第84話 翌日、待ちぼうけ

文字数 4,998文字

 翌日、メルリアは宿酒場で待ちぼうけを食っていた。
 一人きりで昼食を終えると、受付前のソファに腰掛け、階段の奥を凝視する。知らない人の姿が見えるたび、肩を落とした。
 今日はまだクライヴと顔を合わせていない。普段ならばとっくに起きているはずなのに。あまりにも見えないせいで、受付に名前がまだあるか確認に行ってしまった。それが杞憂に終わり安堵したが――しかし、どうするべきか。右手が、迷うようにソファと膝の間を交互に行き来する。落ち着かない。急いでいるわけではないのに、先ほどから時計が気になって仕方がない。間もなく午後の一時。さすがに遅すぎる……と、眉を寄せた。
 そんな中、階段の奥から新しい人影があった。こちらに気がつくと、静かな足取りで近づいてくる。その音を耳に、メルリアは顔を上げた。視界に入った人物に気づくなり、慌てて立ち上がる。シャムロックだ。彼は旅支度を済ませ、例の外套を羽織っている。フードはしていなかった。
「メルリアひとりか?」
「はい。あの、クライヴさん、起きてこなくって……、どうしたら……」
「大丈夫だ」
 肩を落とすメルリアを見て、シャムロックは優しく微笑みかけると、向かいのソファに腰掛けた。彼の声は穏やかなものであり、日中街道を歩く時のような焼けた声にはとても聞こえない。
「昨日の夜中、クライヴとここで会ったんだ。俺が随分長話に付き合わせてしまったせいだろう、睡眠が足りていないのかもしれない」
 メルリアは、ほっと胸をなで下ろした。体の力が抜け、そのまま腰を下ろした。
 起きてこないだけでも心配になるが、彼には件の体調がある。何か、大変なことになっているのではないか――それが気がかりだった。寝不足であれば心配はいらないだろう。もう一度階段へと視線を向けるが、上り下りする人の気配はなかった。しかし、今はもう安心して彼を待つことができる。無意識に強ばっていた表情が、自然に緩んでいく。
 そんな中、欠伸の声が一つ。そちらを見ると、シャムロックが目尻に溜まった涙を指の背で拭っていた。
「シャムロックさんもまだ眠いんですか? あ、そういえば夜型でしたよね」
 シャムロックはただただ頷く。言葉はない。もう一度大きな欠伸をすると、ゆっくりと瞬きを繰り返した。再び目の端に涙が溜まり、零れ落ちそうになる。それを拭う様子を遠慮がちに覗うメルリアは、外套の裏側に施されている、細かな金の刺繍に気がついた。なにか大きな模様が描かれているようだ。宿酒場の明かりでわずかに顔を出したそれは、生地の黒に飲み込まれる。
「その外套、背中に大きい模様があるんですか?」
「ああ……どうやら意味がある形らしいな。背の部分は外側と内側でそれぞれ異なる装飾が施されていた」
 シャムロックは眠たげに頷いた。どこか他人事で曖昧な言葉しか返ってこないのは、それがアラキナに押しつけられた物だからである。老婆特製、謎の魔法具であり、効果の詳細は当事者同士しか知らない。リタ曰く試作かつ実験作らしいが、細やかな刺繍やずっしりとした重みの布は、とても試作品には見えない。腕や肩、腹部や足下から奥へ伸びる金の装飾は、じっくり見ると植物の蔦と似ている。
「あの、背中のところ……、見てもいいですか?」
「構わない」
 メルリアは立ち上がると、シャムロックの背後へ向かった。漆黒の外套の裏側には、夜の月に似た大きな円形と、そこにかかる細い雲のような糸が幾重にも重なっている。それらはとても複雑で、どこか異国のような雰囲気があった。肩には文字らしき模様があり、彼女はそれをじっと見つめた。こんな複雑な装飾を持つ外套に、どんな言葉が記されいているのか興味深い。だが、普段使う言葉の文字とは異なる形で、意味を理解することはできない。ネフリティスの工房で見たものとよく似ていた。特に、一番はじめの文字と、三番目の文字には特に見覚えがある。
 詳細が気にはなるが、読めないのだから仕方がない。ありがとうございました、とシャムロックの背中に礼を言うと、メルリアはソファに腰掛ける。階段の奥を気にかけたが、やはり人の気配はなかった。
「すごく綺麗でした。神秘的っていうか……、肩のところの文字も読めたらよかったのに」
 ぽつりと言葉を漏らして苦笑すると、シャムロックは顔を上げた。
「あれが文字だと分かるのか?」
「はい。ネフリティスさんのところでお世話になっていた時、似たような文字を見たので……」
 メルリアがかつての記憶をたどると、それは鮮明に脳裏に蘇る。
