第37話 弟子代理の日々7
文字数 3,976文字
西日に照らされる街は燃えるように赤い色をしている。石の道、レンガ造りの家々、煙突の白い煙、屋根に止まる小鳥、子供の小さな背中。どれも例外はない。
ヴェルディグリの一日がまた終わりを告げるのだ。
ネフリティスは作業の手を止め、カーテンを軽く開いた。メルリアが戻ってくるにはまだかかるだろうか、と空を仰ごうとして、堅く目を閉ざした。周囲の窓ガラスが夕日を反射し、その光を思い切り視界に入れてしまったからだ。瞼の裏に、太陽の丸い光の残像が見える。こめかみをぐりぐりと指で刺激した後、手で光源を隠してから空を仰いだ。
まだもう少し頑張れそうか、と窓とカーテンを閉めると、トントントン、と軽い足音が聞こえる。しばらくして、家の扉が開いた。
「ただいま戻りましたー……」
メルリアの声だ。仕事終わりには、玄関に向けて声をかけるのが彼女の日常だ。しかしそれに返事をする者はない。ネフリティスがそうしないからだ。
やけに早いな。ネフリティスは傍にある壁掛け時計には目もくれず、手元の懐中時計で時刻を確認する。午後六時過ぎを指していた。
……六時? ネフリティスは再び軽くカーテンを開いて、外の明るさを確認する。まだ五時になったばかりだろうと錯覚するような、明るい夕方の景色が広がっていた。ずいぶんと日が長くなったな、と息を吐く。夏が近づいている証拠だった。
ネフリティスは作業台を見つめる。書きかけの錬金術のレシピが目にとまった。つまらないものを見たというように眉をひそめると、静かに目を伏せて考え込む。
どうもうまくいかない。これで何枚目だ?
ネフリティスは今まで書いたレシピを指折り数えていく。指が全て閉じたかと思えば、また開く――それを何度も繰り返していた。四ヶ月となると、考えては没にしたレシピが束になりそうだった。
三十、と口にした時、仕事場の扉が数度ノックされた。
「入っていいぞ」
仕事場には必ず声をかけて入る事。返事がなければ入ってはいけない。家とリビング、貸した部屋は許可なく出入りして構わない。それ以外の部屋には絶対に入るな――あの日、一方的に伝えた約束を、メルリアはきちんと守っていた。
律儀だなぁとネフリティスはため息をつく。面倒ごとがないのは助かるが、面白いかと問われれば面白くない。メルリアがもう少し尖っていればからかいようはあるが、からかおうとしても興が乗る前に萎縮してしまうのが問題だ。もっと神経が太かったなら――などと考えながら、扉が開く様子を眺める。
メルリアは扉の前に立つと、それ以降ネフリティスに近づこうとはしない。仕事場だという事を弁えているからだった。必要なものを踏んでしまったらと思うと怖い、というのもあったが。
「マドラルへの届け物、プティ農園への荷物の配達依頼、両方終わりました。買い出しも済んだので、お夕飯ができたら声をかけますね」
「ああ、助かった」
疲れた色ひとつ見せず、メルリアはにこりと微笑みかける。ネフリティスはメルリアに毎日様々な雑用を押しつけているが、手際は日に日によくなっている。全てにおいて、メルリアは飲み込みが早かった。一度説明すればその通りにできる。先方からの伝達事項は誤解なく正確に伝えられる。こうしてほしいと呟いた事を全て覚えている。助手にしたらこれほど優秀な人材はないな、とネフリティスは思った。
「しかしお前もずいぶん雑用係が板についてきたな。あいつが戻ってくる席がないかもしれない」
だからだろう、言うつもりもない事を口に出してしまった。
「いえ、そんな。お弟子さん、いつ頃帰ってくるんでしょうね」
「さて、な」
