第93話思わぬ再会3
文字数 2,995文字
八年ぶりの再会を果たした二人の間に、会話が絶えることはなかった。
メルリアは普段よりも長めに夕食を取りながら、テオフィールとの時間を噛みしめる。まるで時が八年前に遡り、止まったような感覚があった。しかし時は変わらず、普段通り流れていく。
メルリアの笑顔が不意に止んだのは、喉の奥に空気のような異物感を覚えた時だった。そのまま目を細めて欠伸を漏らし、目頭に溜まった涙を指の背で拭う。
その様子を見つめたテオフィールは微笑した。ふと壁掛け時計に目をやると、彼の目が大きく見開かれる。咄嗟に曾孫へ手を伸ばそうとしたが、はっとして、それを膝の上に置いた。落ち着かない様子で膝の上の手を握ると、暗闇へ苦笑する。八歳の十時と、十八歳にとっての十時は異なる。おまけにヴィリディアンで十八は成人だ。もう大人なんだからとテオフィールは心の内で繰り返すと、メルリアに笑顔を向けた。
「そろそろ休む? ウェンディが部屋を用意してくれたから、今日は泊まっていってよ」
「ありがとうございます。……あ、その前にお尋ねしてもいいですか?」
テオフィールが大丈夫だよと笑顔で頷く。メルリアも笑顔を浮かべた。両目頭に溜まった涙をもう一度拭うと、椅子に座り直した。背筋を伸ばし、真っ直ぐ曾祖父を見つめる。
「月満草、おばあちゃんのお墓にお供えしたいんです。一輪、いただいてもよろしいでしょうか」
「もちろん。月満草の扱いはオレの一存じゃ決められないけど、二人とも駄目って言ったりしないと思うよ」
オレからもお願いしておくから、とテオフィールは笑った。
その様子に、メルリアはほっと安堵のため息をつく。そうすると同時に、脳裏にはロバータを思い浮かべていた。今日何度思い返したか分からない、大好きで、優しくて、温かい祖母の顔。交わした約束を二人で叶えることはできなかった。けれど、その約束はもうすぐ果たされる。
胸の内に染み渡るような、静かな喜びを感じながら目を伏せる。瞼の裏で、祖母の眠る墓石を思い浮かべた。祖母の墓に何度か花を供えたことはあった。祖母の命日には必ず。
そして、旅に出る前日にも。あの日、青々と晴れ渡った空には雲一つなく、供えた花の色が太陽の光を受け生き生きと輝いていた。その記憶を辿りながら、祈り終えた様子を思い出す。次に行く時は、これがあの約束の花だと報告できることが何よりも嬉しい。
記憶の中にある視界に、自分の薄汚れた靴が視界に入った。瞬間、はっと目を開く。こちらをじっと見ていたテオフィールと目が合った。切り出すのは今しかないだろう。
「あの、ひいおじいさま。おばあちゃんのお墓参り、一緒に来て欲しいです」
「オレ?」
テオフィールは目を丸くして、自分を指さした。メルリアは深く頷いて返答を待つ。微動だにせぬ様子は、彼女が本気である証拠だった。
薄く開いた口を閉じる。軽く笑って、冗談のように流せるような雰囲気ではない。正面からぶつけられたメルリアの問いを受け止めざるを得なかった。真面目にその問いに向き合い、しばし逡巡する。断る、という判断を迷わせるのは、メルリアの真っ直ぐな瞳だ。行く、という判断を迷わせるのは、自分の過去だ。揺れる視線は窓の外へ。夜空に浮かぶ月は痩せ始めていた。かといって下弦ほど鋭くはなく、朔の月にはまだ余裕がある。不意に右足首がチクリと痛む。その感覚は先ほどまであった足枷のものと繋がった。冷たく重い鎖の感覚は未だ生々しく足にまとわりついている。あなたはすぐに逃げるから、と冷たく吐き捨てたウェンディの言葉と共に。
