第89話 淡く白く導く

文字数 4,033文字

 足音が完全に消えた後、メルリアは足下にいる乙夜鴉へ視線を向けた。彼はちょこんとそこにとまったままこちらを見上げている。精巧な彫刻のように微動だにしない。
 メルリアはどうしたらいいのか少し迷っていた。鴉の扱いがよく分からないのである。普通の鴉は夕刻の空を飛んでいたり、家の屋根で羽を休めていたり、道すがら何かをついばんでいるイメージがある。間近でその姿を目にしたことはあるが、だからといって特別近づくことはなかった。しかし、シャムロック曰く彼らはとても賢い生き物だという。事実シャムロックの言葉を理解しているようなそぶりはあったし、彼も「こちらの言葉は理解できているだろう」と言っていた。だとすれば、自分も同じようにすべきかもしれない。メルリアはごくりと唾を飲み込むと、恐る恐る乙夜鴉に問いかけた。
「えぇっと……、それじゃあ道案内よろしくお願いします」
 これでこのまま動かなかったらどうしよう――と不安になったが、その不安は足下の音でかき消される。返事をするように乙夜鴉は低く艶のある声で鳴いたのだ。鴉にしてはやたらと色気のある声だ。例によって彼なりのいい声のつもりである。そのまま漆黒の翼を羽ばたかせ、メルリアの周りを二、三周ぐるりと回る。やがて彼は進路を変え、薄く開いた大窓の外へと飛び去ってしまった。
「あ、えっ……!?」
 咄嗟に手を伸ばすが当然届くはずもなく、屋敷の中にはメルリアだけが取り残される。窓の外では、キィキィとコウモリが突然騒ぎ出した。その声を治めるように乙夜鴉は低い声で一鳴きすると、その騒ぎは嘘のように消えた。同時に、大窓から飛び立った乙夜鴉が姿を現す。嘴には広場に咲き誇っていた月満草をくわえていた。それはぼんやりと光っており、暗闇の中でもその存在をはっきりと知らせてくれる。
「採ってきてくれたの? ありがとう」
 口が塞がっているせいで乙夜鴉は鳴くことができないが、堂々と胸を張っている姿がなんとなく見て取れた。どうやら彼は本当に人の言葉を理解できるようだ。疑っていたわけではないけれど――自分の言葉がきちんと通じた事にメルリアは安堵した。ああ言ってしまった手前、どうしたらいいかとシャムロックに聞きに行く事はできないのだ。
 乙夜鴉は進行方向を向けというように嘴を向ける。月満草が光の粒子を零し、それが軌跡となって一つの線を描いた。
 メルリアは彼に導かれるまま、屋敷の階段を一段一段ゆっくりと降りていった。

 やがて最後の一段を下り、エントランスへと戻る。あの時は四人、そして今は一人と一羽だ。乙夜鴉は闇の空間に一筋の光の線を描きながら旋回していた。そのたびに、エントランスの壁面の形や明かりのない室内灯の姿があらわになる。時々額縁の中の絵画をも映し出した。幸いにも、ここには人物の顔が堂々と描かれた彫刻や肖像画の類いは見当たらなかった。もしそんなもの暗闇の中から這い出るよう浮かび上がっていたら……。考えるだけで彼女の背筋に悪寒が走る。慌てて頭を振り、その空想を振り切った。
 エントランスをぐるりと回る乙夜鴉は、やがてこちらだと言うように左方の廊下に降り立った。シャムロック曰く、ウェンディは一階奥の客室で待っているという。中庭とは正反対の道だ。
 メルリアは乙夜鴉の待つ左方の廊下を見つめた。月満草の光では、その奥を見通すことはできない。少し思案した後、その反対――中庭へ続く長い階段に目をやった。光一つないそちらはただただ闇が広がっており、彼女の目には何も映らない。目には。
 先ほど乙夜鴉が旋回してくれたおかげで、どこに何の障害物があるか、ある程度見ることはできた。後はその記憶を辿り、壁を伝って歩けば問題なく進めるだろう。その暗闇を見つめると、ひとつ頷いた。
「ごめんね。すぐ戻ってくるから、ちょっとだけ待ってて」
 左方の廊下の前でじっと待つ乙夜鴉に頭を下げた。そのまま行くべき方向とは逆に、己の記憶を見ながら歩き出した。