ネフリティスは作業台へと視線を向ける。つい先ほどまでは納得していたレシピだが、ここに来て粗が目につく。これも没にしなければ――厳しい顔で、己の文字が這った紙を睨んだ。このレシピにもう価値はない。それをくしゃっと握り潰すと、メルリアに差し出した。
「あぁ、あとこの紙を捨ててくれ。たった今ゴミになった」
「はい……、えっと、これ、錬金術のレシピですか?」
「ゴミだ、ゴミ。さっきまではその可能性があったが」
そう。さっきまでは、ネフリティスの作りたいモノになるかもしれなかった。ネフリティスは一度気に入らなくなったものには一切興味を示さない。自分で作った失敗作となれば余計だ。
しかし、メルリアはゴミだと言われたその紙に興味を示していた。握りつぶされた用紙の端から見える文字は、普段使う文字の形に似ているがどこか違う。読んでみたところで、それらの言葉は意味をなさない。読めるようで読めない不思議な文字だと思った。紙を開こうとは思えないが、見える文字をどうしても目で追ってしまう。不要物と判断したものに食いついてはいけないと分かっていても、好奇心が勝ってしまっていた。表情は押さえられていたが、瞳の奥はキラキラと輝いている。
その姿を見て、ネフリティスはふと昔を思い出した。
今日と同じように納得のいかないレシピの紙を、くしゃくしゃに丸めて投げ捨てた事があった。すぐ傍でネフリティスの様子を見ていた女は、たった今ゴミになったばかりの紙を拾い上げ、ゆっくりゆっくりとしわを伸ばす。黙ってレシピに目を通していた。表情はひとつも変わらないものの、その瞳の奥がキラキラと輝いていた。今のメルリアと同じように。
……これも巡り合わせなのだろうな。彼女とその姿を重ね合わせ、ネフリティスはふっと笑った。
「お前、初めてここに来たエルヴィーラと同じ顔をしているな」
エルヴィーラの名前を出した途端、メルリアがびくりと反応する。勢いよく顔を上げ、まじまじとネフリティスの顔を見つめた。瞳の輝きは一切変わっていないどころか、より一層増していた。
エルヴィーラはメルリアに気を許していると思っていたが、メルリアの方もエルヴィーラに懐いているのか――と、ネフリティスが瞬時に納得するほどの食いつきの良さだ。
「あの、エルヴィーラさんはどうしてここに?」
「簡単な錬金術を教えてやったんだ。あいつが必要なものを作るにはこれしかなかった」
ネフリティスはテーブルをコツコツと人差し指で叩いた。端に寄せられたビーカーやフラスコ、乾燥した薬草やまだ青々とした野花に、瓶に入った粉末状の黒い粉。いかにも錬金術師の仕事場です、と絵に描いたような風景だ。メルリアは、思わず身を乗り出してそれらを眺めた。
「エルヴィーラさん、錬金術師だったんですね」
「いいや、あいつは錬金術師を名乗れるほどじゃない。レシピをなぞるだけなら割と誰でもできるな、エルヴィーラに教えてやったやつは簡単だからな」
ネフリティスは指先に視線を移す。
エルヴィーラには確かに彼女の望むものの作り方を教えたが、レシピと手順の再現方法を伝授してやっただけ。真に錬金術師を名乗るのならば、ゼロから一を作り上げてこそ――すなわち、レシピの存在しない物を作り上げてこそ、初めて錬金術師を名乗る事ができる。そう彼女は考えていた。
もっとも、そのレシピをなぞるだけでも相当なセンスが必要なのだが。
「錬金術を真の意味で扱える者は、この世に一握りだ」
ネフリティスのようにゼロからレシピを書き上げられる者は、この世界の中に数えるほどしかいない。彼女の知る真の錬金術師はたった二人。国外の東の果てと南の果てに一人ずつだ。
「えっと……ネフリティスさんの弟子の人は、魔術の弟子の人ですか? 錬金術の弟子の人ですか?」
