第50話 腥風
文字数 3,445文字
メルリアはゆっくりと、しかし控えめに街道を進んでいた。
早く先に進みたいという気持ちを抑え、あまり離れすぎてはいけないと、いつもより時間をかけて歩いて行く。クライヴとはぐれてしまったら、彼に申し訳ない。
メルリアが不安になって振り返ると、クライヴからすぐに行くと声が聞こえた。まだギリギリ声が届く範囲だ。その声に頷いたメルリアだったが、数歩進んだ後に、あれで伝わっただろうかと頭をひねった。大きい声を出すのは得意ではない。ジェスチャーでもすればよかった? 腕で丸とか? などと考えていると、どんよりと薄暗い雲が、左方からこちらへ向かっている事に気づく。雲の速度は速く、メルリアの進む道へとあっという間に影を落とした。風から湿気は感じないが、もしかしたら雨が降るのかもしれない。メルリアは辺りを見回す。見えるのは、ただ続く街道の道だけ。近くに家らしき物は見当たらなかった。目につくものといえば、左方へ枝分かれした道と、一本の看板。旅人向けの宿の案内だろうか? 疑問に思ったメルリアは看板に駆け寄る。それは古びており、根元には新緑色のこけや木の幹に似た色のキノコが生えていた。ツタのような植物が絡まり、肝心な文字も読みづらい。
メルリアは看板に顔を近づけて目をこらした。
「『グローカス、セラドン方面は、道なり。この先は私有地につき立ち入り禁止』……?」
メルリアが進むべきだった方角には、開けた街道が広がっている。対してこちらは、木が生い茂り薄暗く、不穏な空気が漂っていた。森への入り口にも思える。森には近づいてはいけない――。この国に住む子どもならば、誰もが親に教わることの一つだ。
あの先へ向かおうとは思わないが、この辺りに土地を買うのはどんな人物なのか興味はあった。建物の姿は見えない。やはり貴族といった金に余裕がある人物だろうか。近くの宿酒場で聞いてみようかな、とメルリアは暗い森の奥を見つめながら思った。
ふと、自分の足下がやたらと暗い事に気づいた。足下だけではない。体も、手も。しかし、森へ続く道はこんなに地面の色は濃くなかった。大きな影が落ちているのだ。もっと厚い雲? それとも大きな荷物を抱えた運び屋? 疑問に思っていると、人の足音が聞こえた。右足と左足、交互に響く音のリズムがずいぶんと速いのは、その人物が走っているからだ。
「メルリア! 逃げろ!!」
切羽詰まった様子でクライヴが叫ぶ声が、街道に響いた。
事情が理解できないまま、メルリアは数歩後退した。逃げてはいけない方に向けて。
瞬間、獣のような呻き声が聞こえる。自分の背後からだ。メルリアは慌てて振り返り、それを目視する。途端に、喉の奥で細い悲鳴を上げた。
そこにあったのは、黒い影だった。
全長五メートルほどのそれは、メルリアとその周囲に大きな影を落としていた。それは両腕に強靱な爪を備え、輪郭はたき火の炎のように曖昧に揺らめく。
魔獣だ。
人を簡単に屠りとるという、恐ろしい化け物の。
その姿は何にでもなかったが、強いて言えば輪郭や造形は巨大な熊を思わせる。右腹部の辺りが凹んだ形をしている様子が不自然ではあるが、魔獣はそれをものともしない。二つの目のような赤い光が、メルリアの背中をギロリと捉えた。
メルリアは目を見開いたまま、瞬きすることもできず、ただその影を見上げる事しかできなかった。足ががくがくと震える。思うように力が入らない。腰が抜けてしまえばおしまいだと分かってはいた。今のメルリアにできることは、ただ立ち尽くすことだけ。
魔獣は右腕を振り上げる。爪先が周囲の景色を反射し、ギラリと鈍く光った。その爪先は視認しているが、どうすることもできない。
「間に合え――ッ!」
そんな時、体を思いきり突き飛ばされたような感覚があった。メルリアはその衝撃に目を閉じる。無意識からくる防衛本能だった。
空中に投げ出されたメルリアの体を、クライヴはしっかりと抱きかかえる。彼女の頭を抱えながら、歯を食いしばって着地に備えた。
