほどすり潰した草を少量加えた。途端に煙が上がるが、それは煙と言うより湯気に近い形状だった。
「人間の魔力は――すなわち元素を扱う力は、強すぎるとそれに飲み込まれるんだ。存在するものを扱うから抑えようがない。飲み込まれたが最後、本人の意識は消える」
ネフリティスはそのまま手を動かし、先の作業を続けた。湯気が立つ程度を意識しつつ、慎重に。
「エルフの魔力と違って、暴走の可能性があるからこそ使えるべきではないと思うし……、素質がない人間は幸せだと思う」
フラスコから浮かぶ煙の量が、わずかに増えた。しかしまたか細く変わり、ゆらゆらと部屋の天上へと昇っていく。ネフリティスもメルリアも、上っていく煙をただただ見つめていた。片方は伏し目がちに、片方はただ立ち尽くして。
やがて立ち上っていた煙が、空気に溶けるよう消えていく。それを見届けた後、ネフリティスは一つため息をつく。
「以前、私の弟子は魔術が使える――そう教えたよな」
彼女はそれ以上、何も言わなかった。
メルリアは気づいてしまった。先日、そして今の話は、自分の漠然とした経験の集約ではなく、特定の誰かを指して言ったこと。その誰かが誰なのかも。短く息を吸うと、胸の奥がズキリと痛んだ。
ネフリティスは棚から長方形の紙を取り出す。それを横に広げると、コンパスを使って大きな円を描いた。
「メルリア、最後の仕事だ」
ぶらぶらと雑に手を振って、メルリアを手招きする。彼女は黙ってうなずいた。
ネフリティスの元へ駆け寄ったメルリアは、とても悲痛な表情をしていた。彼女の弟子と会ってもいないのに、古くからの知り合いが重い病にかかったと知った時のような――。それを見かねたネフリティスは、ペンをテーブルの上に置いた。
「……なんだその顔は」
メルリアの両方の頬をつまんで伸ばすと、彼女の顔が溶けたチーズのような形になった。正直不細工にはなったが、普段の動きや様子を思うと意外にこの顔も似合うな、とネフリティスは真顔で見つめる。
「ちょっひょいひゃいれす」
「ヒョイヒョイ鳴くな。何を言っているかさっぱり分からん」
ちょっと痛いですって言ったんです、ネフリティスさんが頬を引っ張るせいでちゃんと喋れないんです、と、抗議しようとしたが、やめた。いつもと同じようにあしらわれるのは目に見えていたし、今は何を言おうとしても伝わらないだろう。現に数時間前、似たようなことがあった。今とは立場が真逆であったが。
ネフリティスはやれやれとため息をついた。溶けたチーズみたいな顔のメルリアの瞳がわずかに潤んでいる事に気づいたからだ。この涙は物理的な痛みからくるものではない。この件を黙っていたのは自分なのに、どうしてこんな表情をするのか。
メルリアの頬から手を離すと、そこに二つの赤い点ができた。ネフリティスは調子が狂うなと頭をかく。
「気が進まないが、まあ決まり事は決まり事だ。メルリア、今一度頼むが」
ネフリティスはわざとらしく咳払いを一つすると、困ったように笑う。それは心の奥に潜む苦しさを誤魔化しきれない顔だった。
「弟子の魔力の暴走を押さえるための魔法具を作りたい。それにはお前の力が必要だ。手伝ってくれるか」
「……はい!」
その願いに、メルリアは確かにうなずいた。
メルリアは扉をノックし声をかける。返ってくる声も音もない。ネフリティスが仕事に忙しい時はいつもこうだった。だから今日もそうなのだろう、とメルリアはゆっくり扉を開けた。相変わらず玄関は薄暗く、昨日訪れた左手の廊下からわずかに光が漏れるのみだ。
「……失礼します」
小さく呟いてから、工房に足を踏み入れた。
あの後、イリスとは店を出てすぐに別れた。久しぶりにヴェルディグリを探索するのだという。「変なのに絡まれるんじゃないわよ、次は助けられないからね」と念を押され、イリスはまだ空色が残るヴェルディグリの中へ消えていった。メルリアはというと、なるべく大きくて人通りの多い道を選びながら都市を回っていた。図書館の前まで足を運んだが、中を見ることはしなかった。御者の男が話していたヒガンザカという作家の小説も気にはなったが、本を読む気分ではなかった。そのまま図書館の正面を真っ直ぐ向かうと、噴水広場にたどり着く。行き交う人々、ベンチに座る人々の顔をつい目で追ってしまうが、そこに見知った人物はいない。黄昏の空を日暮れまで見届けた後、シャノワールで軽い夕飯を済ませる。この店を選んだのは無意識だった。
工房には相変わらず物音がない。ネフリティスは一人で仕事をしていた。声が聞こえないのはまだ分かるが――メルリアは周囲をぐるりと見回す。左手の通路からは光が漏れていた。右手には明かりが灯っておらず、暗闇が広がっている。夕飯はきちんと食べただろうか――ネフリティスを案じていると、カチリ、カチリ、と、時計の秒針らしい音が鳴った。
「まただ……」
メルリアは再び周囲を見回す。玄関に明かりがないせいで、足下以外はほとんど何も見えない。暗闇の中でなんとか目をこらす。ぼんやりとしか判別できないが、やはり壁には家具らしいものは見当たらなかった。
――それ、時の魔術の音よ。
昼間、イリスに聞いた言葉を思い出す。途端に耳に入る秒針の音が変わっていることに気づいた。カチリ、カチリという秒針に似た音自体はそのままに、音が大きく聞こえたり小さく聞こえたり、刻む音の速度が変わったり。
明らかに何かがおかしい。メルリアは急いで仕事場へと向かった。
「ただいま戻りました」