テオフィールは膝の上に置いた手を、また違った意味で握り直した。情けないと自分を嘲る気持ちは変わらない。しかし今度のそれは、気丈夫でいるためのまじないだった。
「オレは――」
「一緒に来てくれたら、おばあちゃんとっても喜ぶと思うんです」
二人の言葉が偶然重なる。テオフィールのか細い切り出しに、メルリアは気づかなかったのだ。
「ひいおじい様は――テオフィールさんは、おばあちゃんのお父さんです。嬉しくないわけ、ないです」
メルリアは奥歯を強く噛みしめ、喉の奥から溢れそうになる感情を抑えていた。
テオフィールはその言葉に息を詰めた。
彼女の肩が不自然に揺れている。溢れ出そうな感情を、胸の内に押し込んでいる。その意味は判っていた。
身寄りのない彼女にどうしてこんなことを言わせてしまったのだろう。どうしてこんな顔をさせてしまったのだろう。その答えも知っている。
自分が情けないからだ。
「うん……。そうだね。ごめんね」
テオフィールは握っていた手を解いた。そこにじわりと滲んだ汗が、体温を奪っていく。頼るものがなくなった体にはどこか違和感があった。落ち着かない、と胸の内が訴えかける。力の抜けた手が震える。テオフィールは右手に目を向けた。本当に情けない――そう自嘲して、メルリアに向き合う。
「一緒に行こうか」
震えは喉の奥へ、緊張がそのまま現れたような声が漏れる。口の端までもが震えていた。顔にはぎこちない笑みが張り付いている。
たった一言、なんとか絞り出したその言葉に、メルリアは目を輝かせた。そうして、何度も何度も力強く頷く。彼女は曾祖父の心の内を知るよしもない。だからこそ、綻ぶ笑顔は眩しいほどに輝いていた。
その眩しさに、テオフィールは目を細める。
「でも、それなら早いほうがいいね。有明の夜を越えると枯れちゃうし……。今月できたのは特別綺麗だったから」
そして、再び窓の外に浮かぶ月を見つめた。彼のよく知る静かな月明かりだ。
月満草は新月の夜に茎や葉を伸ばし、幾望――満月の一日前になると、白いつぼみを綻ばせる。花は暁月まで綺麗な花を咲かせるが、その夜を過ぎると、花は枯れるように萎れてしまう。そしてまた、新月の夜に葉を伸ばし、成長を始める。
「メルリアがいいなら明日にでも行けるけど、どう?」
その言葉にメルリアは身を乗り出した。これを逃したら一月程度先になってしまうとなると、今行かない手はない。ぜひお願いします、と頭を下げようとしたが、頭の中にふと違う場所の映像が浮かぶ。
二日前に泊まった宿酒場の景色だった。食事を終えしばらく談笑した後、クライヴがおもむろに口を開いた。グローカスの街に一緒に行かないか、と。クライヴはシャムロックの話が終わってからと付け足していた。それに、今日はいいと断られた話の続きも気になる。
先約がある。けれど、月満草も生き物だという。目を閉じ、ついさっき見た中庭の風景を思い出した。夜闇に密やかに咲く月満草。薄ぼんやりと光る様は決して眩しくなく、自然がもたらした静かな色だった。風に揺れると光の粉が静かに舞うあの景色に目を奪われた。どうやらあれは特別なものだったらしい。だとするなら、メルリアもロバータに同じ物を見てほしいと思った。
「約束があって……。日付、ずらしてもらえないか聞いてきます!」
不意に立ち上がると、飛び出すように部屋を後にした。その様子に気づいた乙夜鴉は羽を広げ、彼女の後を追う。
「いってらっしゃい」
走り去る背中に声をかけ、テオフィールは曾孫を見送った。その姿に、かつての小さな背中を重ね合わせる。
扉が閉まった音の余韻を耳に、彼は椅子に深く腰掛ける。空になったティーカップを月明かりにかざすと、その縁が青白く輝いた。