ネフリティスはその言葉に一瞬目を見開くが、すぐに咳払いをひとつして冷静を装った。開きっぱなしの懐中時計が、カチカチと規則的に時を刻む。一秒ずつ、確実に。上部の錆の緑がやけに目についた。彼女は一つ息を吐き、カーテンに映った窓枠を見つめた。
「魔術は扱えるが、私は錬金術の師匠だ。今頃しごいているつもりだったのだが」
ネフリティスは最後に見た弟子の顔を思い浮かべる。直前の記憶は散々なものだから、一つ前を選んだ。
メルリアが今立っている扉の前にいて、淡々と押しつけた雑用の報告をしていた。ネフリティスがすぐ傍まで呼びつけて、古文書の解読を押しつける。その日は、やけに疲れた顔をしていた。可愛い可愛いとネフリティスがからかうと、馬鹿じゃないのと憎まれ口をたたく。
――そういえば、あいつの憎まれ口を聞かなくなって久しいな。
「ネフリティスさん……?」
最後に聞いた言葉は何だっただろうか――ネフリティスが記憶を呼び起こしていると、メルリアがおずおずとこちらの様子をうかがっていた。気づけば、カーテンに落ちる窓枠の色が薄く変わっている。ネフリティスはわざとらしくあくびするフリをして、メルリアに向き直る。
「ああ、すまん。さすがに疲れたらしい。夕飯、期待しているぞ」
「は、はい! 頑張ります」
メルリアはその言葉をプレッシャーと感じ、背筋をシャキッと真っ直ぐ伸ばす。一度頭を下げてから、部屋のドアノブに手をかけた。
「それじゃあ、また後で」
ネフリティスの頭の中で、別の声がメルリアのそれと重なる。ネフリティスは目を丸くした。
その様子に気づかないメルリアは、いそいそとリビングへ向かう。
扉が閉じ、足音が遠ざかり――。それからしばらくして、机の端に置いてあった本がガタン音を立て床に落ちる。その衝撃に、ネフリティスははっとし、落ちた本に視線を向ける。相当高さがあったというのに、本は奇跡的に閉じたままだ。最初からそこにあったかのように。
「なんなんだ、あいつは」
また後で――。それは、ネフリティスが最後に聞いた弟子の言葉だった。あれから四ヶ月が経つ。
ネフリティスは吐き捨てると、落ちた本をゆっくり拾い上げ、本棚へと戻す。ぽっかりと穴が開いたその部分には、うっすらホコリが積もっていた。
ヴェルディグリの一日がまた終わりを告げるのだ。
ネフリティスは作業の手を止め、カーテンを軽く開いた。メルリアが戻ってくるにはまだかかるだろうか、と空を仰ごうとして、堅く目を閉ざした。周囲の窓ガラスが夕日を反射し、その光を思い切り視界に入れてしまったからだ。瞼の裏に、太陽の丸い光の残像が見える。こめかみをぐりぐりと指で刺激した後、手で光源を隠してから空を仰いだ。
まだもう少し頑張れそうか、と窓とカーテンを閉めると、トントントン、と軽い足音が聞こえる。しばらくして、家の扉が開いた。
「ただいま戻りましたー……」
メルリアの声だ。仕事終わりには、玄関に向けて声をかけるのが彼女の日常だ。しかしそれに返事をする者はない。ネフリティスがそうしないからだ。
やけに早いな。ネフリティスは傍にある壁掛け時計には目もくれず、手元の懐中時計で時刻を確認する。午後六時過ぎを指していた。
……六時? ネフリティスは再び軽くカーテンを開いて、外の明るさを確認する。まだ五時になったばかりだろうと錯覚するような、明るい夕方の景色が広がっていた。ずいぶんと日が長くなったな、と息を吐く。夏が近づいている証拠だった。
ネフリティスは作業台を見つめる。書きかけの錬金術のレシピが目にとまった。つまらないものを見たというように眉をひそめると、静かに目を伏せて考え込む。
どうもうまくいかない。これで何枚目だ?