「入っていいぞ。遅かったな」
その言葉を合図に仕事場へ足を踏み入れると、彼女は相変わらず自分のペースで作業をしていた。アルコールランプでビーカーの桃色の液体を煮ながら、緑色の草をすり鉢で潰す。その様子は、さながら魔女の仕事場だ。
ここまで全力で走ったメルリアは、肩で大きな息を繰り返した。仕事中のネフリティスにも十分聞こえる息切れだったが、やはりそれでも彼女は振り返らなかった。ただただ淡々と手先を動かし、草を粉に変えていく。
「あの、聞きたいことが……」
ネフリティスの手が止まった。ぐつぐつと煮える液体にチラリと目を向けた後、一つため息をつく。
「お前、魔術が扱える人間をどう思う?」
メルリアは出かかっていた言葉を飲み込み、ネフリティスに答える。
「やっぱり、羨ましいなと思います」
答えは決まっていた。
自分にはその才能がないが、ある人にはある。魔獣を倒す強い魔術士。旅先で見つけた空を飛ぶ配達業の人。灯台祭で灯台に灯りをつけた顔見知りの人。エルフと人間の使うそれは性質が異なるらしいが、どちらにしてもメルリアにとっては憧れだった。
「人間の魔術は科学に近い。人間の魔力というのは、元素を集める力があるかどうかだ。我々の魔法とは似て非なる物だな」
「それは、把握しています」
「そうか」
メルリアに背を向けたまま、ネフリティスは作業を再開した。アルコールランプを消すと、ビーカーに煮えたぎっていた桃色の液体を、フラスコの中へゆっくり注いでいく。
「まぁ、限りなく近い事象を起こすこともあるから、よく混同されるんだが」
フラスコから細く長い湯気が立つ。ネフリティスは、周囲に溶け消えるそれを見つめていた。
「ここでその是非を問うつもりはないが……。私は、人間は魔術を扱えるべきではないと思う」
「え……」
その言葉に、メルリアは思わず目を丸くした。
人間は魔術が使える個体もいる、というのは常識だ。神話の世界でも、実在する最古の日記でも、人間は魔術を使っていた。才能や程度の差はあれど、それは当たり前に存在している。
ネフリティスはそれ以上何も言わず、仕事の手を進める。目の前のフラスコからはすっかり湯気が消えていた。それを見計らい、先ほどすり潰した草を少量加えた。途端に煙が上がるが、それは煙と言うより湯気に近い形状だった。
「人間の魔力は――すなわち元素を扱う力は、強すぎるとそれに飲み込まれるんだ。存在するものを扱うから抑えようがない。飲み込まれたが最後、本人の意識は消える」
ネフリティスはそのまま手を動かし、先の作業を続けた。湯気が立つ程度を意識しつつ、慎重に。
「エルフの魔力と違って、暴走の可能性があるからこそ使えるべきではないと思うし……、素質がない人間は幸せだと思う」
フラスコから浮かぶ煙の量が、わずかに増えた。しかしまたか細く変わり、ゆらゆらと部屋の天上へと昇っていく。ネフリティスもメルリアも、上っていく煙をただただ見つめていた。片方は伏し目がちに、片方はただ立ち尽くして。
やがて立ち上っていた煙が、空気に溶けるよう消えていく。それを見届けた後、ネフリティスは一つため息をつく。
「以前、私の弟子は魔術が使える――そう教えたよな」
彼女はそれ以上、何も言わなかった。
メルリアは気づいてしまった。先日、そして今の話は、自分の漠然とした経験の集約ではなく、特定の誰かを指して言ったこと。その誰かが誰なのかも。短く息を吸うと、胸の奥がズキリと痛んだ。
ネフリティスは棚から長方形の紙を取り出す。それを横に広げると、コンパスを使って大きな円を描いた。
「メルリア、最後の仕事だ」
ぶらぶらと雑に手を振って、メルリアを手招きする。彼女は黙ってうなずいた。
ネフリティスの元へ駆け寄ったメルリアは、とても悲痛な表情をしていた。彼女の弟子と会ってもいないのに、古くからの知り合いが重い病にかかったと知った時のような――。それを見かねたネフリティスは、ペンをテーブルの上に置いた。
「……なんだその顔は」
メルリアの両方の頬をつまんで伸ばすと、彼女の顔が溶けたチーズのような形になった。正直不細工にはなったが、普段の動きや様子を思うと意外にこの顔も似合うな、とネフリティスは真顔で見つめる。
「ちょっひょいひゃいれす」
「ヒョイヒョイ鳴くな。何を言っているかさっぱり分からん」
ちょっと痛いですって言ったんです、ネフリティスさんが頬を引っ張るせいでちゃんと喋れないんです、と、抗議しようとしたが、やめた。いつもと同じようにあしらわれるのは目に見えていたし、今は何を言おうとしても伝わらないだろう。現に数時間前、似たようなことがあった。今とは立場が真逆であったが。
ネフリティスはやれやれとため息をついた。溶けたチーズみたいな顔のメルリアの瞳がわずかに潤んでいる事に気づいたからだ。この涙は物理的な痛みからくるものではない。この件を黙っていたのは自分なのに、どうしてこんな表情をするのか。
メルリアの頬から手を離すと、そこに二つの赤い点ができた。ネフリティスは調子が狂うなと頭をかく。
「気が進まないが、まあ決まり事は決まり事だ。メルリア、今一度頼むが」
ネフリティスはわざとらしく咳払いを一つすると、困ったように笑う。それは心の奥に潜む苦しさを誤魔化しきれない顔だった。
「弟子の魔力の暴走を押さえるための魔法具を作りたい。それにはお前の力が必要だ。手伝ってくれるか」
「……はい!」
その願いに、メルリアは確かにうなずいた。