第45話 工房の朝1
文字数 3,075文字
翌朝。
早々に部屋の片付けを終えたメルリアは、部屋中をぐるりと見回す。ここで過ごす朝は恐らくこれが最後だと思うと、わずかに寂しさを覚える。
借りていた部屋には生活感がほとんどなかった。メルリアは元々荷物が多くない。ヴェルディグリに来てから、手元に残る物を買うこともなかった。だから、荷物をなくしてベッドのシーツを綺麗に伸ばせば、半月前の状態に戻る。
メルリアは窓際に立つと、家々の間から覗く太陽の光に目を細めた。
また一歩前へ進むことができる。その実感を得たメルリアの表情は晴れやかだ。
それに――。
メルリアはポーチの中から四つ折りの紙を取り出す。それは、この街に来て唯一増えた物――シャムロックが手渡したメモ書きだ。内容は覚えているから、わざわざ開いて見る必要はない。しかし、メルリアは四つ折りの紙を丁寧に開き、一つ一つの文字にゆっくり目を通した。まるで初めて読むように、かみしめるように。
こんなに早く会うことになるとは思っていなかった。メルリアの頬が緩む。花の手がかりに近づける上に、久しぶりにエルヴィーラにも会えるのだ。エルヴィーラが住んでいるという夜半の屋敷ってどんなところなんだろう? シャムロックはあの花についてどんな情報を持っているのだろう? 自分の曾祖父はどんな人だった? 期待と疑問がメルリアの胸を高鳴らせる。
メルリアはもう一度文章に目を通してから、それを元通り四つ折りに畳んだ。ポーチをしまい、リュックを手に持つ。部屋の周りをぐるりと一周し、ベッドやその下に物が落ちていないか念入りに確認した。
最後に朝食を用意しないと――メルリアが扉を開けると、レースのカーテンが風を含んでふわりと膨らんだ。
一段一段階段を降り、やがて玄関前にたどり着く。今日の廊下は静かだった。ここに来てから時々聞いていた、あの"時"の音は聞こえない。
「不思議だったな……」
メルリアは階段の奥を見つめ、ぽつりとつぶやいた。
「あれ?」
周囲に耳をこらしていると、リビングの方から物音がした。油を引いたフライパンに、何かを焼いている音に似ている。
ネフリティスが起きているのだろうか? 料理はしないと言っていたけれど、気が変わった? 疑問に思いながらも、メルリアはリビングへ向かった。
メルリアがリビングの戸を開けると、そこには知らない男がいた。
男はキッチンに立ち、タマゴの入ったフライパンを振っている。テーブルの上には三人分のティーカップとサラダが並んでおり、彼が用意したものだとうかがえた。
男は表面が固まった目玉焼きにこしょうを振る。粒こしょうを削る豪快な音が響いた。
メルリアは男の背中を見つめたまま固まった。
この人誰、と。
朝食を作っているようだから、無断侵入だとか空き巣とか、そういった類いのものではないだろう。ネフリティスと似た色合いの髪をしているが、彼女の色よりも暗いし、色の傾向が違う。耳が尖っていないからエルフではなさそうだ。弟子の人かとも思うが、彼女が弟子は可愛いと口にしていたから、彼は無関係だろう。だとすれば、ネフリティスの客人だろうか? 普通客人は朝食を用意しないが、彼女の友人ならあり得ないとは言い切れない。
――お客さんに仕事をさせてしまうなんて! メルリアは慌てて男に駆け寄った。
足音に気づいた男は、フライパンの火を止める。振り返った男は目を丸くした。想像よりもずいぶんと近くにメルリアがいたからだ。しかも彼女はとんでもないことをしてしまったというような顔をしている。
「ご、ごめんなさい! 座っててください、後は私が用意します!」
「いいよ、これ僕の仕事だし」
