第62話 古い時間の夢

文字数 6,706文字

 メルリアは夢を見ていた。彼女が覚えている記憶の中で最も古い時間の夢だ。
 大きな手提げ袋を持つ両親の姿。そのどちらも、不安そうにメルリアの顔を見つめていた。
 メルリアはベッドに横になり、深い咳を何度も繰り返していた。高熱のせいで朦朧とした意識の中、母親の声が聞こえる。
「すぐに帰ってくるからね、メル。困ったことがあったら、おばあちゃんに言うのよ」
「うん、いってらっしゃい……」
 それが、メルリアが家族と最後に交わした言葉だった。
 それ以来、メルリアの風邪が治っても、新しい年を迎えても、メルリアが一つ年を取っても、二人が帰ってくることはなかった。メルリアは現実を今ひとつ理解せぬまま、一日ずつ成長していく。やがて、善悪の判断がつき始めた頃、幼い彼女の耳に噂話が飛び込んでくる。
 ――ベルさんのお家って、メルリアちゃん一人よね? ご両親は?
 ――知らないの? あの家のご両親、外国で亡くなったのよ。
 その話を耳にしたばかりのメルリアは、まだきちんと言葉の意味が理解できなかった。ただ、なんとなく祖母には聞いてはいけないような気がして、聞けずにいた。メルリアが年を取り成長するにつれ、噂話の意図を理解すると、その思いは確信に変わった。仕事で忙しい祖母に迷惑をかけてはいけない、と。
 ロバータが入院する頃には、それは確固たる決意へと変化していった。病気で大変な祖母には明るい話だけをしなくちゃ、と。
 当時はその気持ちが正しかったと思っていた。
 今もそれは間違っていなかったと思っている。

 メルリアが昏々とした眠りから目覚めたのは、魔女の村の空が青色から白色へと変わる間の事であった。夕方になったばかりの村はまだ明るい。
 ずいぶんと昔の夢を見た気がするが、内容はよく覚えていない。目を擦ると、目尻から頬の間にかけてざらついた感触があった。それに触れた指を確認するが、そこには何もついていない。
 メルリアはゆっくりと上体を起こすと、周囲をぐるりと見回した。小さな部屋だった。丸太でできたベッドに、同じく丸太を積んだような壁面。床には確かな木のぬくもり。窓枠から差し込む夕方の光は柔らかく、窓の外から覗く緑は生命力を感じさせる。
 ここはどこだろう? メルリアは一人首をかしげた。ベッドから降り、周囲を見回す。おぼつかない足取りで部屋の扉をゆっくりと引いた。
 その景色に、思わず彼女は息をのむ。
 開けた広場に、中央の焦げたような土の跡。周囲は木々で覆われており、小さい家々がまるで浮いているように建ち並んでいる。絵本で見た、小人や妖精の家とよく似ていた。森を穏やかに吹き抜ける風はどこか心地よく、快や不快といったモノが存在しないように感じられた。メルリアの知らない世界だ。
 その景色を見つめていると、メルリアははっと目を見開いた。脳裏によみがえったのは、黒い霧のような巨体に赤い目の色をした魔獣。それが腕を上げると爪先の銀がギラリと光った。銀は彼女の体を映し出すよう反射し、その鋭い光が自分に向けて振り下ろされた。一瞬、魔獣とは異なる赤色を見た気がするが、それ以降は思い出せない。
 今までの事を思い出したメルリアはうつむいた。あれが恐らく自分の最期だったのだと思い至ったからだ。爪先の銀の直後に見えた赤は、自分の体から血が噴き出した色に違いない――そう結論づけ、唇をきゅっと噛んだ。
 メルリアの体を森の風がそよそよと撫でる。その風に吹かれながら、メルリアは目を伏せた。唇に入っていた力が徐々に抜けていき、閉じていた目がゆっくりと開く。かつて、ベラミント村に来ていた修道女が語っていた聖典の話を思い出す。
 修道女は死んだ魂が行き着く場所について、こう言った。そこは現実離れした景色が広がっており、花や緑がたくさん自生している自然豊かな場所だという。そこで目覚めたら、まずは北へ向かって歩きなさい。その先には川辺があるから、そこまで向かえば問題ありません――そう語っていた。
 普段より記憶の引き出しが曖昧であることに首をかしげながらも、深くは考えず、メルリアはツリーハウスの階段をゆっくりと下りていった。生きているわけではないのだから、普段と勝手が違うのは当たり前だと納得させる。
 降りたツリーハウスの脇の道には、膝まで伸びた雑草を踏みつけた跡があった。獣道のような細い道が森の奥へと続いている。それに従い、森の奥へと向かっていった。

