第4話 二人の旅の終わり
文字数 2,214文字
――そして、翌日。
メルリアの旅の終わりが始まろうとしていた。
空になった茶器をテーブルの端に寄せながら、メルリアは時計を確認した。時刻は午後四時半を過ぎたばかり。空にはまだ鮮やかな青が残る。夕方と言うには早い時間だった。
今晩、彼女は墓参りのため屋敷を発つ。曾祖父であり、ロバータの父であるテオフィールとともに。
「……忘れ物はないか?」
メルリアは顔を上げた。膝のリュックサックにしばし視線を向ける。荷造りの記憶をたどった後、向かいに腰掛けるクライヴへ微笑みかけた。
「行って帰ってくるだけだから大丈夫。ありがとう」
何気ない会話がふっと途切れ、二人の間に沈黙が訪れる。その沈黙は自然とは言いがたい。少しだけ重いような、くすぐったいような、微妙な雰囲気だった。
クライヴは落ち着かぬ様子で、グラスをテーブルに置いた。ガラスのテーブルから大きな音が漏れる。それと共に体が震え、目を見開いた。ガラスもテーブルもともに傷はないが、彼の動悸は依然激しい。呼吸を落ち着けようと左胸に手を置いた。そこから伝わる脈拍が、否応なしに己の感情を突きつけてくる。
今朝以来こんなことばかりだ――クライヴは頭を掻いた。世間話や雑談は以前と変わらずにできるが、その後の沈黙がどうにも落ち着かない。会話の仕方を忘れてしまったように言葉が出てこないし、続かない。頭が真っ白になる。自分だけが抱えていた感情を伝えて、受け入れてくれただけ――たった一歩、この関係が恋愛へと進んだだけ。これは終着点ではなく始発点だ。それは分かっているというのに、体が言うことを聞かない。
居心地のよすぎるソファがふわりと傾く。クライヴの体が、再びその感触に翻弄されかけた。咄嗟に両膝に手をあて、足の裏に力を入れる。醜態を二度も晒すわけにはいかないと、その揺れを必死にやり過ごした。
「クライヴさん」
すぐ右隣で自分の名前を呼ばれ、クライヴは顔を上げた。妙な声が出そうになったが、喉の奥で相殺する。メルリアが隣に腰掛けていたからだ。
隣から音がしたのだから、この位置にいるのは自然だ。少し考えれば分かったことだ。しかし、クライヴの頭はそこまで回っていない。こちらへ近づく足音にも気づかなかった。
あの朝以降、この距離で会話するのは初めてだ。口に溜まった唾液を緊張ごと喉に流し込む。
「お付き合いしてるからって思ったんだけど……、急に隣に来たら困る?」
「そんなことはない」
食い気味に否定すると、メルリアはよかったと安堵した。やがて、ソファの材質を確かめるように、彼女の右手がぎこちなく滑る。手が止まると、意を決したように顔を上げた。こちらを見る青い瞳は真っ直ぐで揺るぎない。彼女が時折見せる決意の表情だ。
それに気づいたクライヴの背筋が伸びる。浮かれていてはいけないと。気分を切り替えるよう、膝に置いた手を固く握りしめた。
「……一つお願いがあるんだけど、聞いてくれる?」
問いかけに頷くと、今度はメルリアが脱力したように笑った。
「私がベラミントから帰ってきたら、『おかえり』って言ってくれる?」
予想していなかった「お願い」に言葉を詰まらせ、クライヴは思わず目を丸くする。何を言われるのだろう、と緊張していたが、想像していたよりもずっと当たり前のことだったからだ。
そんなことでいいのだろうか。関係がより近くなったのだし、もっと特別なことの方が……。凝り固まった表情を崩し、優しく問いかけようとした。
その時、柔らかく笑う目の前のメルリアと、かつての姿が重なる。熱にうかされて、ぼんやりと口にした両親の話――あの言葉が、記憶の奥底からすっと蘇った。
――俺にとってはそうであっても、メルにとっては。
なにを当たり前のことを、などと思った自分を突き飛ばしたい衝動と、言う前に気づけてよかった安堵を抱え、クライヴは微笑んだ。
「もちろん」
「本当? ありがとう……!」
約束は必ず守る。そう伝えるように一語一句はっきり口にすると、メルリアは花が咲くように笑顔を綻ばせた。
そのお願いで得られる時間はたったわずか。人と人との約束で、得るものが最も薄いであろう約束に不釣り合いなほど、彼女は心底安心したように笑う。
この世の中に当たり前のことなどないのかもしれない――クライヴは自戒の念を込めて胸内で繰り返し、窓の外に目をやった。くっきりとした色彩の青空が、徐々に橙へ染まっていく。夏を思わせる盛り上がった厚い雲が、日暮れを惜しむように太陽へ腕を伸ばした。まもなく夕刻が訪れる。
彼女の旅立ち――旅の終わりが、刻一刻と迫っていた。
「……俺も、メルが帰ってくる前に旅を終わらせてくるよ。戻ってきたら、グローカスを一緒に回ろう――約束だ」
ふと浮かんだ寂しさを胸に押し込んで、クライヴは極めて明るく笑った。
メルリアに見せたいものがいろいろある。丘から見える青い海も、潮の匂いも、あの花の道も。自分の生まれ育ったグローカスという街には、ここにしかないいいところがたくさん詰まっている。
「うん、約束」
クライヴが手を伸ばすと、メルリアはその手を取った。自然と指が絡み合う。そのあたたかさがどこかくすぐったく感じて、二人は笑い合った。
それから数刻後。
街道の分かれ道で約束通り「いってらっしゃい」とメルリアを見送ると、クライヴはグローカスに向かって歩き出した。