 中庭には、相変わらず息をのむような幻想的な風景が広がっていた。
 風が吹くたび、月満草が光の粒子を零しながらたおやかに揺れる。しかし、草原を抜けるような草木の音は聞こえない。花の数が少ないせいか、それとも元々そういうものなのか、メルリアには分からなかった。
 置きっぱなしになったランタンは通路の中央にぽつりと取り残されていた。光源の中心部分からは光が失われており、埋め込まれた魔力石は灰色にくすんでいる。石から魔力が完全に消えた証だ。そこに人の姿はない。メルリアは疑問に思いながら、一歩一歩進む。中庭の様子は特別変わったところはない。枯れ木にとまるコウモリは相変わらずであったし、岩場に生える月満草も……一番右端の月満草には引きちぎられたような形跡があるが、これは乙夜鴉の仕業だろう。どうして誰もいないのか。周囲を見回すと、壁に障害物を見つけて立ち止まった。驚きのあまり声を上げそうになったが、喉の奥でなんとか堪える。壁際にもたれかかるそれは、どうやら物ではなさそうだ。呼吸するようにそれはゆっくりと動いている。事実、呼吸していた。
 それ――クライヴは壁際に寄りかかり、膝を抱えて体を丸めていた。額を膝の上に押し当てているため、メルリアから表情は判らない。
「……クライヴさん?」
 中腰になって声をかけると、うずめられていた頭がびくりと動いた。彼はゆっくりと顔を上げる。焦点の定まらない瞳。その金色はくすむように濁っている。そして、すっかり血の気の引いた白い頬に半開きになった口。そこから漏れる声はない。
「大丈夫!? どこか具合でも悪いの?」
 メルリアは慌てて膝をつき、彼の手に触れる。こちらの体温とは異なり、ずいぶんと冷たい感覚があった。メルリアの顔がますます青くなっていく。どうしよう、と迷っていると、水のような手にわずかな力が入る。
「……メル、リア?」
 クライヴは瞬きを繰り返し、視界に映る彼女を窺った。
 その様子にメルリアの表情がこわばる。意識ははっきりしているようだが、肌の色は相変わらず白い。触れた手には相変わらず冷たい感覚が残っている。自分の熱が奪われていくような気さえした。まだ安心できない。意識をつなぎ止めようと、その手を握り返した。
「体、温めないと……えっと」
 あの間ずっと外にいたから体が冷えてしまったのだろうか。どちらにしても、なにかしなければ。周囲を見回すが、体を温められそうなものは見つからない。魔力石で動くランタンには熱がないし、そもそも石の魔力は尽きている。ここに来る間、かぶれそうな布は見当たらなかった。エントランスや廊下にも明かりはないし、メルリアの鞄で使えそうなものといえばせいぜいハンカチ程度。この冷えを暖めるには足りない。
 迷いに揺れる視線が、やがて膝の上へと戻る。視界に白い網目模様が目に入った。今着ている薄手のカーディガンジャケットだ。夏とはいえ、ここ数日は気温が上がりきらない日が続き、夜になると冷たい風が体温を奪っていく。森を歩く途中でそれを身につけていたのだ。メルリアは背が高くないし、特別鍛練を積んでいるというわけでもない。対して、クライヴは男性の平均といった背丈。それに加え、腕や足にしっかりと筋肉がついている。ゆったりとした着心地とはいえ、袖を通すことは難しいだろう。それでも、ブランケットのように羽織る事はできるはずだ。
「待ってて」
 メルリアは一番上のボタンに手をかけ、一つずつ留め具を外していく。
「ちょっ――と、待て」
 メルリアが留め具をふたつ外しかけた時、クライヴは上体を起こしてその腕を掴んだ。状況がよく読めない。メルリアは何をしようとしているんだ。寝起きに似た状態の頭がぐるぐる回る。