最初の衝撃はリュックが受け止め、ゴロゴロと土の上を転がっていく。その最中、二メートル先からは地鳴りのような音が聞こえた。地面がごうごうと揺れる。魔獣は叩き付けた腕をゆっくりと上げた。傍らには、三本の線が延びている。ところどころは赤く濡れていた。
血だ。クライヴにははっきりとそれが分かった。振り上げた魔獣の爪にはびっしりと土がついている。その隙間からは、瞳のような赤い色が見て取れた。
メルリアはクライヴに抱きかかえられたまま、ピクリとも動かない。
「なんなんだ、こいつ……!」
土煙に咳き込みながら、クライヴは吐き捨てた。
彼もこの国の人間だ。無論魔獣の存在は知っていた。見たことはなかったが、人並みに知識があるとは思っていた。だが、実際はどうだろうか。あやふやに揺れる輪郭に、二つの赤い瞳。血の滲んだ爪。本で見る物よりも、聞いた話よりも、ずっとおどろおどろしい。
自分は衛兵ではないし、魔力は全くない。けれど、メルリアを守らなければならない。クライヴは腕の力を強める。擦った腕がじくりと痛むが、それには構わなかった。背中に脂汗が這う。魔獣の姿を睨み付けながら、メルリアの体を支える。そのまま、ゆっくりと上半身を起こした。
魔獣の、ギロリと赤い視線がクライヴを捉える。同じようにそれを睨みつけながらも、彼の手は震えていた。まだ立てない。自分一人だったら這ってでも逃げられる。けど――。すぐ傍にいるメルリアに目を向けた。彼女は、ぐったりと体を投げ出したまま。動く気配は全くない。
どうすべきか逡巡すると、突然魔獣が短いうめき声を上げた。
クライヴは、その妙な音に眉をひそめる。魔獣は動こうともがくが、動作はやたら鈍い。
ふと、頬を撫でる風が冷たい事に気づいた。周囲に冷気が漂っている。その風は前方からだ。魔獣の足下に霜が降りたかと思うと、足先から徐々に凍っていく。それが動こうともがくたび、ガリガリと音を立て、氷にひびが入った。しかしそれを許さぬように、ひび割れた部分から溶けた水が固まっていく。魔獣はやがてバランスを崩し、前方――街道のど真ん中に突っ伏した。好機だと言わんばかりに、地面から氷が広がり、その巨体を覆っていく。
「もう好き勝手やっちゃっていいんでしょ?」
森の奥から女の声が聞こえる。黒いとんがり帽子をかぶった女が、木々をかき分け、森の中から顔を出した。膝丈まである雑草を容赦なく踏み荒らすと、手にした杖を魔獣へ向ける。口の中で何かをつぶやくと、魔獣の真上に、影とは違う色の黒い球体が浮かぶ。
「迷惑かけた事を詫びて散れ」
女が杖を振り下ろすと、それは魔獣の体めがけてゆっくりと落ちていく。それが魔獣に触れた途端、辺りが白く光った。その光に、クライヴは咄嗟に瞼を固く閉ざした。目を開けていることができなかったのだ。
魔獣に対峙する女は、その様子をただ黙って見つめていた。魔獣そのものを見下した目をしている。
やがて、爆発物が爆ぜた時のように、そこから強い風が街道中へ、森の中へ吹き抜けていく。しかし、光と風だけで、爆発音はない。辺りに響いた音といえば、魔獣の断末魔だ。金切り声を響かせながら、影は魔術の闇に飲まれていく。白い光が収まると、その体は散り散りに大気へ溶け込んでいった。
クライヴは、うるさく脈打つ心臓の音を聞きながら、恐る恐る瞼を開く。思わず息をのんだ。魔獣の姿が影も形もなくなっていたからだ。嘘のように姿を消した魔獣だが、地面にできた爪痕はそのまま残っている。あれは夢ではないのだ。
魔獣の肉体が空に溶けた事を見送ってから、女は森の奥に手で合図した。すると、そこから眼鏡の男が静かに顔を出す。
軽快な靴音を響かせながら、女は歩を進める。やがて、土をかぶったクライヴの傍で立ち止まった。
「――さーてと。あんた達、大丈夫?」
杖の端に引っかかった木の葉を、女は手を使わずに振り落とす。
いつの間にか街道を覆っていた暗い雲が晴れ、穏やかな青空が広がっていた。眩しい太陽の光が、女の腰まである長い銀髪を照らす。
傷跡の残る地面を唖然と見つめるクライヴに、極めて明るく言い放った。
「もう大丈夫。あの魔獣は退治したわ」
その言葉に、クライヴはやっと事情を飲み込んだ。しかしまだ落ち着いておらず、表情がこわばったままだ。
「ありがとう……君は?」