 ――それは、ネフリティスに「最後の仕事」を頼まれた時のこと。
 メルリアは言われるまま、意味の通らない言葉を代筆した。その下にネフリティスが、読めない文字で何かの文章らしきものを書き記していた。その時見たインクの塊のいくつかが、この外套にも記されていたのだ。
「そういえば、メルリアはネフリティスに花のことを聞きに行ったのだったな。何か手がかりは掴めたか?」
 何気なくシャムロックが尋ねると、メルリアは背筋を伸ばした。本題を切り出そうと短く吸った息を、喉の奥でいったん止める。吐き出そうと思った言葉もそこで途切れた。笑顔が次第に固まって、そのまま動きまでもぱったりと止まってしまう。
「どうした?」
 笑っているようで笑っていない――まるで言葉を失ったような表情に、シャムロックは疑わしげに眉を寄せた。いくらネフリティスとはいえ、彼女に全くヒントを与えないと言うことはないだろう。錬金術師である彼女であっても知らないことだった? いや、どちらにしても事の顛末を尋ねなければ。
 どうしたのかと声をかけると、彼女の体がびくりと反応する。やがて、風船から空気が抜けていくように、肩に入っていた力が緩んでいく。メルリアはゆっくり顔を上げると、弱々しく笑顔を作った。
「ネフリティスさんはご存じみたいだったんですけれど、あの花についてはシャムロックさんの方が詳しいだろうって……」
「俺が?」
 ふむ、とシャムロックは腕を組む。錬金術師であるネフリティスの方が、自分よりも遥かに植物には詳しいはずだ。自分が知ることと言えば――。頭を捻りながら、苦笑を浮かべる彼女へ問う。
「メルリアの探している花はどういう特徴なんだ? そういえば聞いてなかっ……」
「く、クライヴさんの話が先です! 私は後で」
 ネフリティスの言葉の真意と、自分の詳しいという花。それらを探りつつ問いかけると、話半ばでメルリアが身を乗り出した。話を遮るように言葉を重ね、姿勢を正す。
 突然のことにシャムロックは瞠目したが、やがてくすりと笑みを零した。
 メルリアはその様子に気づかず、ただひたすらに首を横に振っている。
「クライヴの話は答えが用意できている。メルリアの話にも、今から答えを用意しておきたい」
 メルリアは返事ができなかった。シャムロックの言うことはもっともだが、やはりどこか嘘をついたような――抜け駆けのような、そんな申し訳なさと居心地の悪さがあった。しかし、自分は他人を頼る立場にある。我がままを通すのは気が引けた。
「えっと……」
 しばらく考えた後、ぎこちなく頷く。
 静かに目を閉じ、過去にロバータと触れたあの花のことを思い出した。優しくこちらに微笑みかける、大好きな祖母の姿。少し骨張った手の上で、あの柔らかく白い花がそっと光っていた。幼い自分はその花を食い入るように見つめている。試しに触れてみたら、ぼんやりとした光がさらに輝きを増して、なんとも言えぬ幻想的な光景だった――。
 あの日の記憶を思い返しながら、ゆっくりと口を開いた。
「……白い花です。形は百合に似てて、釣鐘状で。でもそこまで大きくなくって、花自体は大人の女性の手に収まるくらいなんです。茎の高さも……たぶん、背の低いチューリップくらいで」
 ここまでは誰にも問題なく話せる、けれど。
 ゆっくりと目を開き、相手の様子をうかがった。向かいに座るシャムロックは、その特徴を手帳に書き記している。ペンを走らせる動きが止まり、今まで書いた文字に目を通した。やがて、ほんのわずかに表情が強ばる。それを見るなり、メルリアは視線を逸らした。自分の追い求めている花自体を知っているかどうか、期待と不安もある。しかしそれ以上に、これ以上のことを伝えるのは抵抗があった。恐怖もあった。シャムロックはあんな反応をしないと分かっていても、過去の経験が、どうしてもここで言葉を詰まらせてしまう。けれど、ロバータとの約束のためには聞かなくてはならない。喩え自分が嗤われようとも。無意識に、奥歯を強く噛んでしまう。いつかこの力を抜いて、口を開かなければならない――しかし意思に反し、唇がぎゅっと固く結ぶ。
 その時、手帳から顔を上げたシャムロックと目が合った。
「メルリアはそれをどこで見たんだ?」
「祖母からです。祖母がもらったって見せてくれました。誰にもらったかは知らないんですけれど……」
 あの日、その花を手にした祖母はどこか嬉しそうに、どこか遠くを見るように笑っていた。けれどその表情を見たのは一瞬だけ。すぐにロバータは屈託ない笑みを浮かべた。メルリアが目を輝かせると、いっそう嬉しそうに。