 やがて、メルリアは村を流れる川にたどり着いた。
 子鹿が人の気配に姿を消し、ガサガサと草が揺れる。枝で休んでいた鳥は声もなく、羽音だけをその場に残して飛び去っていく。人影が彼女を伺うが、それもまた彼女にかかわらず、森の奥へと消えた。
 彼女の周囲はただただ静かだった。聞こえるのは木々のざわめきや、川がせせらぐ清らかな音のみだ。
 メルリアは川のほとりへ向かうと、その様子をうかがう。川幅は彼女の想像よりずっと広い。辺りを見回すが、橋らしき物は見当たらなかった。渡るとするならば、川を歩いて行くしかないだろう。
 メルリアは川の水をのぞき込む。それは驚くほど澄んでおり、このまま飲んでも害はなさそうだと一目で分かるほど、透明感があった。水草に紛れ、苔色の背中をした魚がゆらゆらと優雅に泳いでいた。その底――石の灰色に、魚の影がうっすらと浮かび上がる。こちらの影に気づくと、魚は慌てて川を上っていった。
 その様子を目で追った後、川に手を伸ばし、人差し指を第一関節まで浸した。水に触れた途端、メルリアは目を見開いた。川の水は想像以上に冷たく、こちらの体熱を瞬時に奪う。水面に揺れる自分の指の形を見つめながら、メルリアは首を横に振った。この川を渡っていくなんて、そんな無礼なまねはできない。そもそも、魚が住んでいるのだし――ゆっくりと指を引き抜くと、川向こうに広がる緑をぼんやりと見つめた。教会の教えを疑っていたわけではないが、本当にあるんだと感心していた。
 しかし、これから先、どうしたらいいか分からない。周囲に人らしい気配はない。喉が苦しいような感覚を覚え、メルリアは唾を飲み込んだ。けれど、焦る必要はない。もう時間に追われることはないのだから。
 さらさらと流れる川の手前――水草が揺らめき、メルリアの表情を歪に映し出す。彼女は何も考えずに自分の影を見つめていた。そうしていると、水の底にエルヴィーラの姿が思い浮かぶ。それに続けて、クライヴの顔も。途端、頭の端がずきりと痛んだ。脳がうまく働かない。瞬きの回数が次第に減っていき、目を開けている時間よりも、目を閉じている時間の方が長くなっていく。メルリアは川の音に耳を傾けながら、心地のいい眠気に襲われていた。
 森の夜は早い。次第に周囲が薄暗く変わってゆく。森の暗さが、余計にメルリアの眠気を誘った。やがて体はバランスを失い、川の方にのめり込むように上体が倒れ込む。心地のいい川の音、頬に触れる冷気が増していた。
 その途端、強い力で右腕が後ろに引っ張られた。その衝撃でメルリアは数歩後退し、川辺から距離を置く。
「間に合った……」
 その人物はメルリアからそっと手を離すと、ほっと安堵の息を吐く。
 メルリアはゆっくりと目を開いた。自分の腕を引いたその手は見覚えがあった。骨張った男性の手。服装もそうだ。旅人の身につける、動きやすい格好に長いズボン。顔を上げると、安心しきったように笑うクライヴの表情が目に入る。
「大丈夫か?」
 その言葉を聞いたメルリアは何も言わない。
 分からなかったからだ。どうしてクライヴがこんなところにいるのだろう。メルリアはゆっくりと記憶を辿る。魔獣に襲われる前、自分はクライヴと歩いていた――そのことを思い出したメルリアははっと目を丸くすると、視線を下へ泳がせた。そうして、自分の左手をクライヴの手に重ね合わせる。彼の手はずいぶんと冷たい。その温度に目を細めながら、顔を上げた。
「私……もしかして、巻き込んじゃったの?」
 川辺の冷え冷えとした空気が吹き抜けると、メルリアの長い髪が風を含んでふわりと揺れた。
 ゆっくり喋るメルリアに、クライヴは一瞬驚いたように目を見開いた。困惑と照れが混ざったような表情を浮かべながら、居心地が悪そうに頬をかく。落ち着いたのか、やがて咳払いを一つすると、クライヴは首を横に振った。彼女の言葉を否定する意味でだ。
「いや、巻き込んだのは俺の方だ。俺が、ちゃんとメルリアを守れなかったから……」
 その声は徐々に小さく力をなく変わっていく。
 うつむくクライヴを見て、メルリアは胸の奥が締め付けられるような鈍い痛みを感じた。本当に巻き込んでしまったようだと、実感が襲ってくる。自分一人ならまだいい。けれど、人を巻き込んだとなると話は別だ。しかし、もうどうすることもできないのは事実だった。ごめんなさいと伝えたかった言葉を飲み込む。メルリアはゆっくりと呼吸すると、笑顔を作った。