メルリアは普段よりも長めに夕食を取りながら、テオフィールとの時間を噛みしめる。まるで時が八年前に遡り、止まったような感覚があった。しかし時は変わらず、普段通り流れていく。
メルリアの笑顔が不意に止んだのは、喉の奥に空気のような異物感を覚えた時だった。そのまま目を細めて欠伸を漏らし、目頭に溜まった涙を指の背で拭う。
その様子を見つめたテオフィールは微笑した。ふと壁掛け時計に目をやると、彼の目が大きく見開かれる。咄嗟に曾孫へ手を伸ばそうとしたが、はっとして、それを膝の上に置いた。落ち着かない様子で膝の上の手を握ると、暗闇へ苦笑する。八歳の十時と、十八歳にとっての十時は異なる。おまけにヴィリディアンで十八は成人だ。もう大人なんだからとテオフィールは心の内で繰り返すと、メルリアに笑顔を向けた。
「そろそろ休む? ウェンディが部屋を用意してくれたから、今日は泊まっていってよ」
「ありがとうございます。……あ、その前にお尋ねしてもいいですか?」
テオフィールが大丈夫だよと笑顔で頷く。メルリアも笑顔を浮かべた。両目頭に溜まった涙をもう一度拭うと、椅子に座り直した。背筋を伸ばし、真っ直ぐ曾祖父を見つめる。
「月満草、おばあちゃんのお墓にお供えしたいんです。一輪、いただいてもよろしいでしょうか」
「もちろん。月満草の扱いはオレの一存じゃ決められないけど、二人とも駄目って言ったりしないと思うよ」
オレからもお願いしておくから、とテオフィールは笑った。
その様子に、メルリアはほっと安堵のため息をつく。そうすると同時に、脳裏にはロバータを思い浮かべていた。今日何度思い返したか分からない、大好きで、優しくて、温かい祖母の顔。交わした約束を二人で叶えることはできなかった。けれど、その約束はもうすぐ果たされる。
胸の内に染み渡るような、静かな喜びを感じながら目を伏せる。瞼の裏で、祖母の眠る墓石を思い浮かべた。祖母の墓に何度か花を供えたことはあった。祖母の命日には必ず。
そして、旅に出る前日にも。あの日、青々と晴れ渡った空には雲一つなく、供えた花の色が太陽の光を受け生き生きと輝いていた。その記憶を辿りながら、祈り終えた様子を思い出す。次に行く時は、これがあの約束の花だと報告できることが何よりも嬉しい。
記憶の中にある視界に、自分の薄汚れた靴が視界に入った。瞬間、はっと目を開く。こちらをじっと見ていたテオフィールと目が合った。切り出すのは今しかないだろう。
「あの、ひいおじいさま。おばあちゃんのお墓参り、一緒に来て欲しいです」
「オレ?」
テオフィールは目を丸くして、自分を指さした。メルリアは深く頷いて返答を待つ。微動だにせぬ様子は、彼女が本気である証拠だった。
薄く開いた口を閉じる。軽く笑って、冗談のように流せるような雰囲気ではない。正面からぶつけられたメルリアの問いを受け止めざるを得なかった。真面目にその問いに向き合い、しばし逡巡する。断る、という判断を迷わせるのは、メルリアの真っ直ぐな瞳だ。行く、という判断を迷わせるのは、自分の過去だ。揺れる視線は窓の外へ。夜空に浮かぶ月は痩せ始めていた。かといって下弦ほど鋭くはなく、朔の月にはまだ余裕がある。不意に右足首がチクリと痛む。その感覚は先ほどまであった足枷のものと繋がった。冷たく重い鎖の感覚は未だ生々しく足にまとわりついている。あなたはすぐに逃げるから、と冷たく吐き捨てたウェンディの言葉と共に。
テオフィールは膝の上に置いた手を、また違った意味で握り直した。情けないと自分を嘲る気持ちは変わらない。しかし今度のそれは、気丈夫でいるためのまじないだった。