ネフリティスは今まで書いたレシピを指折り数えていく。指が全て閉じたかと思えば、また開く――それを何度も繰り返していた。四ヶ月となると、考えては没にしたレシピが束になりそうだった。
三十、と口にした時、仕事場の扉が数度ノックされた。
「入っていいぞ」
仕事場には必ず声をかけて入る事。返事がなければ入ってはいけない。家とリビング、貸した部屋は許可なく出入りして構わない。それ以外の部屋には絶対に入るな――あの日、一方的に伝えた約束を、メルリアはきちんと守っていた。
律儀だなぁとネフリティスはため息をつく。面倒ごとがないのは助かるが、面白いかと問われれば面白くない。メルリアがもう少し尖っていればからかいようはあるが、からかおうとしても興が乗る前に萎縮してしまうのが問題だ。もっと神経が太かったなら――などと考えながら、扉が開く様子を眺める。
メルリアは扉の前に立つと、それ以降ネフリティスに近づこうとはしない。仕事場だという事を弁えているからだった。必要なものを踏んでしまったらと思うと怖い、というのもあったが。
「マドラルへの届け物、プティ農園への荷物の配達依頼、両方終わりました。買い出しも済んだので、お夕飯ができたら声をかけますね」
「ああ、助かった」
疲れた色ひとつ見せず、メルリアはにこりと微笑みかける。ネフリティスはメルリアに毎日様々な雑用を押しつけているが、手際は日に日によくなっている。全てにおいて、メルリアは飲み込みが早かった。一度説明すればその通りにできる。先方からの伝達事項は誤解なく正確に伝えられる。こうしてほしいと呟いた事を全て覚えている。助手にしたらこれほど優秀な人材はないな、とネフリティスは思った。
「しかしお前もずいぶん雑用係が板についてきたな。あいつが戻ってくる席がないかもしれない」
だからだろう、言うつもりもない事を口に出してしまった。
「いえ、そんな。お弟子さん、いつ頃帰ってくるんでしょうね」
「さて、な」
ネフリティスは作業台へと視線を向ける。つい先ほどまでは納得していたレシピだが、ここに来て粗が目につく。これも没にしなければ――厳しい顔で、己の文字が這った紙を睨んだ。このレシピにもう価値はない。それをくしゃっと握り潰すと、メルリアに差し出した。
「あぁ、あとこの紙を捨ててくれ。たった今ゴミになった」
「はい……、えっと、これ、錬金術のレシピですか?」
「ゴミだ、ゴミ。さっきまではその可能性があったが」
そう。さっきまでは、ネフリティスの作りたいモノになるかもしれなかった。ネフリティスは一度気に入らなくなったものには一切興味を示さない。自分で作った失敗作となれば余計だ。
しかし、メルリアはゴミだと言われたその紙に興味を示していた。握りつぶされた用紙の端から見える文字は、普段使う文字の形に似ているがどこか違う。読んでみたところで、それらの言葉は意味をなさない。読めるようで読めない不思議な文字だと思った。紙を開こうとは思えないが、見える文字をどうしても目で追ってしまう。不要物と判断したものに食いついてはいけないと分かっていても、好奇心が勝ってしまっていた。表情は押さえられていたが、瞳の奥はキラキラと輝いている。
その姿を見て、ネフリティスはふと昔を思い出した。
今日と同じように納得のいかないレシピの紙を、くしゃくしゃに丸めて投げ捨てた事があった。すぐ傍でネフリティスの様子を見ていた女は、たった今ゴミになったばかりの紙を拾い上げ、ゆっくりゆっくりとしわを伸ばす。黙ってレシピに目を通していた。表情はひとつも変わらないものの、その瞳の奥がキラキラと輝いていた。今のメルリアと同じように。
……これも巡り合わせなのだろうな。彼女とその姿を重ね合わせ、ネフリティスはふっと笑った。
「お前、初めてここに来たエルヴィーラと同じ顔をしているな」
エルヴィーラの名前を出した途端、メルリアがびくりと反応する。勢いよく顔を上げ、まじまじとネフリティスの顔を見つめた。瞳の輝きは一切変わっていないどころか、より一層増していた。