男は起用にターナーで目玉焼きをすくうと、傍らに用意した皿に盛り付けた。無駄のない動きにメルリアは目を奪われる。まるでレストランのコックのような身のこなしだった。
その間に、男はコンロの脇でもう一つ卵を割る。コツコツという軽やかな音にメルリアははっと顔を上げた。止めようとしたがもう遅く、男はフライパンに二個目のタマゴを割り入れたところだった。火をつけると、コンロの端に取り付けられた魔力石が淡い青色に光る。
「で、でも、お客様にこんな……」
「お客さんは君の方でしょ?」
「い、いえ! 私はネフリティスさんに朝食を作るよう頼まれているので!」
透明だったタマゴの表面が白く濁る。ターナーで端を突っつくと、ふるふると情けなく表面が揺れた。男はパチパチとフライパンの脇で跳ねる油を見つめながら、首をかしげた。
「ネリス――ネフリティス、弟子がどうとか言ってなかった?」
「あ、はい。そろそろ帰ってくるって聞きましたけど……」
メルリアは主題をぼかして男に言った。軽々しく口にしていいような内容ではないと思った。だからこそ、これ以上話題を広げられてしまっては困る。メルリアは嘘が得意ではない。相手はどんな関係であれ、家に上がり込んで朝食を作るような仲だ。なんとか話題をそらそうと、メルリアは口を開く。
「そっ、そうだ! ネフリティスさんから聞いたんですけど、お弟子さんってとっても可愛い方なんですって。どんな女の人なんだろう……。お会いしたことありますか?」
メルリアがにこやかに尋ねると、男はターナーを半熟の卵に突き刺し、盛大に咳き込んだ。目玉焼きが真っ二つに割れ、半熟だった黄身がどろりと流れ出た。コンロの火は止まらず、フライパンの熱が半熟を固焼きに変えていく。
「だ、大丈夫ですか……?」
「その『お弟子さん』の事、どんな人だって?」
苦しそうに何度か咳を繰り返しながら、男は苦い顔で言う。眉の端がピクピクと痙攣するように細かく動いた。
メルリアは振り返ると、リビングのテーブルをじっと見つめた。そこに座る自分とネフリティスのことを思い出し、そしてあの日の会話をたぐり寄せる。
「えっと……『面白い』、『可愛い顔をしている』、『童顔』、『お酒は弱い』ですかね」
「あー……っそ。まあ大体想像はつくけど」
素っ気ない返事をすると、男はターナーで真っ二つに割れた目玉焼きを皿に盛った。火力の調整を怠ったせいで、目玉焼きの端が焦げ茶に変色している。もう一回ターナーを突き刺して四等分にしてやろうかと思ったが、やめた。こしょうを振りかけずに、彼はそれを完成品として台所の端に追いやる。まだ熱が残るフライパンに油を雑に引くと、音を立てて油が跳ねた。
何か気に障ることを言ってしまったのだろうか。メルリアは男の隣で萎縮する。こちらに非があるのなら謝らなければ、と恐る恐る声をかけようと手を伸ばした――その時。
「『声が高い』、『年の割に背も低い』というのを伝え忘れていた」
男が握ったターナーがミシリと音を立てて軋む。
声の主はコツコツと靴音を立て、メルリアと男に歩み寄った。
「お、おはようございます!」
メルリアは慌てて頭を下げる。
男は手に持った卵を割り入れず、空の皿に置いた。コロコロと静かに転がり、やがて皿に当たって動きを止める。ターナーは握ったままだ。
彼女――ネフリティスは男と一方的に肩を組む。男ごとメルリアに向き直り、ニッと心底嬉しそうな笑みを浮かべた。対して、男はメルリアから視線をそらし、濁った目で床を見つめている。男の胸元にはペンダントが揺れた。見覚えのある鮮やかな緑色がキラリと光る。
「紹介しよう。これは私の弟子。名をルークという」
「え――」
メルリアの表情から、瞬時に血の気が引いていく。
目の前にいるのはどう見ても男だったし、どう聞いても男性の名前であった。