「な、何を……?」
 唇の端を痙攣させながら、平静を装って尋ねた。
「上着……、着るのは難しいかもしれないけど、羽織るだけでも違うと思う。クライヴさん、体すごく冷えちゃってるんだよ」
 途切れ途切れの情報の中から、クライヴはやっと自分の状況を理解した。メルリアに触れた右手から、彼女の体温が伝わってくる。ずいぶんと温かく、安心する熱だった。
「あ、いや……。低いかもしれないけど、大丈夫だ。動ける」
 クライヴはメルリアから手を離すと、壁に手をかけてゆっくり立ち上がった。手のひらを閉じたり開いたりを数度繰り返し、凝り固まった体を解すように肩を回す。動かした体の箇所がじんわりと熱を持った。やがてメルリアに背を向けると、屋敷の中へ続く暗闇を指さす。
「体温は……風の当たらないところにいれば、そのうち元に戻るだろ。辛いとか、そういうのはないから大丈夫だ」
 振り返ると、すぐ傍に立つメルリアに微笑みかけた。彼女の表情は相変わらずこちらを窺う不安そうな色をしている。彼の言葉に納得していないのは明らかだった。
 留め具が外れた事で、カーディガンジャケットの形が歪に広がる。それに気づかぬ様子の彼女を見て、クライヴはわざとらしく咳払いした。
「取り敢えず着ててくれ。留め具も戻した方がいいよ」
 通路の右端にはカーテンの閉められた窓が一つ。そこに、クライヴの顔が鏡のように映った。平常を装おうと不自然に開いた目に下がった眉。普段と変わらぬ金色の瞳と、普段と異なる不健康そうな白い顔。頬にはわずかに赤色が混ざっていた。隠したいはずの感情が全て表に出ているな――と、彼は一人苦笑した。
 クライヴはとにかく流れを変えようと、屋敷の暗闇に一歩足を踏み入れる。左足を前に出したところで、その動きが不自然に止まった。心の逡巡を表すように手を揉む。
「心配してくれてありがとな、……メル」
 呼び慣れぬ愛称を口にし、ほんの少しの照れくささを感じながら、今度こそ足を進めた。
 メルリアはカーディガンジャケットの留め具に手をかけ、手早くボタンをかける。取り残されたランタンを回収すると、クライヴの背中を追いかけた。
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登場人物紹介

◆登場人物一覧

┗並びは初登場順です。

┗こちらのアイコンは公式素材のみを使用しています。

メルリア・ベル


17歳。

お人好し。困っている人は放っておけない。

祖母との叶わなかった約束を果たすため、ヴィリディアンを旅することになる。

フィリス・コールズ


16歳。

曖昧な事が嫌いで無駄を嫌う。
シーバの街で、両親と共に「みさきの家」という飲食店を経営している。

クライヴ・シーウェル


22歳。

真面目。お人好しその2。

理由あって旅をしており、メルリアとよく会う。

ネフリティス


27歳(人間換算)

都市に工房を持つエルフの錬金術師。

多少ずぼらでサバサバしている。

イリス・ゾラ


21歳。

隣国ルーフスの魔術師。闇属性。

曲がったことが嫌い。

リタ・ランズ


16歳(人間換算)

魔女の村ミスルトーで暮らしているエルフ。
アラキナのストッパー兼村一番のしっかり者。

ウェンディ・アスター


不明(20代後半くらいに見える)

街道の外れの屋敷で働くメイド。

屋敷の中で一番力が強い。

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