「オレは――」
「一緒に来てくれたら、おばあちゃんとっても喜ぶと思うんです」
二人の言葉が偶然重なる。テオフィールのか細い切り出しに、メルリアは気づかなかったのだ。
「ひいおじい様は――テオフィールさんは、おばあちゃんのお父さんです。嬉しくないわけ、ないです」
メルリアは奥歯を強く噛みしめ、喉の奥から溢れそうになる感情を抑えていた。
テオフィールはその言葉に息を詰めた。
彼女の肩が不自然に揺れている。溢れ出そうな感情を、胸の内に押し込んでいる。その意味は判っていた。
身寄りのない彼女にどうしてこんなことを言わせてしまったのだろう。どうしてこんな顔をさせてしまったのだろう。その答えも知っている。
自分が情けないからだ。
「うん……。そうだね。ごめんね」
テオフィールは握っていた手を解いた。そこにじわりと滲んだ汗が、体温を奪っていく。頼るものがなくなった体にはどこか違和感があった。落ち着かない、と胸の内が訴えかける。力の抜けた手が震える。テオフィールは右手に目を向けた。本当に情けない――そう自嘲して、メルリアに向き合う。
「一緒に行こうか」
震えは喉の奥へ、緊張がそのまま現れたような声が漏れる。口の端までもが震えていた。顔にはぎこちない笑みが張り付いている。
たった一言、なんとか絞り出したその言葉に、メルリアは目を輝かせた。そうして、何度も何度も力強く頷く。彼女は曾祖父の心の内を知るよしもない。だからこそ、綻ぶ笑顔は眩しいほどに輝いていた。
その眩しさに、テオフィールは目を細める。
「でも、それなら早いほうがいいね。有明の夜を越えると枯れちゃうし……。今月できたのは特別綺麗だったから」
そして、再び窓の外に浮かぶ月を見つめた。彼のよく知る静かな月明かりだ。
月満草は新月の夜に茎や葉を伸ばし、幾望――満月の一日前になると、白いつぼみを綻ばせる。花は暁月まで綺麗な花を咲かせるが、その夜を過ぎると、花は枯れるように萎れてしまう。そしてまた、新月の夜に葉を伸ばし、成長を始める。
「メルリアがいいなら明日にでも行けるけど、どう?」
その言葉にメルリアは身を乗り出した。これを逃したら一月程度先になってしまうとなると、今行かない手はない。ぜひお願いします、と頭を下げようとしたが、頭の中にふと違う場所の映像が浮かぶ。
二日前に泊まった宿酒場の景色だった。食事を終えしばらく談笑した後、クライヴがおもむろに口を開いた。グローカスの街に一緒に行かないか、と。クライヴはシャムロックの話が終わってからと付け足していた。それに、今日はいいと断られた話の続きも気になる。
先約がある。けれど、月満草も生き物だという。目を閉じ、ついさっき見た中庭の風景を思い出した。夜闇に密やかに咲く月満草。薄ぼんやりと光る様は決して眩しくなく、自然がもたらした静かな色だった。風に揺れると光の粉が静かに舞うあの景色に目を奪われた。どうやらあれは特別なものだったらしい。だとするなら、メルリアもロバータに同じ物を見てほしいと思った。
「約束があって……。日付、ずらしてもらえないか聞いてきます!」
不意に立ち上がると、飛び出すように部屋を後にした。その様子に気づいた乙夜鴉は羽を広げ、彼女の後を追う。
「いってらっしゃい」
走り去る背中に声をかけ、テオフィールは曾孫を見送った。その姿に、かつての小さな背中を重ね合わせる。
扉が閉まった音の余韻を耳に、彼は椅子に深く腰掛ける。空になったティーカップを月明かりにかざすと、その縁が青白く輝いた。