早々に部屋の片付けを終えたメルリアは、部屋中をぐるりと見回す。ここで過ごす朝は恐らくこれが最後だと思うと、わずかに寂しさを覚える。
借りていた部屋には生活感がほとんどなかった。メルリアは元々荷物が多くない。ヴェルディグリに来てから、手元に残る物を買うこともなかった。だから、荷物をなくしてベッドのシーツを綺麗に伸ばせば、半月前の状態に戻る。
メルリアは窓際に立つと、家々の間から覗く太陽の光に目を細めた。
また一歩前へ進むことができる。その実感を得たメルリアの表情は晴れやかだ。
それに――。
メルリアはポーチの中から四つ折りの紙を取り出す。それは、この街に来て唯一増えた物――シャムロックが手渡したメモ書きだ。内容は覚えているから、わざわざ開いて見る必要はない。しかし、メルリアは四つ折りの紙を丁寧に開き、一つ一つの文字にゆっくり目を通した。まるで初めて読むように、かみしめるように。
こんなに早く会うことになるとは思っていなかった。メルリアの頬が緩む。花の手がかりに近づける上に、久しぶりにエルヴィーラにも会えるのだ。エルヴィーラが住んでいるという夜半の屋敷ってどんなところなんだろう? シャムロックはあの花についてどんな情報を持っているのだろう? 自分の曾祖父はどんな人だった? 期待と疑問がメルリアの胸を高鳴らせる。
メルリアはもう一度文章に目を通してから、それを元通り四つ折りに畳んだ。ポーチをしまい、リュックを手に持つ。部屋の周りをぐるりと一周し、ベッドやその下に物が落ちていないか念入りに確認した。
最後に朝食を用意しないと――メルリアが扉を開けると、レースのカーテンが風を含んでふわりと膨らんだ。
一段一段階段を降り、やがて玄関前にたどり着く。今日の廊下は静かだった。ここに来てから時々聞いていた、あの"時"の音は聞こえない。
「不思議だったな……」
メルリアは階段の奥を見つめ、ぽつりとつぶやいた。
「あれ?」
周囲に耳をこらしていると、リビングの方から物音がした。油を引いたフライパンに、何かを焼いている音に似ている。
ネフリティスが起きているのだろうか? 料理はしないと言っていたけれど、気が変わった? 疑問に思いながらも、メルリアはリビングへ向かった。
メルリアがリビングの戸を開けると、そこには知らない男がいた。
男はキッチンに立ち、タマゴの入ったフライパンを振っている。テーブルの上には三人分のティーカップとサラダが並んでおり、彼が用意したものだとうかがえた。
男は表面が固まった目玉焼きにこしょうを振る。粒こしょうを削る豪快な音が響いた。
メルリアは男の背中を見つめたまま固まった。
この人誰、と。
朝食を作っているようだから、無断侵入だとか空き巣とか、そういった類いのものではないだろう。ネフリティスと似た色合いの髪をしているが、彼女の色よりも暗いし、色の傾向が違う。耳が尖っていないからエルフではなさそうだ。弟子の人かとも思うが、彼女が弟子は可愛いと口にしていたから、彼は無関係だろう。だとすれば、ネフリティスの客人だろうか? 普通客人は朝食を用意しないが、彼女の友人ならあり得ないとは言い切れない。
――お客さんに仕事をさせてしまうなんて! メルリアは慌てて男に駆け寄った。
足音に気づいた男は、フライパンの火を止める。振り返った男は目を丸くした。想像よりもずいぶんと近くにメルリアがいたからだ。しかも彼女はとんでもないことをしてしまったというような顔をしている。
「ご、ごめんなさい! 座っててください、後は私が用意します!」
「いいよ、これ僕の仕事だし」