「ここ……どうしたらこの先に行けるか、知ってる?」
「この先……?」
 メルリアは川向こうを指さす。クライヴはその先を目で追った。日暮れを迎えた魔女の村は暗い。指さした先には薄暗い森が広がるのみだ。メルリアの指す方角と太陽の位置から察するに、あちらはベラミントやシーバの方角だろう。しかし、彼女はここがどこか知らないはずだ。
「三本渡った川の先……だったっけ。両親が待っててくれると思うんだけど」
 その言葉に、クライヴはメルリアの表情を伺う。ぼうっと森の奥を見つめていた。
「うん、お父さんとお母さん。もう十年以上会ってないんだ」
「そう、なのか」
 クライヴが答えを言い淀むが、メルリアはそんなことを気にするそぶりを見せず、にこりと笑ってうなずいてみせた。再び視線を下ろすと、目の前を流れる川を見つめてつぶやく。
「どうしようかなあ……」
 笑っているような、どこか遠くを見ているような、つかみ所のない表情でつぶやく。
 その独り言にクライヴは何も言わなかった。どうにも何かがかみ合わない。ずっと眠っていたから意識がはっきりしていないのだろうか? いや、それにしてもおかしい――漠然とした違和感を覚えつつも、確信にはたどり着けないでいた。ゆっくりと頭を振ると、メルリアに再び手を差し伸べる。
「取り敢えずいったん戻ろう。少し落ち着いた方がいいと思う」
 メルリアはクライヴの手を見つめはするが、その手を取ろうとはしなかった。
 帰る場所などないはずだからだ。
「戻るって、どこへ?」
「広場だよ――って、一から説明しないといけないよな。ここはミスルトー。魔女の村って呼ばれているらしい」
 聞き慣れない単語に、メルリアは周囲を見回した。ざあざあとざわめく木々に色はない。代わりに、その間から見える星々が、藍色に染まりかけた夜空をわずかに彩る。その光は森の奥までは届かない。大形の鳥が枝の上に止まると、ぐらぐらと足場が不安定に揺れる。形は判っても、それがどういう種類なのかまでは理解はできない。
「ここって、楽園じゃない……?」
「楽園って……、天の?」
 天の楽園とは、死後に行き着くとされる世界の総称である。
 まさか、という風にクライヴは冗談のつもりで返したが、メルリアは大真面目に彼の目を見つめ返し、ゆっくりとうなずく。クライヴは試しに続きの言葉を待ってみたが、彼女は口を固く閉ざし、こちらのアクションを待っていた。ほんのわずかな沈黙の後、クライヴは慌てて手を振った。
「いやいや、死んでない! 生きてるって……! ほら、死んでたら体はないんだし、心臓の音はしないはずだろ?」
 クライヴは自分の左胸に手を置いた。そこは激しく脈打っている。手を軽く置いただけだというのに、苦しいと錯覚しそうなほどに脈打っていた。激しい運動をした直後の音によく似ている。
 メルリアも彼に倣って、自分の左胸に手を置く。クライヴに対して、こちらは不自然なほどゆっくりと脈打っていた。リラックスしている時のそれに近い。
 本当に動いている――メルリアは立ち尽くす。彼女の様子にいたたまれなくなったクライヴは、こわごわと口を開いた。
「動いてる……よな?」
「うん……」
 クライヴは深々と息を吐き、安堵した。嫌な鼓動の乱れが徐々に収まっていく。
 当人であるメルリアは、現状を理解しているのか否か、ぼうっとしていた。どう受け止めたらいいのか分からなかったのだ。
 実際、死んでいないと分かって安心したのはメルリアではなくクライヴの方である。
「そろそろ戻ろう。これ以上暗くなったら、さすがに俺も案内できないかもしれないし」
 森の夜は淡々と、刻々と更けていく。この村に明かりはない。
 暗闇に慣れたクライヴの目は周囲の障害物の輪郭を捉えてはいる。しかし、この森には野生動物が多く棲んでいることを知った。夜行性の動物に出会ったら危険だ。そう何度も襲われたくはないし、メルリアを二度も危機に晒したくなかった。
 もう一度、クライヴは手を差し伸べる。メルリアは、その右手に、ゆっくりと自分の手を重ね合わせた。そのまま、メルリアは弱々しい力でクライヴの手に触れ、指を曲げた。握るには至らない。彼女の手には力が入っていないのだ。
「……メルリア?」
 クライヴは、随分と温かい彼女の手を疑問に思った。自分の体温が極端に低い時があるのは自覚しているが、それは喉の渇きを伴った体調不良の時の事である。今はそんな状態ではない。