彼の旅も故郷に帰って終わるのだ。
〈了〉
メルリアの旅の終わりが始まろうとしていた。
空になった茶器をテーブルの端に寄せながら、メルリアは時計を確認した。時刻は午後四時半を過ぎたばかり。空にはまだ鮮やかな青が残る。夕方と言うには早い時間だった。
今晩、彼女は墓参りのため屋敷を発つ。曾祖父であり、ロバータの父であるテオフィールとともに。
「……忘れ物はないか?」
メルリアは顔を上げた。膝のリュックサックにしばし視線を向ける。荷造りの記憶をたどった後、向かいに腰掛けるクライヴへ微笑みかけた。
「行って帰ってくるだけだから大丈夫。ありがとう」
何気ない会話がふっと途切れ、二人の間に沈黙が訪れる。その沈黙は自然とは言いがたい。少しだけ重いような、くすぐったいような、微妙な雰囲気だった。
クライヴは落ち着かぬ様子で、グラスをテーブルに置いた。ガラスのテーブルから大きな音が漏れる。それと共に体が震え、目を見開いた。ガラスもテーブルもともに傷はないが、彼の動悸は依然激しい。呼吸を落ち着けようと左胸に手を置いた。そこから伝わる脈拍が、否応なしに己の感情を突きつけてくる。
今朝以来こんなことばかりだ――クライヴは頭を掻いた。世間話や雑談は以前と変わらずにできるが、その後の沈黙がどうにも落ち着かない。会話の仕方を忘れてしまったように言葉が出てこないし、続かない。頭が真っ白になる。自分だけが抱えていた感情を伝えて、受け入れてくれただけ――たった一歩、この関係が恋愛へと進んだだけ。これは終着点ではなく始発点だ。それは分かっているというのに、体が言うことを聞かない。
居心地のよすぎるソファがふわりと傾く。クライヴの体が、再びその感触に翻弄されかけた。咄嗟に両膝に手をあて、足の裏に力を入れる。醜態を二度も晒すわけにはいかないと、その揺れを必死にやり過ごした。
「クライヴさん」
すぐ右隣で自分の名前を呼ばれ、クライヴは顔を上げた。妙な声が出そうになったが、喉の奥で相殺する。メルリアが隣に腰掛けていたからだ。
隣から音がしたのだから、この位置にいるのは自然だ。少し考えれば分かったことだ。しかし、クライヴの頭はそこまで回っていない。こちらへ近づく足音にも気づかなかった。
あの朝以降、この距離で会話するのは初めてだ。口に溜まった唾液を緊張ごと喉に流し込む。
「お付き合いしてるからって思ったんだけど……、急に隣に来たら困る?」
「そんなことはない」
食い気味に否定すると、メルリアはよかったと安堵した。やがて、ソファの材質を確かめるように、彼女の右手がぎこちなく滑る。手が止まると、意を決したように顔を上げた。こちらを見る青い瞳は真っ直ぐで揺るぎない。彼女が時折見せる決意の表情だ。
それに気づいたクライヴの背筋が伸びる。浮かれていてはいけないと。気分を切り替えるよう、膝に置いた手を固く握りしめた。
「……一つお願いがあるんだけど、聞いてくれる?」
問いかけに頷くと、今度はメルリアが脱力したように笑った。
「私がベラミントから帰ってきたら、『おかえり』って言ってくれる?」
予想していなかった「お願い」に言葉を詰まらせ、クライヴは思わず目を丸くする。何を言われるのだろう、と緊張していたが、想像していたよりもずっと当たり前のことだったからだ。
そんなことでいいのだろうか。関係がより近くなったのだし、もっと特別なことの方が……。凝り固まった表情を崩し、優しく問いかけようとした。
その時、柔らかく笑う目の前のメルリアと、かつての姿が重なる。熱にうかされて、ぼんやりと口にした両親の話――あの言葉が、記憶の奥底からすっと蘇った。
――俺にとってはそうであっても、メルにとっては。
なにを当たり前のことを、などと思った自分を突き飛ばしたい衝動と、言う前に気づけてよかった安堵を抱え、クライヴは微笑んだ。
「もちろん」
「本当? ありがとう……!」
約束は必ず守る。そう伝えるように一語一句はっきり口にすると、メルリアは花が咲くように笑顔を綻ばせた。
そのお願いで得られる時間はたったわずか。人と人との約束で、得るものが最も薄いであろう約束に不釣り合いなほど、彼女は心底安心したように笑う。
この世の中に当たり前のことなどないのかもしれない――クライヴは自戒の念を込めて胸内で繰り返し、窓の外に目をやった。くっきりとした色彩の青空が、徐々に橙へ染まっていく。夏を思わせる盛り上がった厚い雲が、日暮れを惜しむように太陽へ腕を伸ばした。まもなく夕刻が訪れる。
彼女の旅立ち――旅の終わりが、刻一刻と迫っていた。
「……俺も、メルが帰ってくる前に旅を終わらせてくるよ。戻ってきたら、グローカスを一緒に回ろう――約束だ」
ふと浮かんだ寂しさを胸に押し込んで、クライヴは極めて明るく笑った。
メルリアに見せたいものがいろいろある。丘から見える青い海も、潮の匂いも、あの花の道も。自分の生まれ育ったグローカスという街には、ここにしかないいいところがたくさん詰まっている。
「うん、約束」
クライヴが手を伸ばすと、メルリアはその手を取った。自然と指が絡み合う。そのあたたかさがどこかくすぐったく感じて、二人は笑い合った。
それから数刻後。
街道の分かれ道で約束通り「いってらっしゃい」とメルリアを見送ると、クライヴはグローカスに向かって歩き出した。
彼の旅も故郷に帰って終わるのだ。
〈了〉