男は起用にターナーで目玉焼きをすくうと、傍らに用意した皿に盛り付けた。無駄のない動きにメルリアは目を奪われる。まるでレストランのコックのような身のこなしだった。
その間に、男はコンロの脇でもう一つ卵を割る。コツコツという軽やかな音にメルリアははっと顔を上げた。止めようとしたがもう遅く、男はフライパンに二個目のタマゴを割り入れたところだった。火をつけると、コンロの端に取り付けられた魔力石が淡い青色に光る。
「で、でも、お客様にこんな……」
「お客さんは君の方でしょ?」
「い、いえ! 私はネフリティスさんに朝食を作るよう頼まれているので!」
透明だったタマゴの表面が白く濁る。ターナーで端を突っつくと、ふるふると情けなく表面が揺れた。男はパチパチとフライパンの脇で跳ねる油を見つめながら、首をかしげた。
「ネリス――ネフリティス、弟子がどうとか言ってなかった?」
「あ、はい。そろそろ帰ってくるって聞きましたけど……」
メルリアは主題をぼかして男に言った。軽々しく口にしていいような内容ではないと思った。だからこそ、これ以上話題を広げられてしまっては困る。メルリアは嘘が得意ではない。相手はどんな関係であれ、家に上がり込んで朝食を作るような仲だ。なんとか話題をそらそうと、メルリアは口を開く。
「そっ、そうだ! ネフリティスさんから聞いたんですけど、お弟子さんってとっても可愛い方なんですって。どんな女の人なんだろう……。お会いしたことありますか?」
メルリアがにこやかに尋ねると、男はターナーを半熟の卵に突き刺し、盛大に咳き込んだ。目玉焼きが真っ二つに割れ、半熟だった黄身がどろりと流れ出た。コンロの火は止まらず、フライパンの熱が半熟を固焼きに変えていく。
「だ、大丈夫ですか……?」
「その『お弟子さん』の事、どんな人だって?」
苦しそうに何度か咳を繰り返しながら、男は苦い顔で言う。眉の端がピクピクと痙攣するように細かく動いた。
メルリアは振り返ると、リビングのテーブルをじっと見つめた。そこに座る自分とネフリティスのことを思い出し、そしてあの日の会話をたぐり寄せる。
「えっと……『面白い』、『可愛い顔をしている』、『童顔』、『お酒は弱い』ですかね」
「あー……っそ。まあ大体想像はつくけど」
素っ気ない返事をすると、男はターナーで真っ二つに割れた目玉焼きを皿に盛った。火力の調整を怠ったせいで、目玉焼きの端が焦げ茶に変色している。もう一回ターナーを突き刺して四等分にしてやろうかと思ったが、やめた。こしょうを振りかけずに、彼はそれを完成品として台所の端に追いやる。まだ熱が残るフライパンに油を雑に引くと、音を立てて油が跳ねた。
何か気に障ることを言ってしまったのだろうか。メルリアは男の隣で萎縮する。こちらに非があるのなら謝らなければ、と恐る恐る声をかけようと手を伸ばした――その時。
「『声が高い』、『年の割に背も低い』というのを伝え忘れていた」
男が握ったターナーがミシリと音を立てて軋む。
声の主はコツコツと靴音を立て、メルリアと男に歩み寄った。
「お、おはようございます!」
メルリアは慌てて頭を下げる。
男は手に持った卵を割り入れず、空の皿に置いた。コロコロと静かに転がり、やがて皿に当たって動きを止める。ターナーは握ったままだ。
彼女――ネフリティスは男と一方的に肩を組む。男ごとメルリアに向き直り、ニッと心底嬉しそうな笑みを浮かべた。対して、男はメルリアから視線をそらし、濁った目で床を見つめている。男の胸元にはペンダントが揺れた。見覚えのある鮮やかな緑色がキラリと光る。
「紹介しよう。これは私の弟子。名をルークという」
「え――」
メルリアの表情から、瞬時に血の気が引いていく。
目の前にいるのはどう見ても男だったし、どう聞いても男性の名前であった。