 メルリアは祖母の表情を思い起こしながら、ぼうっと石造りの壁を見つめていた。やがて石の継ぎ目が混ざり、濃い灰色一色へと変わっていく。その一色に、かつての風景が浮かび上がった。
「その花……、花弁がわずかに光ったのではないか?」
 シャムロックの一言に、メルリアの意識が現実へと引き戻された。
「えっ――!」
 思わず立ち上がり、シャムロックの顔をまじまじと見つめてしまう。彼は普段と変わらず落ち着いた表情をしていた。辛うじて違うところがあるとするならば、眉間に薄い皺が寄っていることくらいで。
 こちらの横を通り過ぎていた大男が、突然のことに立ち止まる。周囲から視線を集めている事に気づき、メルリアは慌てて座り直した。しかし心臓はバクバクと脈打っており、自然と乱れた呼吸も簡単には治まらない。
「そ、そうです」
 ほんの少し上擦った声で、メルリアは何度も何度も頷いた。
 シャムロックは嘘を言うような人ではない。左胸に手を当てながら、ネフリティスの言葉を思い返す。あの言葉を疑ったわけではなかったけれど、本当に心当たりがあるとは思わなかった。あの花のこと、どこまで知っているのだろうか? 花の名前は多分知っているはずだ。だったら、咲く時期は? 自生している場所は? それさえ分かれば、メルリアの旅は終わる。
 やっと手がかりがつかめる。それを求めようと手を伸ばしかけて、やはりそこで引っ込めた。
 ……私が先じゃない。
 うずうずと落ち着かない様子を見かねたシャムロックが、くすりと一つ笑みを零す。
「メルリアはその花をどうしたいんだ?」
 おばあちゃん、と口に出かけた言葉を飲み込んでから、メルリアはもう一度口を開いた。
「祖母のお墓にお供えしたいんです。生前、祖母と一緒に探そうって約束をしていたので……。でも、それが難しいなら、見るだけでもいいんです」
 恐らくとても入手が困難な植物なのだろう、とメルリアは結論づけていた。国一番のヴェルディグリ図書館でも、自分の探している花の情報は見つからなかった。だから、それは崖の上に咲くたった一輪の花のように険しい、あるいは危険な場所にしか咲けないのだとか、もしくは、貴重であるが故に需要も高い、だとか。叶うことなら祖母に見せたいが、最悪自分が一目見るだけでも構わない。見つかったと報告をするだけでも、きっと喜んでくれるだろうから。
 遠くで眠る祖母に思いを馳せながら、カーテンの奥から差し込む外の光に視線を向けた。カーテン越しからでも分かるほどそれは強くなく、今日も外は曇天の灰の空が広がっているのだろう。けれど、周囲をはっきりと照らすだけの光は失われていない。
「大丈夫だ。近いうちに必ず叶う」
 どこか力強い言葉に、メルリアは彼へ向き直る。明るさの違いに視界がチカチカしたが、彼の纏う外套を見つめていると、不思議と目が慣れていた。やがて、彼の赤い瞳がこちらを見据えていた事に気づく。その表情は、優しさを帯びていた。
「ありがとうございます」
 シャムロックの言葉を素直に受け止め、メルリアも同じように微笑んだ。
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登場人物紹介

◆登場人物一覧

┗並びは初登場順です。

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メルリア・ベル


17歳。

お人好し。困っている人は放っておけない。

祖母との叶わなかった約束を果たすため、ヴィリディアンを旅することになる。

フィリス・コールズ


16歳。

曖昧な事が嫌いで無駄を嫌う。
シーバの街で、両親と共に「みさきの家」という飲食店を経営している。

クライヴ・シーウェル


22歳。

真面目。お人好しその2。

理由あって旅をしており、メルリアとよく会う。

ネフリティス


27歳(人間換算)

都市に工房を持つエルフの錬金術師。

多少ずぼらでサバサバしている。

イリス・ゾラ


21歳。

隣国ルーフスの魔術師。闇属性。

曲がったことが嫌い。

リタ・ランズ


16歳(人間換算)

魔女の村ミスルトーで暮らしているエルフ。
アラキナのストッパー兼村一番のしっかり者。

ウェンディ・アスター


不明(20代後半くらいに見える)

街道の外れの屋敷で働くメイド。

屋敷の中で一番力が強い。

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