エルヴィーラはメルリアに気を許していると思っていたが、メルリアの方もエルヴィーラに懐いているのか――と、ネフリティスが瞬時に納得するほどの食いつきの良さだ。
「あの、エルヴィーラさんはどうしてここに?」
「簡単な錬金術を教えてやったんだ。あいつが必要なものを作るにはこれしかなかった」
ネフリティスはテーブルをコツコツと人差し指で叩いた。端に寄せられたビーカーやフラスコ、乾燥した薬草やまだ青々とした野花に、瓶に入った粉末状の黒い粉。いかにも錬金術師の仕事場です、と絵に描いたような風景だ。メルリアは、思わず身を乗り出してそれらを眺めた。
「エルヴィーラさん、錬金術師だったんですね」
「いいや、あいつは錬金術師を名乗れるほどじゃない。レシピをなぞるだけなら割と誰でもできるな、エルヴィーラに教えてやったやつは簡単だからな」
ネフリティスは指先に視線を移す。
エルヴィーラには確かに彼女の望むものの作り方を教えたが、レシピと手順の再現方法を伝授してやっただけ。真に錬金術師を名乗るのならば、ゼロから一を作り上げてこそ――すなわち、レシピの存在しない物を作り上げてこそ、初めて錬金術師を名乗る事ができる。そう彼女は考えていた。
もっとも、そのレシピをなぞるだけでも相当なセンスが必要なのだが。
「錬金術を真の意味で扱える者は、この世に一握りだ」
ネフリティスのようにゼロからレシピを書き上げられる者は、この世界の中に数えるほどしかいない。彼女の知る真の錬金術師はたった二人。国外の東の果てと南の果てに一人ずつだ。
「えっと……ネフリティスさんの弟子の人は、魔術の弟子の人ですか? 錬金術の弟子の人ですか?」
ネフリティスはその言葉に一瞬目を見開くが、すぐに咳払いをひとつして冷静を装った。開きっぱなしの懐中時計が、カチカチと規則的に時を刻む。一秒ずつ、確実に。上部の錆の緑がやけに目についた。彼女は一つ息を吐き、カーテンに映った窓枠を見つめた。
「魔術は扱えるが、私は錬金術の師匠だ。今頃しごいているつもりだったのだが」
ネフリティスは最後に見た弟子の顔を思い浮かべる。直前の記憶は散々なものだから、一つ前を選んだ。
メルリアが今立っている扉の前にいて、淡々と押しつけた雑用の報告をしていた。ネフリティスがすぐ傍まで呼びつけて、古文書の解読を押しつける。その日は、やけに疲れた顔をしていた。可愛い可愛いとネフリティスがからかうと、馬鹿じゃないのと憎まれ口をたたく。
――そういえば、あいつの憎まれ口を聞かなくなって久しいな。
「ネフリティスさん……?」
最後に聞いた言葉は何だっただろうか――ネフリティスが記憶を呼び起こしていると、メルリアがおずおずとこちらの様子をうかがっていた。気づけば、カーテンに落ちる窓枠の色が薄く変わっている。ネフリティスはわざとらしくあくびするフリをして、メルリアに向き直る。
「ああ、すまん。さすがに疲れたらしい。夕飯、期待しているぞ」
「は、はい! 頑張ります」
メルリアはその言葉をプレッシャーと感じ、背筋をシャキッと真っ直ぐ伸ばす。一度頭を下げてから、部屋のドアノブに手をかけた。
「それじゃあ、また後で」
ネフリティスの頭の中で、別の声がメルリアのそれと重なる。ネフリティスは目を丸くした。
その様子に気づかないメルリアは、いそいそとリビングへ向かう。
扉が閉じ、足音が遠ざかり――。それからしばらくして、机の端に置いてあった本がガタン音を立て床に落ちる。その衝撃に、ネフリティスははっとし、落ちた本に視線を向ける。相当高さがあったというのに、本は奇跡的に閉じたままだ。最初からそこにあったかのように。
「なんなんだ、あいつは」
また後で――。それは、ネフリティスが最後に聞いた弟子の言葉だった。あれから四ヶ月が経つ。
ネフリティスは吐き捨てると、落ちた本をゆっくり拾い上げ、本棚へと戻す。ぽっかりと穴が開いたその部分には、うっすらホコリが積もっていた。