 メルリアは両手でクライヴの手を包むと、力なく笑った。
「クライヴさんの手、冷たくて気持ちいいね」
「メルリア、少しいいか?」
 触れられている右手はそのままに、クライヴは左手をメルリアの額に当てた。手のひら全体に、メルリアの体温が瞬時に伝わる。熱い。クライヴは眉間にしわを寄せた。自分の額の温度を測ろうと右手に視線を向ける。重なったメルリアの手が見えた。振りほどく事に少し躊躇を覚える。改めて彼女の様子をうかがうと、その顔からはさらに力が抜け、へにゃりと気の抜けた表情になった。
「具合悪くないか? 体、痛いとか……」
「ううん。ちょっとふわふわするけど……」
 メルリアが首を横に振ると、その衝撃で彼女の視界がぐにゃりと変形する。めまいに似た感覚は、森の黒と川に反射する光が、まるでコーヒーに入れたミルクのように歪んでいた。額の辺りから気分の悪さがこみ上げた。自然と目を閉じると、クライヴに触れていた手が離れていく。平衡感覚を失ったメルリアは、縋る物がないまま左へ数歩移動した。そのまま体が向いた方向へ倒れそうになるが、クライヴが慌てて肩を押さえる。メルリアはその衝撃に目を覚ますことはなく、静かに呼吸を繰り返している。
「……メルリア?」
 静かに声をかけるが、メルリアが目を覚ます様子はなかった。
 様子がおかしかったのは熱のせいかもしれない、と仮定する。どちらにしても、早く広場に戻るべきだろう。眠っているメルリアをなんとか背負うと、クライヴはゆっくりと立ち上がった。
 が、力の加減を間違えて一瞬よろける。メルリアの体重が軽すぎたのだ。改めて姿勢を正すと、広場に向け、ゆっくりと歩を進める。
 エルフの村には人の気配がない。木々を揺らす静かな風の音、野生動物の足音に川を流れる水の音。土を踏む湿った音に、枯れ葉を踏む軽い音。それら全てはこれらの環境を構築するわずかな音であり、思考を奪われるような雑音とは異なる。それ故、空っぽになったクライヴの頭の中に、見過ごしていた事象が実感としてじわじわと湧き上がってくる。
「両親……いないんだな」
 返ってくる言葉はなく、その声は森の闇に飲み込まれた。
 クライヴは後ろに視線を向けた。メルリアの長く細い髪が風に揺れる。背中にあるわずかな重みと、人肌にしては高すぎる温度。
 彼の脳裏に一つの情景が思い浮かぶ。それはメルリアと知り合って間もない頃……シーバにいた時の事だ。漁師の舟と外国同士を行き来する旅客船が並ぶ港の傍で、彼女の旅をする理由を聞いた。大変だなと言うと、首を振って笑ってみせた。
 ――大変だなんて思ってないです。それに、生きているうちに見つけたくて。
 あの時のクライヴは、メルリアのことを強い子だと思った。けれど、そう片付けるには何かが違うとも。今になってその言葉の重みに気づく。あの時どうして違うと思ったのか、その答えにも。
 ……俺は本当に何も知らなかった。
 クライヴの足が、歩みを止めることを躊躇するようにゆっくりと動く。奥歯をきつく食いしばり、ただただ前へ進んだ。
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登場人物紹介

◆登場人物一覧

┗並びは初登場順です。

┗こちらのアイコンは公式素材のみを使用しています。

メルリア・ベル


17歳。

お人好し。困っている人は放っておけない。

祖母との叶わなかった約束を果たすため、ヴィリディアンを旅することになる。

フィリス・コールズ


16歳。

曖昧な事が嫌いで無駄を嫌う。
シーバの街で、両親と共に「みさきの家」という飲食店を経営している。

クライヴ・シーウェル


22歳。

真面目。お人好しその2。

理由あって旅をしており、メルリアとよく会う。

ネフリティス


27歳(人間換算)

都市に工房を持つエルフの錬金術師。

多少ずぼらでサバサバしている。

イリス・ゾラ


21歳。

隣国ルーフスの魔術師。闇属性。

曲がったことが嫌い。

リタ・ランズ


16歳(人間換算)

魔女の村ミスルトーで暮らしているエルフ。
アラキナのストッパー兼村一番のしっかり者。

ウェンディ・アスター


不明(20代後半くらいに見える)

街道の外れの屋敷で働くメイド。

屋敷の中で一番力が強い。

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