「あたしはイリス。イリス・ゾラよ!」
早く先に進みたいという気持ちを抑え、あまり離れすぎてはいけないと、いつもより時間をかけて歩いて行く。クライヴとはぐれてしまったら、彼に申し訳ない。
メルリアが不安になって振り返ると、クライヴからすぐに行くと声が聞こえた。まだギリギリ声が届く範囲だ。その声に頷いたメルリアだったが、数歩進んだ後に、あれで伝わっただろうかと頭をひねった。大きい声を出すのは得意ではない。ジェスチャーでもすればよかった? 腕で丸とか? などと考えていると、どんよりと薄暗い雲が、左方からこちらへ向かっている事に気づく。雲の速度は速く、メルリアの進む道へとあっという間に影を落とした。風から湿気は感じないが、もしかしたら雨が降るのかもしれない。メルリアは辺りを見回す。見えるのは、ただ続く街道の道だけ。近くに家らしき物は見当たらなかった。目につくものといえば、左方へ枝分かれした道と、一本の看板。旅人向けの宿の案内だろうか? 疑問に思ったメルリアは看板に駆け寄る。それは古びており、根元には新緑色のこけや木の幹に似た色のキノコが生えていた。ツタのような植物が絡まり、肝心な文字も読みづらい。
メルリアは看板に顔を近づけて目をこらした。
「『グローカス、セラドン方面は、道なり。この先は私有地につき立ち入り禁止』……?」
メルリアが進むべきだった方角には、開けた街道が広がっている。対してこちらは、木が生い茂り薄暗く、不穏な空気が漂っていた。森への入り口にも思える。森には近づいてはいけない――。この国に住む子どもならば、誰もが親に教わることの一つだ。
あの先へ向かおうとは思わないが、この辺りに土地を買うのはどんな人物なのか興味はあった。建物の姿は見えない。やはり貴族といった金に余裕がある人物だろうか。近くの宿酒場で聞いてみようかな、とメルリアは暗い森の奥を見つめながら思った。
ふと、自分の足下がやたらと暗い事に気づいた。足下だけではない。体も、手も。しかし、森へ続く道はこんなに地面の色は濃くなかった。大きな影が落ちているのだ。もっと厚い雲? それとも大きな荷物を抱えた運び屋? 疑問に思っていると、人の足音が聞こえた。右足と左足、交互に響く音のリズムがずいぶんと速いのは、その人物が走っているからだ。
「メルリア! 逃げろ!!」
切羽詰まった様子でクライヴが叫ぶ声が、街道に響いた。
事情が理解できないまま、メルリアは数歩後退した。逃げてはいけない方に向けて。
瞬間、獣のような呻き声が聞こえる。自分の背後からだ。メルリアは慌てて振り返り、それを目視する。途端に、喉の奥で細い悲鳴を上げた。
そこにあったのは、黒い影だった。
全長五メートルほどのそれは、メルリアとその周囲に大きな影を落としていた。それは両腕に強靱な爪を備え、輪郭はたき火の炎のように曖昧に揺らめく。
魔獣だ。
人を簡単に屠りとるという、恐ろしい化け物の。
その姿は何にでもなかったが、強いて言えば輪郭や造形は巨大な熊を思わせる。右腹部の辺りが凹んだ形をしている様子が不自然ではあるが、魔獣はそれをものともしない。二つの目のような赤い光が、メルリアの背中をギロリと捉えた。
メルリアは目を見開いたまま、瞬きすることもできず、ただその影を見上げる事しかできなかった。足ががくがくと震える。思うように力が入らない。腰が抜けてしまえばおしまいだと分かってはいた。今のメルリアにできることは、ただ立ち尽くすことだけ。
魔獣は右腕を振り上げる。爪先が周囲の景色を反射し、ギラリと鈍く光った。その爪先は視認しているが、どうすることもできない。
「間に合え――ッ!」
そんな時、体を思いきり突き飛ばされたような感覚があった。メルリアはその衝撃に目を閉じる。無意識からくる防衛本能だった。
空中に投げ出されたメルリアの体を、クライヴはしっかりと抱きかかえる。彼女の頭を抱えながら、歯を食いしばって着地に備えた。
最初の衝撃はリュックが受け止め、ゴロゴロと土の上を転がっていく。その最中、二メートル先からは地鳴りのような音が聞こえた。地面がごうごうと揺れる。魔獣は叩き付けた腕をゆっくりと上げた。傍らには、三本の線が延びている。ところどころは赤く濡れていた。
血だ。クライヴにははっきりとそれが分かった。振り上げた魔獣の爪にはびっしりと土がついている。その隙間からは、瞳のような赤い色が見て取れた。
メルリアはクライヴに抱きかかえられたまま、ピクリとも動かない。
「なんなんだ、こいつ……!」
土煙に咳き込みながら、クライヴは吐き捨てた。
彼もこの国の人間だ。無論魔獣の存在は知っていた。見たことはなかったが、人並みに知識があるとは思っていた。だが、実際はどうだろうか。あやふやに揺れる輪郭に、二つの赤い瞳。血の滲んだ爪。本で見る物よりも、聞いた話よりも、ずっとおどろおどろしい。
自分は衛兵ではないし、魔力は全くない。けれど、メルリアを守らなければならない。クライヴは腕の力を強める。擦った腕がじくりと痛むが、それには構わなかった。背中に脂汗が這う。魔獣の姿を睨み付けながら、メルリアの体を支える。そのまま、ゆっくりと上半身を起こした。
魔獣の、ギロリと赤い視線がクライヴを捉える。同じようにそれを睨みつけながらも、彼の手は震えていた。まだ立てない。自分一人だったら這ってでも逃げられる。けど――。すぐ傍にいるメルリアに目を向けた。彼女は、ぐったりと体を投げ出したまま。動く気配は全くない。
どうすべきか逡巡すると、突然魔獣が短いうめき声を上げた。
クライヴは、その妙な音に眉をひそめる。魔獣は動こうともがくが、動作はやたら鈍い。
ふと、頬を撫でる風が冷たい事に気づいた。周囲に冷気が漂っている。その風は前方からだ。魔獣の足下に霜が降りたかと思うと、足先から徐々に凍っていく。それが動こうともがくたび、ガリガリと音を立て、氷にひびが入った。しかしそれを許さぬように、ひび割れた部分から溶けた水が固まっていく。魔獣はやがてバランスを崩し、前方――街道のど真ん中に突っ伏した。好機だと言わんばかりに、地面から氷が広がり、その巨体を覆っていく。
「もう好き勝手やっちゃっていいんでしょ?」
森の奥から女の声が聞こえる。黒いとんがり帽子をかぶった女が、木々をかき分け、森の中から顔を出した。膝丈まである雑草を容赦なく踏み荒らすと、手にした杖を魔獣へ向ける。口の中で何かをつぶやくと、魔獣の真上に、影とは違う色の黒い球体が浮かぶ。
「迷惑かけた事を詫びて散れ」
女が杖を振り下ろすと、それは魔獣の体めがけてゆっくりと落ちていく。それが魔獣に触れた途端、辺りが白く光った。その光に、クライヴは咄嗟に瞼を固く閉ざした。目を開けていることができなかったのだ。
魔獣に対峙する女は、その様子をただ黙って見つめていた。魔獣そのものを見下した目をしている。
やがて、爆発物が爆ぜた時のように、そこから強い風が街道中へ、森の中へ吹き抜けていく。しかし、光と風だけで、爆発音はない。辺りに響いた音といえば、魔獣の断末魔だ。金切り声を響かせながら、影は魔術の闇に飲まれていく。白い光が収まると、その体は散り散りに大気へ溶け込んでいった。
クライヴは、うるさく脈打つ心臓の音を聞きながら、恐る恐る瞼を開く。思わず息をのんだ。魔獣の姿が影も形もなくなっていたからだ。嘘のように姿を消した魔獣だが、地面にできた爪痕はそのまま残っている。あれは夢ではないのだ。
魔獣の肉体が空に溶けた事を見送ってから、女は森の奥に手で合図した。すると、そこから眼鏡の男が静かに顔を出す。
軽快な靴音を響かせながら、女は歩を進める。やがて、土をかぶったクライヴの傍で立ち止まった。
「――さーてと。あんた達、大丈夫?」
杖の端に引っかかった木の葉を、女は手を使わずに振り落とす。
いつの間にか街道を覆っていた暗い雲が晴れ、穏やかな青空が広がっていた。眩しい太陽の光が、女の腰まである長い銀髪を照らす。
傷跡の残る地面を唖然と見つめるクライヴに、極めて明るく言い放った。
「もう大丈夫。あの魔獣は退治したわ」
その言葉に、クライヴはやっと事情を飲み込んだ。しかしまだ落ち着いておらず、表情がこわばったままだ。
「ありがとう……君は?」
「あたしはイリス。イリス・ゾラよ!」